見出し画像

コロナウイルス連作短編その223「反復横飛びの時代」

 洲崎二色は家族の朝食を用意したあと,洗面所へと向かい,再び顔を洗う.
 最近,秋という季節に反して暑さがぶり返してきており,真夏と同じように頻繁に顔を洗わないと気が済まなくなってきていた.あの熱を伴った不愉快な湿り気を,定期的に駆逐しないと気が済まないのだ.
 冷水を乱雑に顔の皮膚へと当てた後には,やはりスッキリとした気分になる.
 一方で,即刻湿った熱が再来し,早々とその心地よさは蒸発していく.
 ふと,備えつけの棚に置いてある化粧水に目がいく.これが母親のものか,姉のものかは忘れたし,二色は元々そういうものに興味はない.だが大学の友人たちが繰り広げる会話において,“セルフケア”などの横文字とともにその単語は現れる.否応なしに鼓膜にこびりつく.
 その化粧水のボトルを手にとり,何とはなしにその成分などを読んでいく.水,BG,エタノール,ノイバラ果実エキス,アミノカプロン酸……
 男も,肌いたわらなきゃヤバいよな.
 今は男もセルフケアの時代だし.
 そんな友人たちの言葉が,二色の頭のなかに浮かんでは消えていく.
 もしスマートフォンで適当にニュースを眺めるなら,鼻を模した模型からのたうつ蛇のような脂の塊がデュルルンと出てくる広告が目に入る時がある.偶然目にしてしまった時,うえっとなった記憶が蘇る.もらい事故にでも遭った気分だった.
 昨日は“男性の無駄毛脱毛,今なら80%オフ!”などというTikTok広告まで見かけた.
 二色の下半身は毛が鬱蒼以上の猛烈さで生えており.特に太股上にはえげつない量の毛が生えている.しかも剛毛だ.それらの剃り方が分からなければ,剃ってもさらに毛が濃く,強靭になるかもしれないと少し怖い.どう処理していいのか分からないまま,今に至っている.
 ああいうところで脱毛してもらうべきなのか?
 二色は幾度となくそう考えたことがあるが,ああいった広告には胡散臭さを感じ,踏みこめないでいる.
 この一方で,大学の同じゼミには城取佳緒という女性がいる.彼女の腕の毛は驚くほどに濃厚なものだ.最初はそんな生えるがままに腕毛など生やしている女性を見たことがなかったので,二色もさすがに気圧された覚えがある.
 しかし直接話さないまでも,ふと彼女の方へ視線を向けると,腕を動かしてる時に草原の緑さながら毛が揺れているのが目に入る時がある.それは意外なまでに爽やかな印象で,別に毛などは剃らずにああいう風に自由にさせてもいいという気にすらなる.
 実際,彼女に影響を受けて日比谷三朝というゼミ生が腕毛を剃らないようになった.毛のなびく手を並べあいながら,笑いとともに自撮りしている光景すら見かけた.何か羨ましさすら感じた.
 今,二色は,女性と男性で価値観が真逆の方向性に進んでいるだと思えた.
 女性がもう少しありのままでいいって方向に進んでいる一方,それとは逆に男性はもっと自分をケアしよう,スキンケアだとかメイクもしたりしてみようという方向に進んでいるようなのだ.
 最近,美容業界が広告などで女性の美への欲望を煽りまくる現状が批判され,しれに反旗を翻して女性のありのままが,今までに以上に礼賛されるようになっている.こうして客を失っていく美容業界が,売上を取り戻すために今度は男性に目をつけているのでは?と,そんな予感がしてならないのだ.
 それでも二色は,何とはなしに,成分表を見ていたその化粧水のフタを開けてみる.そしてその滴を何滴か,手のひらにのせ,全体へと広げてみる.滴は早くも,既に乾いてきていた皮膚にスッと馴染んでいく.
 “潤っていく”とはこういうことかと,脳でなく皮膚が理解していく.
 そうしてやり方もよく分からないままに,化粧水に潤った手で顔に触れ,それを馴染ませようとする.潤いは一瞬に毛穴の奥へと浸透していき,あっという間に顔がプルプルになっていくような不思議な感覚があった.数秒前は頬だったそれを“ほおっぺた”とでも呼びたくなる.目が覚めるような感覚が確かにあった.
 実際に鏡で顔を見てみると,生気を取り戻し,うっすら健康的な赤みすら浮かんでいるのに気づく.いい顔だった.
 しかし,洗面台の縁を両手で掴みながら,鏡を見続けていると,顔が無駄に赤くなっているように思えた.心なしか少し痒みも込みあげてきたような気がする.この赤,この痒みがが良いものなのか悪いものなのか,二色には判別できず不安になる.
 化粧水を使うなら確かに,皮膚にすぐさま潤いが取り戻されていき,スキンケアというものの片鱗を味わった感覚がある.それに少しばかり魅了されたのもまた確かだ.
 それでも,何か騙されていないかって疑念も同時に感じた.美容業界の価値観を知らぬ間に内面化してしまいできた虚構の魅了なのではないか.
 いや,二色は思う,そんな大学の授業で使われるような言葉を日常に持ちこむなよ,本当にこれはいいって思ったんじゃないのかよ,俺.
 そうやって考えるうちに,自分が本当に考えていること,求めていることが何なのか,確信を以て言えないように思えてくる.
 だが言えたとしても,それらは社会にお膳立てされたものなまでで実際には自分が考えていることでも,自分が求めていることでもないような気にすらなる.
 自分の世界がグラグラと揺れるのを,二色は感じる.
 しかし,洗面台の縁を強く掴み続けるなかでふと我に返る瞬間がある.
 自分は無駄に考えを捏ねくりかえし過ぎではないか.現実に,そして日常大学で使う類の批評用語を持ちこんでしまったゆえに,全ての底が抜けてしまってる.自分が思っていることを無駄に疑うことで,自分で自分を幻想へと追い立てている.不毛だ.
 こういう時が時々ある.もう何が何だか分からないと思えて,全ての考えを投げ出してしまいたいというそんな時が.
 女性は無駄毛を剃らなくてもいい,メイクもしたくない人はしなくてもいい,したい人だけがすればいい,就活などでメイクを強制されるのは以ての外だというのが叫ばれる.一方で男性は,自分たちもきちんと脱毛するのがいい,それは女性に対するマナーだ,メンズメイクをすれば就活に有利になるからキチンと眉毛くらいは整えようなどと言われる.
 そしてフェミニズムが男性と女性の違いはない,そういう固定観念を打破しよう!と言ってるのに,トランスジェンダーの当事者は自分は男性だ,自分は女性だなどと言っていて,むしろその固定観念を強化しようとしている節がある.それであればネット上で喧嘩しあっても当然だろう.
 さらにそのなかでノンバイナリーという中性みたいな人が現れたかと思えば,その時々によって自覚する性が変わるとかいう人種も現れ,何がどうなっているのか全く訳が分からない.
 全部があまりにも極端すぎて,もはやついていけない.
 ダン,ダダだだん,だんだダダダダン.
 二色は,頭の中から何かが聞こえてくるのに気づく.その暴力的な音の響きとともに,あるイメージが浮かんでくる.
 小学校の体育館,幼い二色が反復横飛びをしている.
 力を振り絞り,床に貼ってあるテープから,その逆側に貼ってあるテープへと,二色は横飛びを激しく行っている.ダンダン,ダダダダダンダンという炸裂音は加速度的に大きくなっていくのだが,しかしその奥からゼエハアという荒い呼吸の響きもまた聞こえてくる.
 そしてそのザラついた響きこそが,より大きくなっていく.
 反復横跳びの最中,二色の体は熱を帯び,何よりもその顔がどんどん真赤に染まっていく.その異様な赤色と呼吸音を尻目に,二色の横飛びはさらに速度が上がっていく.
 それは誰よりも多い回数を彼自身が叩きだしたいからか.
 それとも多い回数を出すことを何者かに強いられているからなのか.
 そもそも,何で自分がこんなことに巻き込まれてるんだ?
「おはよっす」
 姉の洲崎竹乃にそう言われ,ふと我に返る.
 化粧水をつけた顔を,洗面台の縁を握りしめながら凝視していると,そんな姿を見られたのが恥ずかしい.だが竹乃は何も思っていないようで,呑気に乱れた髪をドゥシャドゥシャと掻き毟っている.
 二色は一回息を吐いてから「おはよう」と答える.
 竹乃はただ手を振りながら,横のトイレに入っていった.
 扉が閉まったのを確認してから,もう一度顔を洗おうとする.だがその顔が真赤に染まっているのに気づき,驚いてしまう.電車に飛びこんで弾けた,血まみれの肉片を喰らわされたかのように真赤なのだ.
 なるべく平静を装いながら,顔を洗おうとする.
 いつものように手で皿を作る.
 満杯になったのを見計らってから,いつものように頭を下げる.
 同時にいつものように手を上げる.
 そしていつものように,水を顔にブチまけていく.
 瞬間,いつもとは違い,顔中に激痛が走る.

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。