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アルバニア文学を読もう!①~Ervin Nezhaを読む

 さて今、俺がハマっているのはアルバニアとコソボの若い小説家に“あなたの作品に英訳されているものはありませんか!?”とメッセージを送り、その英訳されたアルバニア語文学を読むことだ。4年くらい前から本格的にFacebookを稼働し始めて、このコネでルーマニア(語)で小説家になるなんてことにもなった訳だが、一方で他の国の小説も読みたくて、こうやってメッセージを送りまくってる。主にヨーロッパなんだが、読んだ作品は数知れずだよ。オーストリア、ラトビア、ノルウェー、スロヴェニアって感じだ。で、今回はアルバニアとコソボってことだね。
 確かに古典作品を読むっていうのも重要なのは分かるよ。斯く言う俺も最近は万葉集を読むのにハマっててね、高校の古典の授業でこういうの読まされた苦痛は半端ないが、今読んでみるとこれが無類に面白いんだよ。東歌とか奔放なエモエロ和歌ばっかで、ヤベえ面白いよ。
 だが一方で俺は、俺自身が今正に立って生きてる“現在/現代”ってやつを大切にしたいと思ってる。まあカッコよく言ったが、つまりはミーハーの新しい物好きってことだよ。文学の最先端が、俺は読みてえ。そして俺も小説家のはしくれなもんで、このコロナ禍真っ只中って前代未聞の時代、これと対峙しながら作品を書いている訳だよ。それをやってる世界の小説家の作品が読みたいんだ、俺自身が“ああ、同じ時代を生き抜こうとしてんな”と共感共苦できる同世代の作家を探してるんだ。

 で、アルバニア語作家なんだけども、コソボ人の若い作家なんかは結構見つかるんだよ。だから結構メッセージを送っていて、その繋がりで色々と作品が読めるようになってきてる、まあこの話は別のところでだな。これはおそらくコソボ自体がめっちゃ若い国で、ユーゴ時代の抑圧や血みどろの紛争を乗り越え、若い才能が独立したばかりの国で切磋琢磨しているってそういうことなんだろう。少なくとも俺はそれを感じるんだ。
 でもアルバニアの方だと不思議に見つからない。それは俺のアルバニア語がまだまだだから検索方法がちゃんと分かってないというのもあるんだろうけど、にしてもメディア露出している作家が40代後半くらいで最も若いって感じ(例えば去年EU文学賞を獲得したTom Kuka トム・クカとかね)で、それより若い世代が見つからん。
 が、そんななかでとうとう俺はある若い作家を見つけたんだった。彼の名前はErvin Nezha エルヴィン・ネジャ。プロフィールとかはないが見た目30代前半くらいで、去年デビュー短編集“Të vdesësh nën diell”(“太陽のもとに死して”みたいな)を出版したばかりという正に新人作家である。ちょっと紹介文を引用。

““Të vdesësh nën diell” është përmbledhja e parë me tregime nga autori premtues, Ervin Nezha, i cili u shpall edhe një nga tri fituesit e çmimit “Libri i karantinës”. Këto tregime dallojnë për stilin befasues dhe mjeshtërinë e ndërtimit të karaktereve. Tematika e tyre i mëshon fort fatit të përcaktuar të njeriut.”

 あんま俺のアルバニア語力を過信して欲しくないが、翻訳はこんな感じかな。

“Të vdesësh nën diell”は才能ある新鋭作家Ervin Nezhaによる初の短編集だ。彼はLibri i karantinës賞を獲得した3人のなかの1人である。収録されている物語は驚くべきスタイルと、人物を描きだす時の筆致の巧みさにおいて際立っている。そしてこれらによって紡がれるものこそ、人間存在の確固たる運命というものなのである”

 で、賞の名前であるLibri i karantinësっていうのは“隔離の本”って感じで、コロナ禍以降に新設された賞なんだろう。だから“隔離時代の本”なんて意訳してもいいかもしれない。これを見ると、作品の内容がコロナに関わっているか否かに関わらず、ああ俺と同時代に現れた作家だなっていうのを感じるよ。
 これでまず心を掴まれ、そして他の紹介文のなかにあったこの文章で好奇心は最高潮に達した。

“Tregimet e Ervin Nezhës shërbejnë si vazhdimësi e një tradite në gjininë e tregimit shqip”

 訳は“Ervin Nezhaの紡ぐ物語は、アルバニア人は物語をいかに語るのかという伝統を継承したものなのである”って感じかな。“në gjininë e tregimit shqip”が曲者で、たぶん直訳すると“アルバニア流のストーリーテリングというジャンルにおいて”っていう感じなんだけど、どう訳しても日本語にどうしてもシックリこないものだと思った。で上の訳は、俺がこの文章を読んで受けた印象を、そのまま翻訳に反映したってそういう文章な訳である。おそらく“アルバニア文学の伝統”なんても言い換えられると思うんだけど、そういうこと書かれたら読みたくなっちゃうよな、そりゃ。
 と、いうことで思い立ったが吉日で、俺はErvin Nezhaに英語でメッセージを送る。こういうのを書く時に俺はいつもこんな流れでメッセージを書く。まず自己紹介、それから何で俺がその人の国の文化が好きなのか。俺が好きになるきっかけはほぼ映画なので、映画の名前とそれへの感銘の一言を簡潔に記していく。そして自分は小説家だからその国の文学も読みたい、特に若い世代の書く文学、なぜって……まあ、これはこの文章のなかでさっき書いた内容だから省略。そしてどのようにあなたの作品を見つけたか、なぜ読みたくなったか、でも自分はその国の言語が分からないから作品で英訳されているものはないか、こういうのを書いていき、最後は突然の長文メッセージを送ってごめんという謝意と礼を記して、そして送信と。
 で、これが意外と返信返ってくるんだよ。とはいえその原因の一端は、もう既にめっちゃいっぱいの人にメッセージ送って結構な数の人に申請受理されてるから、送った人の方に“共通の友人○人”っていう表示が出るからってのがあると思う。だからこっちもコツコツ、メッセージ送ってっていうことをずっとやってきて、今の状況があるとは書いておきたい。でもそれにしても、既に本出してる小説家の人から直接メッセージ返ってくるってのはいつでも驚くよ。
 Nezhaからはマジで数時間後には返信が返ってきた。でもちょっとビビったのは、今までの作家の人はみんな流暢な英語で返信が返ってきてきたが、この人は自分の考えを十全に記したいということでアルバニア語で返信が返ってきたからだ。とはいえアルバニア語に関してはある程度理解できるし、何より彼の誠実さの表れだなと思ったんで、俺も頑張って、そりゃ主体は英語だけども、アルバニア語も使いながら話したんだ。それで“じゃあメールアドレスに翻訳送るよ”って速攻言ってきて、あまりのスムーズさに緊張してメルアド打ち間違えるってハプニングもあったけど、メッセージを送った数時間後には彼の作品を読むことになった、いやはや。

 その作品“The Cloud”の主人公はSmarkada スマルカダという村に住む女性Mereme メレメだ。彼女は悲しみにうちひしがれていた。というのも自身の息子が忽然と姿を消してしまったからだ。幾ら探しても影すら見つかることがない。村人たちは水を汲むために使う古い井戸に落ちたのではと噂しながら、そこにも彼の死体はなかった。メレメが悲しむなか、夫のAli アリが息子を探しに行くが、彼もまた消息を絶ってしまう。
 かなり不思議な雰囲気に満ち溢れた作品なんだ。まずNezhaは村と、村を取り巻く厳しい自然を、簡潔かつ即物的な文体でもって描きだしていく。地域で最も高い丘の裏側に位置するスマルカダという村、ここにおいては太陽が沈むことがなく暗くなる時間が存在しない。村近くには大きな川があり、村人たちは魚や水などの豊かな恩恵を受けていたが次第に干上がってしまい、今はもう水は古い井戸からしか汲めないほどだそうだ。スマルカダは忘れられた場所にあるという表現が成されるが、この忘れ去られた場所に関する、素朴ながら鮮やかなイメージが積みあがっていき、物語に神話と民話の狭間のような世界観ってのが立ち現れる。
 この冒頭部分を読んでいる時、俺の頭には昔から観てきたアルバニア映画に表れる風景がさ、思い浮かんできたんだよ。アルバニアっていうか海外に一度も行ったことがない俺にとっちゃ、アルバニアの自然へのイメージって言えばやっぱアルバニア映画だからさ。例えば“Zemra e nënës”の石造りの建築で満ちた村の荘厳さ、例えば“Toka jane”の作物など育ちそうにない荒れ果てた灰色の世界。そういうイメージの数々が、この“The Cloud”って作品と共鳴するって訳で、これがまず素晴らしい経験だったね。
 ちなみにSmarkadaって村は、Google検索しても出ないので架空の村だろう。それでもNexhaの出身地がQukës チュカスって地域らしいのでそれもググってみた。ググって写真を見てみると、どこまでも開けたような、風光明媚な田舎町って感じで、こういうところで静かな時間を過ごせたらいいねえって思ったよ。それから、紀元前2世紀のローマ帝国時代にエグナティア街道ってのが作られたらしいけど、それがQukësにも通っていて、だから中継地としても機能してたらしいよ。かなり歴史ある地域みたいだ。

 こうして子供も夫も行方不明になり、メレメは独りになってしまう。そんなある日1つの雲を目撃するが、これを“サイン”として受け取り、突き動かされるようにメレメは2人の捜索を始める。森のなかを休むことなく歩き続け、歩き続けて、それでも彼らが見つかることがない。とうとう疲れはて眠りにつきながら、彼女は夢の中で息子の形をした雲と遭遇する。これに導かれるように進むと小屋を見つけるのだが、そこで少年と出会う。それでも息子ではないのは分かったので、彼に独りでいる理由を聞いてみる。嵐で両親を失った少年は独りで森を彷徨うなか、洪水に巻き込まれてしまう。それでも男に助けられ何とか九死に一生を得ながら、代わりに男自身が溺れていってしまったという。そして彼の頬に傷があったということを聞いたメレメは、男がアリであったことを確信し、絶望に見舞われる……

 ここでちょっと、さっき引用して“Tregimet e Ervin Nezhës shërbejnë si vazhdimësi e një tradite në gjininë e tregimit shqip”ってのを考えてみよう。いや、めっちゃ安易なのは自分でも分かってるんだけど、俺としては確かにイスマイル・カダレは想起したよ。アルバニアの大地に広がる、厳しく荘厳なる自然のイメージ。それでいて現実から奇妙なる飛躍を果たすような幻想性。この2つが分かちがたく混じりあっている様は、カダレっていう感じだよ。具体的には例えば「砕かれた四月」とかね。だからこれは勝手な考えだが、イスマイル・カダレ作品のあの感じを“アルバニア文学の伝統”か、もしくは“アルバニア人がいかに物語を語るかという伝統”としてある程度重ねて考えることが可能なのかもしれない、アルバニア人自身がそう思っているのかもしれない。そういう感じに考えたんだよ。
 でも彼に感想を言った時に、このことは言わなかった。というのもだ、多分何回もカダレに似てるとか言われてると思うんだよ、特に外国人の読者に。これは作風が似ているってのもあるけど、カダレしかアルバニア人/語作家を知らないから、誉め言葉としてこれを言っちゃうって感じのやつ。でもよくよく考えれば、カダレ作品だけ読んでアルバニアはこうだ、アルバニア文学はこうだっていうのはステレオタイプでしかないだろう。彼に限らず、アルバニア人作家ならマジで誰でも言われてそうだ。
 こういうこと言ってる俺もさ、英語とかルーマニア語で小説書いてる訳なんだけども、作品読んだ人がめっちゃ“村上春樹を想起しました”とか言ってくんだよ。もうマジで猫も杓子も村上春樹だよな、あと時々村上龍。こういうこと言われてまあある程度は楽しみながら、ある程度ウンザリしてるとこもあって、それでアルバニアに関して考えると、アルバニアにおけるこの“村上春樹”的存在は、多分イスマイル・カダレなんだよ。だからアルバニア人/コソボ人作家と話す時、そりゃ俺もカダレは好きだから名前は出すけど、少なくとも作品の感想にカダレの名前は出さないようにしている訳だよ。

 で、たった2ページの作品だからオチも明かしちゃうんだけど、メレメと少年の前にもう1人の男が現れるんだ。彼もまた、少年が息子でないように、夫のアリではない。小屋は男の所有するものだったらしいんだけど、彼は2人とも快く迎え入れる訳だな、好きなだけ居てもらって構わないと。彼も伝染病で妻と子供を失い、孤独な日々をずっと過ごしていたらしい。そこから赤の他人である3人の共同生活が始まり、この日常に浸るなかでメレメは安らぎを覚え、過去を忘れていく……
 いや俺もビックリしたんだが、これで終わるんだよ。ある種、家族を失った女性が新しい家族を得ることで、その悲しみから解放され新たなスタートを切るって終わりだ。でも“えっ、それでいいの?”と思ってしまうような、言い知れぬ不安というかゾワゾワするものも感じさせる不穏な終わりでもあるのだ。悲しみのあまり幻想に呑まれ、そこに安らぎを見出だしていくなんて、救いがたい諦念すらもここには宿ってる訳だな。
 俺が思うに、今作が巧みなのはさ、こういう希望と絶望、現実と幻想、新たな始まりと終わりに宿る諦念みたいに、相反する要素が物語を通じて常に混ざりあっているって部分なんだ。ラストも、文体の面でも描写の面でも相当そっけなく流れていくんだけども、そのシンプルさから立ち現れるものの複雑さたるや、ここまで長々と語ってきたが、全く十全に捉えられていないなと思わされる。それこそ雲の不定形さってやつだ。そういう息を呑む複雑さがここにはあるんだよ。

 で、これを読んで感想を送った後に、ちょっと彼と話したんだけど“自分はKavabataを通じて日本を知ったよ”って言ってきて、疑問符が浮かんだ。はて、Kavabata カヴァバタとは。すわ「ティファニーで朝食を」のユニオシさん的なやつかと思ってググったら、出てきたのが川端康成だった。Kawabata、Kavabata……ああ!と膝を打ったね。この時まで知らなかったが、アルバニア語ではワ行を“w”でなく“v”で表現するらしい、しかも使うのは外来語を表記する時くらい。そういえば“v”ってつくアルバニア語思いつかんわ。そして“The Cloud”における巧みな自然描写を見れば、川端の名前が出てくるっていうのも全く納得だよ。
 ということで日本が好きな人には朗報で、日本がきらいな人(俺含めてね)には悲報だけども、アルバニアでも川端康成は知られているってさ。いや、日本文学がどこでも読まれているっていう事実にはビビっちゃうね。コソボの人からも既に“村上春樹読みました!”とか“村上春樹好きです!”とか“「1Q84」のアルバニア語訳が第1部しか出てない!”とかいう声を既に聞いてますわ。アルバニア文学を読むにしても、日本文学からは逃げられないって訳だな、ははは。


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