【全文レポート公開】矢田部吉彦氏×木津毅氏 映画『ノーウェア デジタルリマスター版』上映後トーク開催!
映画『ノーウェアデジタルリマスター版』の公開を記念して、11月19日(火)にトークイベントを渋谷ホワイトシネクイントにて開催いたしました。映画への造詣が深い、前東京国際映画祭ディレクターの矢田部吉彦氏と、映画・音楽やクィア・カルチャーを中心にライターとして活動する木津毅氏をゲストに迎え、作品の魅力、グレッグ・アラキ監督が今再評価される意味について熱く語っていただきました。
非常に内容の濃い、作品の背景理解を助けるトークでしたので、以下にトーク全文を掲載させていただきます。
ぜひ、鑑賞前後の作品理解にお役立ていただければと思います。
進行:
本日は、矢田部さん、木津さんのお二人から「ノーウェア」そして、グレッグ・アラキについて、今彼が再評価されているということについて、伺えればと思います。
矢田部氏:
矢田部と申します。今みなさん『ノーウェア』をご覧いただいたところではございますが、まずは、木津さんのご感想を伺いするところから良いでしょうか?『ノーウェア』はどのように受け止めていらっしゃいますか?
木津氏:
はい、最初に自己紹介を軽くさせてもらおうと思うんですけど、僕、音楽と映画のライターなんですが、1984年生まれで、つまりグレッグ・アラキのこの2作ってリアルタイムではないんですよ。ちょっと後追い世代というか。なんですけれども、90年代の伝説みたいなものはギリギリ知っているちょっと中途半端な世代なんです。だからこの2作品って、劇場では見てないんですが、その後ビデオで見たりとかDVDで見たりとか、僕はゲイでゲイカルチャーのことを書いたりとかしているんですが、10代の時はゲイと名のつくものは片っ端から見るみたいなことをしていたので、グレッグ・アラキもその当時見ていました。その頃のことはなんとなくしか覚えてないんですが、アメリカで「ゲイネス」や「クィアネス」を表現するには、これくらい強烈なことをやらないといけないんだなって当時から感じていましたね。今回久しぶりに見直したんですけど、やっぱり色彩感覚の強烈さとか、あるいは出ている若者たちのキラキラした、でもどっか絶望も抱えているようなヒリヒリした感じとか、本当に鮮烈だなと思いました。あとすごくジーンとしましたね。本当に戦いだったんだなと。
当時アメリカで「クィアネス」を表現するっていうことは、これぐらい覚悟のいることだったし、ある種、突き抜けてそれをやるしかなかったんだみたいなところに感動してしまって。クィアカルチャーとして連綿と続くある種の戦いの歴史みたいなものが見えた感じがして、そこが今回の再発見としてすごく大きかったですね。
矢田部氏:
僕は19XX年生まれで、リアルタイムで青春の後期を送っていましたね。90年代でこれを見た時の衝撃っていう話もしたいと思うんですけれども、そして90年代の映画の文脈で僕は感慨深いところを少しお話したいと思うんですが、ちょうど95年が『ドゥーム・ジェネレーション』で97年が『ノーウェア』。90年代頭からアメリカのインディペンデント映画っていうのがガーッと盛り上がってきて、サンダンス映画祭が非常に注目を集めるようになって、そこから登場した超ウルトラスーパースターが、クウェンティン・タランティーノで、タランティーノが92年の『レザボアドックス』を出した時に、グレッグ・アラキの『リビング・エンド』が同じ年に出て、要はタランティーノがインディペンデントから出てきてメジャー映画へのブレイクスルーを完全に果たした勢いに乗るような形で、グレッグ・アラキっていう人もガーンと出てきたなと。
そこで『ノーウェア』という作品は、僕はその戦いの部分というのは詳しく生きてきたわけではないですけれども、いわゆる“セクシャリティ”今はかなり一般的な題材になりましたけれども、当時ゲイであること、あるいはバイセクシャルであること、またあるいはへテロセクシャルであることの垣根が全くない形で、爆発的なエネルギーで描くあり方に度肝を抜かれたという感じでしたね。インディペンデントとメジャーの垣根を越えて、そもそも今まであまりメジャーフィールドでは扱われにくかった題材もえブレイクスルーしたなというのがこの作品を見た時の印象でした。
で、なんか世代的に面白かったのがちょうど95年『ドゥーム・ジェネレーション』が出た時に、若者たちのセックスだったり、ドラッグだったり、あるいは暴力だったり、その周縁を描く作品が、アメリカとヨーロッパで同時多発的にドーンと出てきたっていう印象があるんですよね。あのラリー・クラークとハーモニー・コリンの『KIDS/キッズ』が95年で『ドゥーム・ジェネレーション』と同じ年ですよね。フランスには『憎しみ』(95)っていうパリ郊外の若者たちのエポックとなるような作品がでて、96年が『トレインスポッティング』ということですよね。そういった90年代中頃の若者カルチャー、あるいは若者の勢いを、『KIDS/キッズ』は若者カルチャーというよりは若者恐ろしい部分を描いているわけですけれども、そういった新しい映画が一気に出てきた中にグレッグ・アラキもいたなと、そんな印象をリアルタイムで覚えていましたね。
「今振り返られるのは必然。同時代性も感じるし、今観る価値がある」
木津氏:
僕は今回見直して、『ドゥーム・ジェネレーション』ってXジェネレーションってことだよなってすごく強烈に思ったんですよね。ちょっと個人的な話になっちゃうんですけど、僕のパートナーが1970年生まれのアメリカ人男性なんですよ。彼は50代半ばなんですけど、彼と映画見たりとか話してたりすると強烈にXジェネレーション性を感じるというか、全体化ができない話ではあるんですけれども、何か規範に逆らいたい感じとか、決め事みたいなものにとりあえず反抗してみる感じとかっていう、僕が90年代の映画を見ていて感じることと、彼と接していて感じている事ってすごく似ているんですよ。で、グレッグ・アラキ作品はさらにゲイネス、クィアネスっていうところが一つ乗っていて・・・そこも「規範に逆らう」ということだと思います。クィアって今、性的マイノリティの総称としてわりとフラットに使われている言葉ではあるんですが、もともと「変態」という言葉をひっくり返したものだったので、それだけ「規範に逆らう」っていうことを、すごく根っこに持っていて、そことXジェネレーション性みたいなものがすごく奇跡的に合致したのが特にこの時代だったのかなっていう感じはしていますね。
矢田部氏:
その部分といわゆるジャンル映画の要素も大胆に盛り込んでくるところもグレッグ・アラキの特徴だと思うんですよね。『ノーウェア』はまさにモンスターが出てきますし。『ドゥーム・ジェネレーション』にも不思議な世界があるわけですよね。で当時のこれまた90年代にアメリカのインディーズで「トロマ」(*トロマ・エンターテイメント)っていうですね。B級ホラー的なものを作る制作会社がカルト的な人気を誇ったり、それはもうかなりB級のインディペンデントなんですけれども、そういったジャンルの垣根を超えるという意味でも、また一つグレッグ・アラキの特徴なのかなというふうに思いますね。
木津氏:
そうですね。今ご覧いただいた『ノーウェア』は「ビバリーヒルズ青春白書」みたいな、ある種チージーな青春劇っていうのを利用して、でも自分の味付けにするっていうアイディアですよね。いい意味でポップというか、軽々しい感じっていうところがすごくこの人の魅力の一つだなっていうことを改めて思います。
矢田部氏:
はい、もう僕もさっきの年代で行くと、『クルーレス』(95)っていうですね。ピカピカのアリシア・シルバーストーンの学園ものとして一世を風靡したのが95年。「ビバリーヒルズ青春白書」は多分90年ぐらいから始まっているので、まさにそういうキラキラ・ピカピカ青春物語のまあ姿を借りてそこをグレッグ・アラキテイストで伝えやすい形にしたのが面白いですよね。
木津氏:
そうですね。そこにはメインストリームに対する反骨精神みたいなものがあるはずで、そこで無視されていたクィアや、アウトサイダーを、自分の映画では主役にするんだっていう。そこもひっくり返しているっていうのがすごく重要だと思います。それから、90年代でグレッグ・アラキの話をするなら、絶対に言及しとかないといけないのは、いわゆる<ニュー・クィア・シネマ>と呼ばれるものですね。90年代初頭から始まった傾向と言いますか、B・ルビー・リッチというクィア・批評家の方が名付けたムーブメントなのですけれども、このムーブメントのポイントって二つあると思っていて。一つは「インディペンデント」のムーブメントであること、もう一つが「当事者主導」のものだったことだと思うんですね。僕は当事者性至上主義ではなくて、いろんな作家がいろんな属性を描いていいとは思うんだけれども、でもやっぱりクィアを描くときに、クィアの当事者だからこそ描けることがあるとも思っています。それは何かというとーー僕はポリティカルコレクトネスの「コレクトネス」って「適切さ」って訳した方がいいと思うんですけどーーコレクトネスからはみ出る部分を当事者じゃないと描けない、または描きにくかったりすると思うんですよね。
で、2010年型のアイデンティティポリティクスなりポリティカルコレクトネスっていうのが、映画表現とすごく結びついた時代を経てグレッグ・アラキを見た時に、政治的に全然適切じゃないじゃんっていうのがどんどん出てくる。でもそれは当事者だから描けることであり、そして当事者の戦いだったっていうところが、今見るとすごく分かる。それが〈ニュー・クィア・シネマ〉であった。そしてこの2020年代に振り返られているっていうのは、ある種の必然というか、すごく同時代性を感じるところで、その辺りが今見る価値があることだなという風に思いますね。
「『チャレンジャーズ』にも近い」
三角関係を描く『ドゥーム・ジェネレーション』ついてもー
矢田部氏:
そうですね。あの『ノーウェア』はクィア性が炸裂している作品だと思うんですけれども、実は『ドゥーム・ジェネレーション』はこれはそのサンダンスで名が売れたグレッグ・アラキにいわゆる同性愛映画でない映画を撮ってくれと、撮るならお金あげるよということで撮った作品なわけですよね。なので、そこは抑えているはずなのにもう溢れ出ている。そういう意味で行くと『ドゥーム・ジェネレーション』は、木津さんはどのようにご覧になります?
木津氏:
そうですね。“三の映画”だと最近、それこそ『チャレンジャーズ』があったりとか、すごく面白い題材になっていて。今だと、オープンリレーションシップとかポリアモリーみたいな話が出てきてるから、余計面白いんですけれども、今『ドゥーム・ジェネレーション』を見ると、男性二と女性一の映画で、異性愛映画と言いながら、明らかに男2人に何かエロティックな交感があるっていうのが、画面を見ているとわかる。男の裸がいっぱい出てくる。『チャレンジャーズ』のルカ・グァダニーノもゲイの監督ですけれども、その在り方とすごく近くて。それが今の時代だからこそより伝わるようになっていて、やっぱりグレッグ・アラキはすごく先駆的な人だったんだなっていうのを感じますね。
矢田部氏:
そうですよね。『ドゥーム・ジェネレーション』は『ノーウェア』に比べると、少しなんというか洗練されているというか、モダンでスタイリッシュさが目立つという印象があるんですね。『ノーウェア』のようにハチャメチャではなくて、スタイリッシュでモダンでかつ、やっぱり今ご指摘された女性一人と男性二人っていうのが、例えばそれは『突然炎のごとく』的なね、トリュフォーの世界にも通ずるわけで、いわゆるそれまでの既存のシネフィル的な人たちにも届きやすかったのかなということを感じました。『突然炎のごとく』から今は『チャレンジャーズ』というような、そういう系譜もなんか感じましたね。
木津氏:
そうですね。その前の時代でも、三の関係性っていうのは、言葉がなかったとしてもクィアネスみたいなものが表現されていた伝統が実はあって、それをある種90年代的に解釈したとも取れるわけですね。ただね、やっぱり『ドゥーム・ジェネレーション』を見てて面白いのは、もう今は死語かもしれないですけど、同時に「スカム」な感覚があるというか、いわゆるちょっと悪趣味みたいな感じ、血みどろだったりグロいのだったり、あえて目を背けるような感じっていうのをわざとやってるんだけど。でもそれもチープだから笑えるみたいな感じがあって。
それはやっぱり「キャンプ」みたいな・・・定義が非常に難しい言葉で、僕なんかが軽々しく言うと、クィアカルチャーの先輩方に怒られちゃう感じはあるんですが(笑)、でもある種、世の中で悪趣味とされることの面白さとか、美を見つけるみたいなことが一つ要素としてあるとして、グレッグ・アラキにとっての「キャンプ」っていうものがすごく生き生きと感じられるところはこの作品の面白さだし、例えばファッションや、アート、表現に興味がある今の若者にもすごく刺さりうるものなんじゃないかなっていうところはすごく面白かったですね。
「ダイバーシティ感覚が今の20代がNetflixのドラマを観ている感覚とかなり近い」
矢田部氏:
なるほど、あのちょっと先ほどの〈ニュー・クィア・ムーブメント〉というところにも木津さんにご意見を伺いたいんですけれども、その『ノーウェア』でセックスが非常にたくさん出てきて。セックスが過剰なほど溢れているのはどうしてだろう?というようなことを思った時に、そのエイズを原因として亡くなる人の数がアメリカでまあ一、二ぐらいな時代がまだ90年代中頃はあって、それに対する偏見や弾圧もあり、その肉欲ないし性的な快楽が悪だと押さえつけるような風潮の中であえてセックスをたくさん描くことで、「いや、セックスこそ解放であり、セックスこそが救済なんだ」というようなメッセージは読み取ってもいいと思われますか?
木津氏:
そこは確実にあると僕も思いますね。〈ニュー・クィア・シネマ〉のムーブメントって、エイズクライシスとどう向き合うかっていうこともすごく大きかったと思うんですよ。ある面ではアクティビズムと結びつくんだけれども、アクティビズムだけではこぼれ落ちてしまうものも描かれる。例えば、当時はコンドームで感染予防しようっていうことがあっても、セックスの現場ではなかなかそうもいかなかったりとか、そういうリアルなことも映画でだったら描けるっていうことがあったり。そういうものとすごく連動していたと思うんですよ。『ノーウェア』の場合はやっぱりクィアな性愛ですよね。規範では良しとされないセックスっていうのがすごく描かれていて、それは同性愛のセックスだけじゃなくて、SMが出てきたりとかするし。あのSMをしている彼とかもすごく楽しそうじゃないですか?
矢田部氏:
そこは微笑ましいシーンですね。
木津氏:
セックスポジティブっていう考え方も、90年代だと世の中一般、特にアメリカみたいな社会では受け入れられにくかったし、そしてこの2作見直していて思ったのは、宗教右派に対する強烈な嫌悪感っていうのがすごくあるな、と。『ノーウェア』だったら、あの神父のような・・・
矢田部氏:
テレビの宣教師。
木津氏:
そう、実際にああいう人たちっていると思うんですけれども、まさに彼らは同性愛は罪だと言っていたわけで。同性愛だけじゃなく、世の中の規範的には「アブノーマル」と思われていたセックスを否定していたわけですけれども、それを映画の中では生き生きと描く。なんだけれども、この映画の中で宣教師が言っていることにのめり込んでしまう2人があのような運命を辿るっていうことは、やっぱり、ものすごく当時の宗教右派に対する嫌悪感があるんだと思います。そして今のアメリカ社会とかを見ていても、実はあんまり変わっていないことなのかなって思うので、当時からそのあたりはしっかりつながっているところだなというのをすごく感じましたね。
矢田部氏:
なるほど。アメリカ批判もかなり最初からあからさまでシャワーから出てアメリカ国旗のバスタオルを脱いだと思ったら、その後タオルを踏みますよね。だからもう冒頭からそのメッセージっていうのは強烈だなっていう印象を残しますね。
木津氏:
そうですね。オールアメリカンと言われる、アメリカらしさみたいなものに対する反骨精神っていうのがすごくあって。それはアジア系三世という、彼の人種的なバックグラウンドっていうのも確実にありますし、彼とこのトリロジーで組んでいたジェームズ・デュバルもマルチルーツの人で、彼も疎外感を抱いていたっていうことをインタビューとかでも当時から語っているので、セクシュアリティやジェンダーの話だけじゃなくて、人種的な部分でもすごくそこはあって。『ノーウェア』を今見ると、その人種的なダイバーシティインクルージョンの感覚が、今の20代の子がNetflixのドラマなんかを見てる感覚とかなり近いと思うんですよね。
矢田部氏:
そうですよね。
木津氏:
当時『ビバリーヘルズ青春白書』なんかは白人の綺麗な男女ばっかり出てくるなみたいな感じだったと思うんですけれども、アラキの映画ではこれだけいろんな人種のキャラクター、いろんなセクシャリティのキャラクターが出てくる。でもそれをお行儀良くなくやってのけるっていうところが、今も逆に新しいみたいなところがあって。そこがすごく面白いところだなと思いますね、
矢田部氏:
まさにそうですね、違和感ないですよね。当時の確かに白人ばっかりみたいな名作の中で、この『ノーウェア』がまた一つメジャーへの架け橋になっていると思うのは、かなりオールスターキャストですよね。実は小さい役にキアラ・マストロヤンニ、ヘザー・グラハムがいたりとか、デニス・リチャーズがいたりとかこう、その後もメジャーで活躍するそうそうたるメンバーが割とハチャメチャやっているというこの配役のセンスと、その後世界を広げることになる幅の広さっていうのは『ノーウェア』のもう一つの特徴かなって思いますよね。
木津氏:
そうですね。でもこれを見てるとインディー感覚がすごくあって、普通に友達とかが出てるんだろうなみたいな感じも同時にあるじゃないですか。その辺りもやっぱりすごく楽しいところで、あのドラァグクイーンのグループが出てくるところとかも、つるんでいる人たちなんだろうなみたいな感じがあったりとか、 LAのクィアコミュニティを、インディペンデントからメインストリームに出していくみたいなところも、グレッグ・アラキは多分当時から意識してやっていて。そういうところがその後のクィアカルチャーにもきっと効いてたんだろうなという感じもしますね。
「エイズアクティビズムと結びつき、クィアカルチャーがすごく戦っていた時代」
矢田部氏:
木津さんリアルタイムではないかもしれませんけれども、アメリカでこういう動きとかがあって、その90年代中頃の日本のゲイカルチャーというか、クラブカルチャー的なものはどんな状況だったんですか?
木津氏:
日本にも90年代初頭に「ゲイブーム」っていうのがあって、その時はマスメディア中心だったみたいなことは言われてはいるんですが、でもそれがポップカルチャーと結びついていたっていうことはあるとは思うんですよ。で、90年代の初頭のハウスミュージックであったりとか、クラブカルチャーみたいなものとゲイネスみたいなものがくっついてるんだっていうことを、結構理解されるようになってきたし、そういう人たちも出てきたっていうのが、90年代の特徴的なことだったかなと思いますね。
一方アメリカではインディペンデントから離れてみても、ガス・ヴァン・サントってちょっと世代が上なので〈ニュー・クィア・シネマ〉の名前に上がらない人ではあるんだけれども、91年に『マイプライベート・アイダホ』がありますよね。あと、ジョナサン・デミの『フィラデルフィア』(94)はまさにHIV(エイズ)の話ですけれども、あれも脚本にロン・ナイスワーナーというゲイ当事者の方が入っていたりするので、そういったエイズアクティビズムと結びつく形でインディペンデントとメインストリームの間を行き来しながら、クィアカルチャーが表に出てきた時期だったかなというふうに思いますね。
矢田部氏:
面白いですね。『マイ・プライベート・アイダホ』のタイトルを挙げられましたけれども、『ノーウェア』を見てもう、ダークとモンゴメリーがキアヌ・リーブスとリバー・フェニックスにしか見えないっていう、意識したのかなとかね。そこら辺の一致もありますよね。
木津氏:
そうですね。ゲイカルチャーに限って言うと、当時流行りの男子の見た目みたいな感じっていうのがあって、これが強烈に90年代のハンサム・男前のイメージだな、というのは時代がかっていて面白いところではありますね。
矢田部氏:
90年代当時、この2作品の日本東京での公開というのは割とひっそりだったらしく、僕もあんまり記憶が鮮明ではないんですけれども、ただミニシアター文化と呼ばれるものが最も花開いたのが90年代なので、そういったゲイのカルチャーシーンとミニシアターのレーダーというのを結びつきやすい土壌が、日本でも東京中心にはあったのかなっていうのは想像しますね。
木津氏:
そうですよね。実は今、僕キース・ヘリングのパーカーを着てるんですけど、キース・ヘリングもまさにポップカルチャーとして受け入れられた例ですね。今はユニクロとかとコラボレーションしていて、キースのTシャツを着てる人がいっぱいいるんだけれども、当時エイズのアクティビズムをやってた人なんだよっていうことが全然知られていなかったりする。それだけ広がるっていうのはポップカルチャーとしていいことでもあるんですけれども、それがどこから来たのかっていうことを思い出すこともすごく大事だなというふうに思っていて。90年代のエイズアクティビズムと結びついていたりとか・・・・・。グレッグ・アラキの2作も、クィアカルチャーがすごく戦っていた時代、Xジェネレーション性みたいなものと結びついていたということで、僕自身もすごく発見が多かったですね。
“自分の音楽のセンス”で作品を表現。新作にはチャーリー・XCXも!
矢田部氏:
木津さんは音楽についてもご専門でいらっしゃるんですけど、やっぱり音楽がめちゃくちゃいいですよね。この作品に使われている音楽についても解説をお願いしてもいいですか?
木津氏:
そもそもポップミュージックがガンガンかかるっていうこと自体が90年代的というか、まさにタランティーノの時代だなという感じがするんですよ。当時は自分の音楽センスを自分の映画で表現するような時代でしたよね。で、グレッグ・アラキってパンク/ハードコアのバックグラウンドを持っている人で、彼も自分の音楽センスを表現したかったと思います。好みの傾向としては、例えばシューゲイザーとかがあるのかな、とは思います。スロウダイヴとか。でもトリップホップであったりとか、 IDMみたいなのもかかったりとか、本当にいろいろで、つまり雑食的であるっていうこと自体を表現したいのかなと。それが『ノーウェア』のハチャメチャな感じと結びついていて、ある種キッチュなんだけれど、今見ると90年代の感覚として面白いっていう。
矢田部氏:
僕はもう本当にそれこそ『ノーウェア』を数十年ぶりに見直したんですけど、ずっと自分の中ではシューゲイザーといえばライドの「ノーウェア」っていうアルバムで、劇中でもライドが使われているとなぜか思い込んでいたんですよね。でも実は使われてないですよね。そんなことも観ながら考えたんですけれども。でも、そのシューゲイザーもそうですし、割とそのメジャーな、スウェードとかメインストリームの音楽もふんだんに使われているけれども、やっぱりタランティーノの音楽の使い方の影響下にあったのかなっていうのは、あの木津さんの見立てですかね。
木津氏:
そうですね。タランティーノ直接というよりは、90年代の空気感としてあったかなっていうのは思いますね。今ちょうど音楽の話が出たので、最後にひとつだけ話させてください。
チャーリー・XCXが次のグレッグ・アラキの新作に出るということになっておりまして。僕、今回グレッグ・アラキの取材ができるかもみたいな話を実はいただいていたんですけど、彼が新作を撮ってるから無理だっていう話を聞いて、「すごく残念!でも新作撮ってるのか!」ってなって。
それがチャーリー・XCX出演作なんだっていうのが、すごく時代の符号として一致した感じがあったんですよ。というのは、チャーリー・XCXって今年「brat」というアルバムを出してすごく人気が出ましたよね。bratって悪ガキみたいな意味なんですけど、それがTiktokとかで#bratsummer(ブラットサマー)っていうムーブメントになり、なんかこうハチャメチャなことをやったりとか、不完全である自分を受け入れるとか・・・そういう整合性がない感じ#bratsummerて言って、特に明確な定義があるわけではないけれど個々人で解釈しようっていうようなムーブメントだったんですけど。その後、Kamara is brat(カマラ・イズ・ブラット)っていう本人からのSNS投稿がアメリカ大統領選のときにあって、その時にアメリカのニュースキャスターが一生懸命調べて「チャーリー・XCXっていう歌手がイギリスにいて〜」みたいなことを言ったんですけど、若い人からしたら、「おじさん達にはわからないですよね」みたいな感じで(笑)「あ、久しぶりに若者しかわからないムーブメント出てきたな」と思ったんですよ。で、チャーリー・XCXのそういうハチャメチャな感じの打ち出しが今のグレッグ・アラキと合流することに時代の符号を感じたというか、すごくポップカルチャーの面白みだなと思いましたね。
矢田部氏:
だってグレッグ・アラキ、今60代ですよね?すごいですよね。一貫してぶれていないっていう。
木津氏:
そうですね、はい。今のムードにガツッとはまるっていう感じになると思うので、それは楽しみです。
矢田部氏:
そうですね、来年観られますかね?
木津氏:
それを期待したいところですね。
<終>
矢田部吉彦さん Podcast「シネマ・ラタトュイユ」
日本と海外の映画と映画祭について 気ままに語る番組”シネマラタトゥイユ” 煮込み料理のラタトゥイユのように 何を入れても大丈夫なごった煮感覚で、 ちょっと国際的で、たまにフランスよりな 映画の話をしていく番組
『ドゥーム・ジェネレーション デジタルリマスター版』 絶賛上映中
監督・脚本・編集:グレッグ・アラキ
出演:ローズ・マッゴーワン、ジェームズ・デュバル、ジョナサン・シェック
製作:グレッグ・アラキ、ニコル・アルビブ、アンドレア・スパーリング
1995年/アメリカ・フランス/カラー/ビスタ/5.1ch/英語/84分/日本語字幕:佐藤南/原題:The Doom Generation/ 映倫区分:R-15+
配給:パルコ 宣伝:パルコ、SUNDAE
©1995 UGC and the teen angst movie company
【STORY】 若いカップルジョーダンとエイミー、そこに加わった流れ者グザヴィエの、サイコや変人が溢れるアメリカを巡る悪夢のような逃避行。行方知らずの旅を続けるうち、エイミー、ジョーダン、グザヴィエの三角関係にだんだんと変化が起きていく。
『ノーウェア デジタルリマスター版』絶賛上映中
監督・脚本・編集:グレッグ・アラキ
出演:ジェームズ・デュバル、レイチェル・トゥルー、ネイザン・ベクストン、キアラ・マストロヤンニ、デビ―・マザール 他
製作:グレッグ・アラキ、ニコル・アルビブ他
1997年/アメリカ・フランス/カラー/ビスタ/英語/5.1ch /83分/ 日本語字幕:長 夏実/原題:Nowhere/ 映倫区分:R-15+
配給:パルコ 宣伝:パルコ、SUNDAE
©1997. all rights reserved. kill.
【STORY】 18歳の青年ダークは、恋人メルが自分だけを愛してくれないことに不満をためている。周りの友人達も皆それぞれの愛を求める中、謎のエイリアンが街に出現し次々と異変が起きる。色鮮やかな街で目紛しく過ぎるダークと友人たちの一日は、一体どんな”終末”を迎えるのか。