転機を急いでのりこえるんじゃなく、味わってみるという発想。
トランジション、つまり人生の転機・節目について説明するとき、よく空中ブランコのたとえをつかう。
つかんでいた前のブランコから手をはなし、空中に身を投げ出し、次のブランコをつかむ。その作業が、ブリッジズが唱えたトランジションの「終わり」「ニュートラルゾーン」「始まり」の3段階と重なるのだ。
だけど最近、「転機って、ほんとうに空中ブランコか?」と思いはじめた。
転機は、煮え切らない
たとえば。
僕は大学生時代に対人不安の症状が出て、コンビニでレジをうつことも、就活もできなかった。そんな生きづらさを、あるキャリアカウンセラーとの出会いや人と接する機会を得たことで克服していった。めでたしめでたし。
となれば、NHKの某番組よろしくスガシカオの曲が流れてきそうなものだけど、ところがどっこい、現実はそう簡単にはいかないのだ。
今でも人と接するのは苦手で、インタビューの仕事では緊張でダラダラ汗を流して「だいじょぶですか?」と心配されてばかりいる。もし転機が空中ブランコであるなら、僕の片手は、というか片手の手袋くらいは、前のブランコに引っかかったままプラプラしたままだ。
でも、多くの人が、そんな煮え切らなさを抱えながら生きているんじゃないかな。
実態的時間」と「関係的時間」
哲学者である内山節さんは、著書『時間についての12章』のなかで、時間についての異なるとらえかたとして「実態的時間」と「関係的時間」をあげている。
「実態的時間」は、過去から未来へと直線的に進み、誰もが同じ基準を参照できるような、時計ではかれる客観的な時間。いわば、時計の時間だ。
一方で「関係的時間」というのは、自分と自然や他者との関係性の中で生まれる時間。それは円環的(桜が咲いたことを通じて、春がまた巡ってきたと感じるような)で、客観的というよりも主観的なもの。わたしとあなたでは、持っている関係性がちがうから、当然、流れている時間がちがう。
転機という時期を味わう
で、転機の話。
転機を空中ブランコにたとえる前提には、「実態的時間」のとらえ方がある。未来から過去へとあともどりはできず、なるべくはやくのりこえるほうがよく、過去より未来は成長したほうがいい、というような。その前提に立つと、僕みたいにうだうだやってる人間は「煮え切らない」ということになる。
けれど、転機についても、「関係的時間」のようなとらえかたをしてみるとどうだろう。つまり、ある関係からある関係へと、自分の置きどころを変える時期で、しかもぐるぐるとめぐるもの、としてとらえてみるのだ。
それは「成長」という言葉であらわせるものではないし、めぐりめぐってもとの関係性にもどることもある。一人ひとり転機の時間の流れはちがうから、そこでしばらくとどまって、変化を楽しんでみるのもいい。
そんなふうにおおらかに考えると、別に転機を焦ってのりこえなくてもいいのだ。むしろ、もうちょっと転機という時期を味わっていい。自分でいうのもアレだけど、煮え切らなさもチャーミングな味わいだ。
ちょうど季節は梅雨。この春から夏へのうつりかわりの時期を、「はやくおわってほしいなぁ」と憂うつにすごすより、屋根をたたく雨音や雨の日のにおいなんかをたのしみながらすごしていたほうが、なんだかすこやかな感じがしてくる。
これは天気の話。人生の転機も、どうせならせかせかとするより、その時期ならではの味わいを感じていたいなぁ、と思う今日この頃なのです。