「いのちの瞑想」 全曲解説
2024年3月16日、アルバム「いのちの瞑想」を配信開始。
今作は、過去最長となる11ヶ月にわたる期間を経て制作。
アルバムに収録されている全9曲について、たわいもないエピソード、細かすぎる音作り等織り交ぜつつ、稚拙ながら解説してみようと思う。
アルバムは各種サブスクリプションにて配信中。下記リンクよりアクセス可能!
アルバムコンセプト
今作「いのちの瞑想」は、バンドの前作「深海と宇宙」(ハネモニアネモ)とは打って変わって、抽象的なテーマを構想した。一方で、楽曲を司る楽器構成であったり、アルバムの全体構成は類似するところが多い。ガットギターを中心に据えたバンドサウンド、それを取り巻く装飾、そしてコンセプトを軸として一体となったアルバム単位での表現。音楽を「映像のない映画」として表現することの可能性を、まだまだ追求していきたい所存である。
それはさておき、今作のコンセプトとなったテーマについて解説していくが、これはあくまで作者の構想であり、幻想でもある。もしあなたが全く違う世界を妄想したのなら、それも正しい。今作を抽象的なテーマで取り組んだのは、ある程度の解釈を委ねることで表現の可能性を広げる意味も含んでいる。なので、あくまで解釈の一例として捉えていただきたい。
タイトルは「いのちの瞑想」。端的に言えば、「いのち」は「音」を想定しており、「音」の終わらない生命をアルバムを通して描いた。映画のような音楽を、映画でなく音楽で表現する意味は何かを考えた時、視覚の想像を掻き立てるものではなく、「視覚」を完全に排除した表現をしたいと考えた。「音」は我々を視認できないし、我々が視認することもできない。「音」の世界に視覚は存在しない。「瞑想」とはまさに、音の世界では世の常である。アルバム内では、ガットギターと歌を主人公とし、その他の音(いのち)との整合・矛盾・調和・不調和など、様々な絡み合いが生まれている。言うなれば、主人公とその環境、すなわち人生を聴覚情報だけで表現している。
ジャケットのアートワークも手がけ、暗黒(無)の中で「瞑想」を行う眼を描いた。眼の裏に広がっているであろう極彩色は、こちらから視認できない豊かな音世界を表現している。
M1. 生きている
アルバムはこの曲から始まる。鼓動の音、そして声のみから始まり、次第に音のレイヤーが増えていく。主人公は周囲の音たちに様々な感性を働かせ、「生きている」ことを実感していく。
本楽曲は、23年4月に作曲し、アルバムで一番最初に編曲まで終わらせた曲でもある。はじめkey=Dを想定していたが、想像以上に声が高すぎて楽曲の落ち着きがなくなるので、結局Aに変更。序盤は、声と、声を加工した音のみで構成されている。メインの声をchase bliss audioのエフェクター「LOSSY」で加工することで不完全さを出すとともに、「MOOD」や「blooper」等のノブを手で弄ることで、リアルな「生(せい)」を感じる質感を醸し出した。また、冒頭の歌詞では、「掠れた声(聴覚)」「潰れた形(触覚)」「雲の味(味覚)」「空の香り(嗅覚)」と、視覚のない世界で生きている様子を描いている。歌詞においては、この曲を含めアルバム内で視覚的な表現は使われていない。
楽曲後半では、様々な楽器が無造作に鳴り響くが、人間の演奏する生楽器ばかりであり(Trumpet:飯間朱音、Bass:千原康太郎)、人情が渋滞している。この溢れすぎているパワーが、まさに楽曲のコンセプト通り、視覚がなくとも目に余るほどの情景と言えそうだ。
M2. 祭囃子
23年8月作曲。メロディ案は22年の夏頃から存在していた。様々な音たちが集まって踊る場所ような、音のユートピアを描いた。喜怒哀楽で言うと、「喜」や「楽」がテーマである。
この曲は、とにかく暴れまくるハイ・テンションな音がたくさん欲しかった。民族音楽の要素を織り交ぜ、たくさんの暴れ回る音たちを受け止められるような場所(国)が、この楽曲そのものである。ドラムはタムを鳴らし続ける太鼓のようなサウンドで、ケルト音楽で使われるティンホイッスルや、その他パーカッションを多用。ギターでは、エフェクター紹介動画で有名なメロンパンさん制作のzoiaパッチ「HAINO GLITCH V2」を使用。
途中の凶暴なギターソロは、Fuzz Factoryを用いている。わざとヘタクソに弾きたく、REC前に懸垂で腕を虐めるなど。納得のいく「ヘタクソさ」が中々録れず、苦労した記憶がある。変なところに力を入れて引くと、翌日は筋肉痛になる。
ホーンアレンジはTrumpetを吹いてくれた飯間朱音が担当。「楽曲の入りで破壊力が欲しい」と適当なお願いをしたまでに、RECで少々苦戦したが、結果として中々にクレイジーなトランペットとトロンボーン(:高藤友菜)が録れた。MIXではホーンにビットクラッシュをかけ、ビットレートをオートメーションで動かしている。
M3. (-_- . o O
瞑想してそうな絵文字がかわいい3曲目。ユートピアは束の間、やがて現実へと引き戻される。「音」を覚えた後、音にあてる言葉をさがす旅へ。
M2.祭囃子の編曲後に引き続いて作曲。バックで基調となっているのはギターのサウンドである。ギターにサスティナーを置き、merisのHEDRA(3声ピッチシフター)を用いて音階を奏で、さらにThermae, Reverse Mode C(chase bliss)、DD-500(BOSS)、abracadabra(Bananana Effects)等の多種多様なエフェクターを用いて加工している。メインボーカルはピアノに合わせたボコーダーで出し、入力音を一文字ずつサンプリングして所々に重ねている。パーカスは、京都の民族楽器コイズミで入手したスプリングドラムを入れてみたり、グロッケンのボウイングを入れてみたり。バンド時代に培ったアンビエントライブでの常套手段をたくさん盛り込み、改めて作品として残せたことに満足である。
コーラスは、フォルマントを上げた声の大群。過去作でも毎回この声を入れてるが、前作の「深海と宇宙」同様、「個人として認識していない凡な生き物」として用いている。フォルマントを上げると人の声は個性を失う。それを逆手に取った表現手法として多用している。そして何よりちっちゃい生物みたいでかわいい!
M4. 幽霊船
どうやらまだ夢の中にいて、これまでの煩いほどの記憶が離れないようだ。数々の残像に、幽霊船のように操られ、路頭に迷う。
主に本楽曲の制作に取り組んでいたのは23年6月頃で、3番目に完成した曲だ。しかし、前半部分は確か22年末ごろと随分前に作っていたもので、まだ広島で学生をしていた頃、深夜にセブンイレブンへ行く道中で思いついたものだ。
壊れた「残像」のようなピアノやギターの音にはFairfield CircuitryのShallow Waterをかけており、ふにゃふにゃにしている。特にギターはShallow Waterをかけた後、Habit(chase bliss)のmemory内に投入し、auto scanで記憶を辿るような音を出している。
その他、所有しているありったけのパーカッションを入れた。ダイソーのキーホルダーの鈴や、謎の鎖の音も入ってる。ブレイクのように入るマンジーラの音は、最初チャリのベルがいいかと思ったが、RECが面倒なのでやめた。本当はいいティンシャを持っていれば使いたかったが…。後半部分で登場するティンホイッスルやスライドホイッスルの音は、息遣いで揺れる音程が極めて生々しく、怪奇的である。
後半部分の作詞および作曲は23年5月に行った。当時、会社の実習で3週間ホテル生活をしており、楽器のない環境に幽閉されていたが、いつでも楽器を手に取れる環境を離れると、不思議と曲が湧いてくるのだ。この曲に加え、後述する「M7.ハンマーヘッドは知らない」も、この何もないホテルで完成した。
後半のトロンボーンは、「トロンボーンだからこそ出せるような怪しい音を出して欲しい」というこれまた雑なお願いをしたが、さすが高藤さん、このトロンボーンが入って一気に雰囲気が出た。その他ギターの音は12-stageのフェザーや、SY-300(BOSS)の良い意味で抜けの悪い音を重ねてみたり。ピアノを入れるとだいぶピアノメインな感じになってしまったが、「迷い」を感じるような、怪しい雰囲気を助長するサウンドになったと思う。言葉を憶えた声の大群のコーラスは、逆再生で歌って元に戻すことで、言葉に不器用な様子を醸し出している。
M5. ことだま
路頭に迷った先にある、混沌とした現実。そこで生き抜く生命の力強さを表現した。前曲の「幽霊船」と一部コード進行が同じであり、夢から現への変化を確かに感じ取れる。
本楽曲は24年2月、アルバム内で最後に完成した楽曲だが、22年12月に作曲は完成しており、ブランク期間がとても長い。当時のバンドメンバー(vn.原誠実)と何か曲でも作ろうという謎の会が年の瀬に開かれ、その時に出来た曲である。8分の11のアルペジオが完成した時点で、この曲はアレンジが超絶大変になることが確定していたので、最後まで手をつけずに放ってたと言った方が正しい。夏休みの自由研究を最後にやるあれだ。
8分の11拍子でアドリブソロをいとも簡単に吹き上げるTrumpetの飯間朱音。彼女のジャズトランペッターとしての豊富なキャリアが伺える。ホーンセクションの2人とも、後半にかけての豊かな表現力は流石である。
この曲でもギターはエフェクターを多用したサウンドを奏でている。Whammy、DL4、blooper、zoiaなど。ラストで壮大に広がるシンセ音はギターで出しており、merisのENZOでGlideを上げたPolyモードの音である。merisのギターシンセは、同系統のエフェクター内でもトップを争う音質の良さで、非常に使い勝手が良く、唯一無二であり、他の曲でも多様している。
ドラムには歪みをかけたり、グリッチをかけてより複雑に細かく刻んでいたりする。珍しく比較的まともなドラムであり、オルタナティブロックバンドの編曲をやっていた頃以来の感触で懐かしく、案外すんなり完成した。
M6. 天使と孤児
天使と孤児(みなしご)。混沌から抜け、孤独になる。視覚のない世界での孤独は、我々の想像以上のものである。天使は、心の拠り所としての概念である。
23年10月作曲。当初、ラストの転調後を盛り上げてゴスペルチックにしようと考えていたが、ひとまずガットギターと声を録ってみると「これで十分すぎるくらいいいじゃん」となり、弾き語りの曲で仕上げた。この素朴な感じが、孤児というイメージにもマッチしている。今回のアルバムの曲のガットギターは全てDADGADチューニング(一部CGDGAD)で弾いているが、弾き語りだとより一層その独特な雰囲気が際立つ。個人的に、この半音転調の仕方はとても気に入っている。
Aメロのメロディのみは22年頃から案としてあったが、その他の作詞・作曲は夜に近所の大きな公園を散歩しているときに出来上がった。
ラストの部分でうっすらバックに重ねているサウンドは、天使をイメージした。ギターサウンドに、merisのENZOのarpモードや、SY-300とSlicer、ReverseModeCを用いて作っている。
M7. ハンマーヘッドは知らない
ハンマーヘッドという別のいのちに感化され、己の人生に対する考え方を記した曲である。視覚情報のない中、いのちに彩(いろどり)を見出した時、音が言葉の次に持つものは感情である。そして、鳴らされるがままではなく、この先の生を自ら作り上げていくことを覚えた時、意志すら持つこともできる。
23年5月作曲。アルバム内で2番目にできた曲である。M4.幽霊船に先述の通り、楽器のないホテル環境で完成した曲である。「ハンマーヘッド」は仕事の実習で頭の硬い人を客観的に見たことから着想を得たが、曲内では一概に「頭の硬い人」として扱っているわけではなく、ある特定の他のいのちとして表現している。
そして、この曲で最も肝となっているのは、飯間朱音氏のトランペットだと思う。はじめにデモを依頼した時、この曲とトランペットの相性に自分でも驚いた。後半で繰り広げられるトランペットとJaguarのswellサウンドの掛け合いは、壮大な世界を想像させてくれる。
「ハンマーヘッド」との出会いで人生の頂点を迎え、このいのちは終盤へと差し掛かる。
M8. O o . -_-)
M3.「(-_- . o O」の対となるこの曲。音の人生の旅も終盤、えがいたいのちをいきるということを、改めてここで考える。ここまで生きていきた音は、感情や意志を持ち、ことばをどうするか?
M9.「わになる」と同時に制作。RECは23年12月頃。音作りの観点では、ボーカル・コーラス・ピアノ全てにchase blissのLOSSYをかけて音質劣化を図っている。こういった曲調ではやはりLOSSYが大活躍する。くっきりしすぎた色彩を滲ませるような、あるいは2次元の絵画に凹凸をつけるような、そういった立体的な音作りのために重要な役割を担ってくれる。
M9. わになる
音のいのちが感情を持ち、音の世界から光の世界へ旅立つまでを描いた。
ガットギターのフレーズは23年4月に作成。メロディは、23年7月頃にサウナでととのっている時に降りてきたが、元々は別の曲になる予定だった。ガットギターのフレーズに合うメロと歌詞が思いつかず、後者を無理やり合体させた。
音数も比較的少なく、落ち着いた曲調であるが、コーラスの数は最大でなんと50トラック!RECはもはや作業に近かった。
曲のラスト、ピアノフレーズの裏で鳴る音は、ギターのハーモニクスにchase blissのThermaeをかけている。身体に巡る血液の流れをイメージしており、Thermaeのアナログピッチシフトの質感がとてもマッチしている。後半にかけてGlideを上げていき、徐々に流動性が悪くなっていく動きは、音の世界での死を想起させる。
しかし、「音」のいのちの実態は、実は色も形もない「静寂」であり、それが無くなることはない。静寂の上に言葉や感情が重なり、色や形を持ついのちになる。静寂とは、音が持つすべてを排除した後に残るものであり、それを「生」に置き換えると「鼓動」になる。すなわち、ここでは静寂を鼓動として表現している。すべての音が消えた後、鼓動だけが残り、アルバムは最後を迎えるが、「音」のいのちは鼓動が続く限り死を迎えることはない。この鼓動音はアルバムの最初とも連結しており、また何度でもこのいのちをスタートさせることができる。「わになる」とはこの生まれ変わりのことである。
最後に
恐らく殆どの人が音楽を聴く時、そのシチュエーションや、過去の思い出など、何かしらの映像(視覚情報)を想起させながら聴いているのではないだろうか。私も普段はそうである。しかし、この作品は、視覚情報をできる限り連想させないような、音を音のまま楽しめる作品にしたかった。音という生命について、そのいのちの瞑想を記したこの作品。視覚情報から乖離した世界で、聴覚を研ぎ澄ませると、意識が及ばなかったものに気づくことがある。前頭葉を刺激するような大きな存在の音から、視覚を排除してはじめて聞こえてくるような潜在的な音まで、たくさんのいのちを込めた音楽であり、人生であり、世界である。
長く纏まりのない解説だったかもしれないが、以上のコンセプトを頭の片隅に置いた上で再度聴いてみると、また違った世界を体験できるかもしれない。ここまで読んでくださった皆様にとって、この作品が何かしら心が動くきっかけになればとても嬉しく思う。