コロナウイルス連作短編その173「優しさから優しさへ」
百里柚木は下りのエスカレーターに乗っている。前には小さな子供と、母親らしき女性がいる。
子供は短い手を伸ばし、手すりを掴む。柚木も何となしに真似をし、手すりの感触を左手で味わう。抗菌性の生ぬるさ、気持ちのいいものではない。だが皮膚に広がる無数の襞へと引っかかり、柚木を捕らえる。
「手すり掴まないで」
横の母親が言った。
「汚いから。コロナ罹かるよ」
彼女は子供の手を、手すりから離させる。
過程はよく分からなかったが、子供がエスカレーターから落ちていった。
ゴゴッガ、ガガガ。
そんな音とともに、小さな体が斜面を下る岩のように転がっていき、1階部分の床へと落下した。なかなか鋭く、小気味よい響きだった。
瞬間、母親がエスカレーターを駆け降りる。誰かを呼びつけるような、しかし明確な言葉とはなっていない類の叫び声をあげる。鼓膜が揺れている。叫び声に揺れ、他の何かによって揺れている。
柚木もそれ相応には動揺した。瞳孔が開く、表情筋が痙攣する、心臓が早鐘をつく。こういった反応が肉体全体で巻き起こるのを、彼は確かに感じた。
柚木は手すりを掴んだまま、動かない。エスカレーターの動きに従い、ゆっくりと下へ運搬される。この“ゆっくりと”という感覚が、いつもより粘っているように感じた。下では少しずつ人が集まってきている。だが別に、エスカレーターが止まるなどということはない。エスカレーターは依然変わりなく、己の職務を全うしている。エスカレーターはとても優しい。
そしてエスカレーターが下に着こうとする頃、柚木は足を動かし始め、自分が乗っていたステップよりも、早めに1階の床を踏む。そこでは親子が踞り、数人が彼女たちを取り囲んでいる。
実際、柚木はかなり動揺していた。こんな風に事故を間近で目撃したのはほとんど始めてだった。そして自分が階段から落ちたことは何度もあり、その痛みや恐怖はハッキリと覚えている。最もハッキリ覚えている痛みは、頭を打っただとか膝を擦りむいたではなく、右の耳たぶが裂けた時の痛みだ。「耳無し芳一」の逸話を聞いたのは、その前だったか後だったか。
視界に、体をビクンと揺らす子供の姿が映った。柚木はその横を通って、歩いていく。
例えば今
エスカレーター近くの小ぶりな広場にあるのはお菓子を売っている屋台だ。パンダ焼きというカステラを売っている。甘ったるい熱が鼻にくゆってくるが、そこに惹かれて多くの家族連れがパンダ焼きを買っている。
どうして人は、動物の形をしたお菓子が好きなのだろう。動物を、肉という部位に分けてでなく、丸ごと
貪りたいという欲望があるのだろうか。
世界では今や菜食主義が一種のブームだ。悪いこと
ではない。家畜が肉として消費されなければ
空気中に排出される二酸化炭素の量が減る。飼料として費やされる植物も減るだろう。食肉加工工場は過酷な労働状況とも聞く。それが改善されたり、別のより安全な職につけるようになれば、労働者も安心だろう。
それと同時に、動物の形をしたお菓子は更に増殖を遂げるだろうと、柚木は思った。別に
これも悪くないことだ。
柚木の住んでいる地域にはショッピングモールが3つほど存在する。彼女がいるのは中でも最も小さいモールだ。食料品店とレストランが1階に集中しており、1階より上は主に電化製品や家具などを扱う量販店で犇めいている。
このモールの他にはない特徴は駐車場の構成だ。他の2つには巨大な地下駐車場が完備されているのだが、ここにはそれが
ない。代わりに建築が巨大なL字型となっているのだが、それゆえの1階外敷地の空白は巨大駐車場となっている。2階3階の量販店の脇にも駐車場が設置されているが
メインは1階の駐車場だ。
外に出た柚木
その他の客たちはいつであろうともこの巨大駐車場に出迎えられる。何とも言えず、のどかな雰囲気が広がっている。あくびをしそうになる人間の顔が間延びして愛おしげなように、この駐車場もまたふやけきっている。それでいて常に車が蟻の大群さながら列を成しているゆえ、彼はいつも驚かされる。だが蟻とは違い、車はそれぞれ別の方向を向いており、統率などは一切存在していない。これが無害なのどかさを醸しだしているのだろう。
柚木は
家に帰る。必然的に駐車場内を突っ切ることとなる。
歩きながら、並んで日向ぼっこをしているような車たちを目にするうち、ふと疑問が思い浮かぶ。ここにはどのくらいの車が収容可能なのだろう。今までこれについて考えたことがなかったのが、不思議なほどだ。
周りを見渡し
空間を明晰に認識しようとするなかで
まず50台収容は堅いと思えた。だがもう少し目を凝らすなら100台も余裕で収容可能な気がしてきた。だがここで、台数の予想が一瞬にして倍に飛躍してしまったことに自分でも驚いた。倍の台数を収容するには、単純計算で倍の敷地面積が必要ではないか。この予想の飛躍は、明らかに何かがおかしい。情緒的にはまだしも、科学的にはあまりにも短絡で、何より軽薄
だ。自分の認識能力は、ここまで軽薄なのか。
実際に
数を数えなければ
収容可能な台数は分からない。柚木は思った。
来た道を元に戻っていき、柚木はとりあえず端から車を数えていこうと試みる。
今、右にはミスタードーナツが見える。ピロティ越しの奥まった空間に店が嵌めこまれ、奥の方まで
店舗の敷地は続いている。
前には白い車が見える。ナンバーは目映いほどに
黄色い。小学生の頃に使っていた色鉛筆、そこに含まれていた山吹色と同じ有害性を持っている。この車が
1だ。横には薄く紫がかった車両が
並んでおり、6人ほどの家族を収容できるほどの広さを持っている。ナンバーはやはり山吹色だった。これが
2である。
さらに横の車両は淡い水色に
包まれている。以前、水色は日本に特有の色彩であると聞いた覚えがある。一度“水色”を英語に訳そうとしながら
これを直訳しても通じないことを知って驚いた。そこで初めて、現実の世界において、確かにこの薄い青というべき彩りが、水を満たしている光景を見たことがないことに思い至る。それでいて、この呼称を自然と受け入れていた。
眼球が震えるのを感じる。これが
3だ。
4
台目はより濃厚な、ともすれば吐き気を催させる青色の車だ。5月の陽光のなかで、よりいっそう攻撃性を増している。
5
台目はあの山吹色が車体にまで広がった軽自動車だ。
6
台目は落ち着いた灰色の色彩を持った、比較的大きな車だった。
こうして6
まで数えた後、柚木の横を別の車が通っていく。車体は濃い橙、まるで象を呑みこんだウワバミのような形をしている。少し視線を引きずられながら、
7
台目にまた視線を戻す。官能的な黒みを誇る車だった。
それから今まで数えてきた車を確認してみると、何故だか車が増えているような気がした。改めて指を指しながら数えてみると、そこには7
台の車があった。ということは官能的な黒みの車は
8
台目となる。
6
台であっ
た気がするのだが。
そして改めて前を向き直すと
何故だ
か周囲の風景に
見覚えがな
い。ショッピン
グモールが
ない、ミスタードーナツが
ない。巨大駐車場が
存在する。だが傍らに立っているのは
ケーズデンキだった。大
きな建築物に
“ケーズデン
キ”と書いてあるゆえに、ケーズデンキだと理解できる。
柚木は
怖かった。彼はこの町に生まれてから
ずっと住んでいる
1週間以上、出たことがない。それゆえに
彼の心は
今
自分が立っている場所がその町に属していると確信している。
肌に馴染む。比喩表現として
この言葉を適用しても特に異論がない。
だが自
分が見ているものに見覚えがない。この巨大駐
車場は、あの巨大駐車場ではない。柚木は確信せざるをえない。
2つの確信が明ら
かに矛
盾している。何が起こ
っているのか理
解できない。
だが曖昧な恐怖をよそに、突如として柚木の足は、彼から見て斜め左方向に進んでいった。とても自然で、滑らかな動きだ。もはや不随意運動と言ってもいいほど、迷いがない。
柚木は自分の肉体と自分の精神が別の個体であるように思えた。
今、彼の精神は途方に暮れ、涙に暮れる弟であり、彼の肉体はその手を引いて一緒に家へと帰ろうとする兄である。兄もしかし家までの道をきちんと覚えており、一歩一歩が確固たるものだ。しかしその迷いなさはむしろ弟を安心させるための空元気、ゆえに必要以上の磐石さを感じる。これが兄の優しさなのだと。
しかしここにおいて重要なのは、この肉体の優しさは、より大いなる地球の優しさによって育まれているという事実である。彼の肉体は地球が宿している磁気、つまり地磁気というサインを頼りに、家へと帰りつこうとしている。ハトのように。ウミガメのように。またさらにイセエビのように。
この世界に生を受けたありとあらゆる生物は、地球の恩恵を享受することでこそ、生きることができる。
その逆ではあり得ない。
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。