コロナウイルス連作短編その163「処刑の日」
「サワヤン、本当に戦争行っちゃったらどうしよう」
テレビを見ながら娘の樹槍あとかがそう言った時、母として樹槍炉見は何も言えない。
サワヤンはゲーム実況者の兄弟であり、主に「マリオカート8DX」の実況動画をYoutubeにアップしている。試合に負けた際には叫び声をあげ、時にはテーブルを平手で叩く、いわゆる台パンを連発するなど、小中学生に受ける類いの過激さを持った実況者だ。親としてはこうした行為を娘が真似してしまう可能性を鑑みざるを得ず、少し気にかかるところもある。
だが実を言えば、炉見自身もゲームは大好きだった。娘とは任天堂のゲーム、最近では例えば「星のカービィ ディスカバリー」の2人プレイで遊び、先日「マリオカート8DX」に新規コースが追加されたので、また2人で対戦するようにもなった。実際は炉見の方がゲームに熱狂しており、1人では「エルデンリンク」のやりこみに熱をあげる一方で、昔プレイしていた「チョコボレーシング」の23年ぶりの続編である「チョコボグランプリ」を買ったはいいが、オンライン対戦におけるバグの多さに憤るということもある。そういう時は確かに物に当たりたくなるゆえ、あとかが台パンを真似したがる気持ちも理解はできる。妹である日比も子供の頃には、自分に負けた時に床をバンバン叩いていたことが自然と思いだされる。
ゆえに、頻繁とは言わないが炉見もゲーム実況を楽しむ時もあった。サワヤンもあとかが好きということで、時々動画は観ている。彼らはウクライナ人でもあり日本にずっと住んでいるので日本語も当然流暢だ。時にはゲームで負けたらロシア語でブチ切れるという企画も行っており、娘には言えないが炉見のお気に入りでもあった。
だがロシアによるウクライナ侵攻が始まってから状況が一変する。彼らはゲーム実況とともにウクライナの現状も伝えるようになり、現地で戦争に巻き込まれている父親に関する話も動画で共有していた。彼らが義勇兵に志願するという動画を観た際には思わず生唾を呑みこむほどの切迫感を抱いたが、それを撤回してゲーム実況をそのまま続けていることに安堵している。
「サワヤン、本当に戦争行っちゃったらどうしよう」
あとかの口は動いていない。ただ言葉の残響が頭蓋のうちで震えている。
「いや、いや大丈夫でしょ。だってちゃんとずっとゲーム実況の動画あげてるじゃん。それにこの前、奥さんと結婚式の準備するとこ、週刊紙に撮られてたよ。それで戦争行ったりとかは……」
唇に微かな痛みが走る。皮膚がぴしっと切れた気がした。思わず舐める。鉄の味がする。
「でも家族とか親戚の人に何か起こったら戦争行っちゃうかも」
あとかの言葉にまた何も言えなくなる。
戦争はすぐ終わるし、平和になるから大丈夫だよ。
そんな返答が頭に浮かぶ。
そんなに簡単に戦争が終われば苦労なんかないだろ。
吐き気のようにまた別の言葉が現れた。
ニュースを見るならば、すぐさま絶望が突きつけられる。核兵器、経済制裁、拷問、そしてジェノサイド。あのプーチンという独裁者が次に何を行うかなど自分には予想できる筈がない、炉見はそう思うしかない。
戦争はすぐ終わるし、平和になるから大丈夫だよ。
もし実際に言ったとしても、それに説得力はあるのか。ただただ空虚にしか響かないのではないか。炉見は唇が強張るのを感じる。
「ロシア人のせいだ」
あとかが言った。
「ロシア人が戦争起こさなきゃ、サワヤンもずっとゲームとかバスケとかだけできたのに。ロシア人なんか死んじゃえばいいのに」
あとかは立ちあがる。
「アイツも死ねばいいのに」
あとかが歩きだす。
炉見は“アイツ”が誰を指すかを一瞬で悟る。あとかと去年度のクラスが同じだったアンドレイという少年だ。母親のマリアがロシア人で、そちらの血が濃いと思えるような、目も覚める金の髪を持っている。彼とあとかが友人関係だったことはないが、炉見とマリアは顔見知りだ。日本語がうまく喋れず苦労しているのを、少し英語が喋ることのできる炉見が時々サポートする時があった。白いというより青白い肌が、日々陰影を増していく様を彼女は見ている。ロシアのウクライナ侵攻が始まってから、日本在住のロシア人や東京にあるロシア料理店が嫌がらせを受けているというニュースを時折見かける。そして頭に浮かぶのは、乾いた骨の色を纏うマリアの顔の皮膚だ。
「そんなこと言わないで」
炉見は娘の背中へそう言う。
「ロシアの人とこの戦争を一緒にしちゃいけない。日本に住んでいる人ならなおさら関係ないでしょ」
「“なおさら”って何?」
あとかがこちらを一切見ずに言った。
「ロシア語とか喋るあいつらがもっと戦争反対って言ってれば戦争も起こんなかったかもしんないのに、みんな無責任すぎる」
「本当にそう思う? あの状態のプーチンが戦争を強行する様を見てよ。ロシアの人がもっと声をあげていたとしても、それを止められたかなんて楽観的すぎるとしか私には思えない……」
そうして事態を分析しようと、感情を抑えて思考を巡らせようとしている自分に気づいた時、この冷静を気取ろうとする姿勢それ自体が欺瞞のように思えた。それでも思考は脳内を駆けめぐり、唇から止めどなく溢れでる、生の痕跡を押し潰していく土砂の波濤のようにだ。
「じゃあさ」
あとかが言った。
「じゃあどうすれば戦争は起こらなかったの?」
炉見は、あとかと目が合う。泣いていた。
何も言えなかった。
あとかは背を向けて、急ぐことはなく、ただゆっくりとドアを歩いていく。半開きになっていたドアを優しく押し退けて、向こう側に行ってから、静かに、少しの音も立てまいとするようにドアを閉める。だが開閉時にその山吹色の木材は間違いなく軋む。それは今回も例外ではない。軋む。
炉見は何も言わなかった。右の膝が痒い。
よく子供なんて産もうと思えるね、お姉ちゃん。
どこかからそんな声が聞こえた。
社会がこんな残酷で醜くなってるのに
どうして子供産もうなんて思えるのかって
私には分からないよ
そういう自己満足に付き合わされる
子供たちのこと考えたことある?
お姉ちゃんみたいな人間のせいで
こんな社会に
生まれてきてしまう子供たちの
気持ち考えたことある?
お姉ちゃんは
いつか
この罪を償わなくちゃいけない時が
きっと来るよ
ねえ
処刑される時がきっと来るの
お姉ちゃんみたいな存在はね
生まれてきてしまった
子供たちの
手で
処刑されなくちゃいけないんだ
炉見にこう言った翌日、日比は住んでいたマンションのエレベーターの中で死んでいるのが発見された。右の掌だけ妙に赤かったらしい。
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