見出し画像

「漫才過剰考察」を読んで思うがままに2000文字くらい書く。

お笑いは、好きでも嫌いでもないのだが、実はよくお笑いライブを観ている。
私は、誘われたら基本的に断らない。なので、手売りのチケットでも勧められれば買い、誘われれば当日であろうとも予定が空いていれば行く。もらったチケットの整理券番号が1桁でちょっとだけ気が重いライブも行く。空気に耐えらえなさそうな場合は、飲めない酒を装備して会場の中に入ることもある。
空いた席を埋めるための要員であることもあるし、道端の手売りのチケットを買うこともある。

なので、お笑いのライブは結構観ていたりする。
M1 1-2回戦で敗退するような芸人のライブを観てなんとか良さを見出そうとすることもあるし、お腹が捩れるほど笑う日もある。

いずれの興行も頑張ってる人たちの手前、良かったところ、つまるところ共感するところを探すことに終始することになる。

本稿は、「漫才過剰考察」を読んで思うがままに書いている。多少ネタバレもあるので、これから読むという人は、下記リンクから本書を購入して読んだ後、下の項に読み進められたし。

今回、薦められて読んだ「漫才過剰考察」は、令和ロマン 高比良くるまが自分の気持ちをのせるがままに、M1を語るところから始まる。
書き手の興がのっている文章は面白い。

しかし、お笑いライブはちょこちょこ観に行くものの、出会いのまま、誘われるがままの私の知識は相当偏っているし、M1決勝戦などは、お笑いライブに足を運ぶくせに結果もろくに知らない。

お笑い芸人から、結果発表のたびに泥酔しているのに、いざその瞬間になると素面に戻ってしまうなんて話を聞いても、なんだかリアルを感じられなかった。

「漫才過剰考察」のM1の項を読むと、じわじわと芸人たちにとってのM1が形と熱を帯びてきた。吐きそうになりながら結果を待っていた彼らのリアルが感じられてきたのだ。

それとともに、ずっと床を舐めている2回戦芸人たちがなぜ勝ち上がれないかもくっきりとしてくる。大抵の床舐め芸人のネタはとにもかくにもわかりづらい。一生懸命波に乗ってあげようと思うもののなかなかテイクオフできない。なんなら舞台のその足元まで笑いを受け取りに行こうと思ってるくらいなのだが、それすらどこに落ちているかわからない。

「漫才過剰考察」では、M1トップをはしる芸人たちの緻密な作戦、それでも何か歯車が合わない時の違和感をストレートに理解させてくれる。語り口に小気味の良さがあり、リズムがあるので、漫才とは、M1とは、割と速いテンポの三拍子で理解させられてしまう。三拍子なのがなかなかに憎い。

寄席の項では、パワーの東京のフレーズで、漫才じゃないけど、志の輔師匠を思い出した。確かにパワーあるよな。なんというか、ストリートファイターで言ったらベガかな。蕎麦をすすっているだけなのにサイコパワー出てる。漫才なら僕はやっぱりナイツが好きです。

スピードの大阪は、納得というかしっくりくる。漫才ともなればボケもツッコミも一緒に喋ってる。高速で空手の型を観ている感じだ。ミルクボーイも勢いの中に型が見えるんだけど、またそれがsound goodなわけ。僕は、すゑひろがりずのライブネタが好きです。

大阪人とLINEをよくするのだが、大阪人とのLINEは基本的に漫才なので、よくよく考えたら常に型を意識している。

上方のポッドキャストが気持ちいいのはこれが理由か。

ポッドキャストといえば、ヤングタウンも結構好きなのだけど、福島のぶひろの上方の型と錦笑亭満堂がなかなか噛み合わないのが敗因かな。と素人ながら思う。僕は2人のポッドキャストが好きなので、また頑張ってほしい。

それから本書は、YouTube、ポッドキャストは、北のお笑いだと分析する。HIKAKINとかはじめしゃちょーが北の出身だからということからだが、YouTubeやポッドキャストは、内輪の要素、内向的、画面に対する熱量が高いと分析している。

確かに田舎は、画面の中でしかエンタメに触れられないことが多い。かくいう私もそうだった。ちなみに、北の方はボケすぎるという下りには少々思い当たる節があり、少し反省した。

一方で、西のお笑いとは、つまるところライブなのかな、と思った。

ライブというのは怖いもので、うっかりすると、狭い空間で虐待に遭うこともある。舞台に虐待されるなんてどういうことだ?と思うかもしれないが、それくらいパワーが直で感じられるということだ。
興行というのは、もちろんみんな一生懸命なのだろうけれど、いたたまれない気持ちになることもあれば、密室でとにかく虐待されるようなシチュエーションもあるのだ。

大きな声で、長時間楽しそうにいじめをする舞台があった。問題提起をするための大事なシーンなのはわかるのだが、明らかに時間配分がおかしい。それから根底に本を書いた人間のドス黒い闇が見え隠れし、とにかく問題のシーンが長いし、演者が実に楽しそうなのだ。最後はハッピーエンドの舞台なのに、無駄に迫力ある演技を狭い空間で延々と観せられ終わる頃には、げっそりとしてしまった。本当にちょっと体調を崩すほどに。

お笑いライブもそうで、笑えなければ観客も軽度ではあるが精神ダメージを負う。理解できなければ、なんだか辛い気持ちになったりもする。そういうものなのだ。

なので、そういった気持ちを持たせないようにするために上方の型はできていったのではないか。こうすれば、みんな嫌な思いをすることがないし、笑って楽しい気持ちで家路につける。

上方の漫才、そして落語なんかもそうかな。
この面白いが型となっているものは、本書が言うとおり、海外でも理解してもらえるかもしれない。

面白いというのは、共感なのだと「好きを言語化する技術」で三宅香帆は書いていた。
今は空前の考察ブームだ。考察とは本来見えないパンツの中まで考えると言うことだ。
M1をひとつの舞台として考察しまくる高比良くるまは、間違いなくクレイジーで、主人公でそうしてこれからも観客の共感をもっと掘り下げてグロテスクに作戦を練り続けるんだろう。

実を云うとここまで書いておいて、令和ロマンのネタはまだひとつも観たことがないんだ。
どこかで、きっととても人気なのだろうけど、ライブで観てみたいものだ。

いいなと思ったら応援しよう!