ありがとうキヨちゃん
1月の終わり頃。
遠縁のおばあさん、キヨちゃんが亡くなった。
亡くなった日の夜の夕食前、母が叔父と電話しているのを聞き、それを知った。
過去の記事にも書いてあるが、キヨちゃんは私の母方の祖母の兄嫁。
そんでもって、母方の祖父の従姉でもあり、うっすらとだけど血が繋がっている。
宮城に住む、キヨちゃんの孫で再従姉(ハトコ)でもあるお姉さんには、すぐにLINEで連絡をし、お悔やみの文と、私の分も手を合わせて欲しいと綴った。
このご時世、親族をあちこちから呼んで葬儀というのはまだまだやりづらくて、家族葬にすると聞いていたのだが、幼い頃キヨちゃんにそれはそれは可愛がってもらった母と叔父は、「残念だけど…」と最後の挨拶を諦めたのち……
叔父だけが抜け駆けして、住まいの栃木から深夜に車で6時間かけて、宮城の山奥の町まで行ったそうだ。
母「ずるい……」
そうは言っても、私達の住む関西からはますます行くのは難しく、母は香典を叔父に立て替えてもらい、キヨちゃんの息子で従兄にあたる人達に電話で挨拶をしたそうな。
キヨちゃんと会ったのは、小学6年生の頃が最後。
その後も、電話などで何度かお話はしたけれど、会えた回数なんて片手で足りる程度。
それでも、そのうちの大きくなってから会った2回の思い出はとてもとても強く私の記憶に残っていて、大らかで優しい、料理上手なおばあさん。
もう二度と会えないのは、本当に寂しくて、仕事しながら時折涙が滲む日もあった。
葬儀が終わったあと、再従姉からLINEが届き、葬儀の会場や遺影の写真も添えてくれた。
再従姉からは、棺に入ったキヨちゃんはとても小さかった。
11月に一度危ない時期があったが、それを乗り越えて頑張ってくれた。
遺影の写真は亡くなる2年前――95歳の頃の写真で、再従姉の記憶の中のキヨちゃんらしかったと。
私が最後に会ったキヨちゃんは、ふっくらとした人だった。
でも、あれから20年経ったキヨちゃんの姿は、すでに私の知るキヨちゃんとは別人で、痩せて小さかった。
もっと早くに会いにいけたら…。
何度もそう思ったけど、また行きたいと強く思っていた頃の私は子供で、自分自身も闘病中で、旅費なんて稼げなかったし、母の従兄弟である人達の元に1人で行けるほど度胸も無かったし、そのおじさん達だって、1人は多忙で、もう1人は末期のガンと闘いながら農業をしていて、どうしても無理だった。
母の弟である栃木の叔父は、アポ無しで宮城に行ったらしい。
正直、「このご時世に何の連絡もなしに行くとか…‼︎」と、話を聞いてびっくりしたのだが、叔父が会いたい気持ちもよくわかるし、勝手に訪れて追い返されることもなく、キヨちゃんの息子3人は、久しぶりの従弟との再会を喜んでくれたらしい。
いつかまた、宮城を訪れたら…キヨちゃんのお墓に行って、これまでの感謝の気持ちを伝えたい。
でも、それまでは遠く離れた場所で、キヨちゃんとの思い出を振り返る。
ありがとうキヨちゃん。
大好きな、遠い親戚のおばあちゃん。
いつか私もうんと歳をとって、そちらに行ったら、あのおいしい炊き込みご飯を今度は一緒に作って、一緒に食べたい。