井波の失恋

4年後井波は囀る〜の中でもかなりキャラクターが読み取りにくく、一方でヒールとしての役回りはわかりやすいのであんまり掘り下げられていない人間な気がするのですが、私はどうも囀る沼に来て以来、4年後井波について気になり続けてました。率直にいえば、彼にどうにも一種の好感があることを認めざるを得ない。人間的に好きとか彼の行いを肯定するとかそういうわけでは全くないのですが。私はちょっと拗れてる面倒なおっさんに好感を抱く自分でもよく分からない癖がある人間なのですが、その癖が4年後井波に対して発動してる。それが何故なのか分からなかったのですが、ひとつの仮説が出来たのでつらつら書いてみようかと思い立ちました。

その仮説とは、「井波は矢代に惚れてしまっていた」、というものです。以下、私の勝手な考えですのであしからず。


複雑になってしまった井波

4年前井波はかなり単純かつ分かりやすい人間でした。平田と同じで、何か外在的な理由を旗印に誰かを加虐する人間として描かれています。虫酸が走るほど嫌いなヤクザであり男でもある矢代に痛みを伴うレイプまがいのプレイをし、またかなりサディスティックで、傷を抉ることまでしています。痛めつけられることに慣れている矢代も悲鳴をあげるほど。
一方、井波は常識的な価値観も持ち合わせています。腐っても刑事やってるわけだし、自分の加虐的嗜好がおかしいこともよく理解してるものと思われます。しかし自分の加虐的嗜好は節操があるという自負もある。憎いヤクザ相手だったら許されるし、そういう人間にしか加虐的嗜好を向けない。ヤクザはいくら害しても構わない、常識の範囲外の存在。だから自分の加虐的嗜好は棚に上げて、自分の肉親をぐちゃぐちゃになるまで殴った「常識から外れた」百目鬼の暴力性を罵倒し、嗤うことができた。暴力性を持ち合わせる百目鬼と自分は別の人間だと線を引くことが出来ていたのです。

しかし井波は、矢代を自らレイプしに行ってしまったあと、本人がどこまで意識していたかはわかりませんが、その加虐的嗜好を「許されたい」と願ってしまったのではないか。許されない嗜好、許してしまう矢代。自分の許されない罪を開示したのに、許し、受け入れてくれる人間を嫌悪し続けるのは、かなり難しいことだと思います。ただでさえ囀るはアブノーマルな嗜好や許されない罪(影山のケロイド嗜好、百目鬼の暴力性)を許す人間へ強い好感を示す人間ばかり繰り返し描写される漫画です。井波は例外とは考えにくい。よって、矢代に情が湧かざるをえないんじゃないかなと思います。本人は否定していますが。
ちなみにいつも薄ら笑いしている4年後井波ですが、仕事している時以外で真顔になっているのは、矢代に「情でも湧いて宗旨替えか?俺に惚れちゃった?」と問われた時と、矢代が百目鬼には勃起する事実を知ったときです。この辺が井波の本音な気がします。つまり、実際は情が湧いて惚れている、しかし矢代が惚れているのは百目鬼ということがわかってショックだった。この辺の話はまたあとで書きます。

話を戻しまして、そんな「許し」のようなものを求めて矢代と4年間関わり続けた結果、井波はなんだかよく分からない人間になってしまいます
まず、百目鬼への罵倒がなくなってしまった。いや、まともだった人間が転落していくのは楽しいと一見相変わらずクズな考えを矢代に述べていますが、百目鬼の暴力性を嗤うことが出来なくなっている。殴られてスマホ破壊された時でさえも「ああってめえやめろ」でおわり、その後そのことに対して全くの不問です。謎です。4年前のわかりやすい井波でしたら激怒していたところでしょう。また、百目鬼に対しヤクザにさらに深入りした理由については聞くけども、そこにはかつてあったヤクザへの嫌悪感と敵対心を感じることが出来ない。本当にその理由が聞きたいだけ(おそらくは矢代のためにヤクザに深入りしたんだろう、矢代はおまえには満足していなかったみたいだけどもな~と吐き出させたかったんだろうけども)。
それは井波も、この4年間矢代をレイプし続け情報を与え続けることで、ヤクザへの一種の同化と自分の暴力性を、(どこまで意識下で自覚しているかはともかく)認めざるを得なくなったからだと思います。ヤクザと共生関係になってしまい、「常識」のラインが曖昧になってしまった。長く付き合えば嫌でも人間性が垣間見えてきて、矢代を常識の外にいる異形や悪と割りきれなくなっている。矢代はヤクザの看板をつけてはいるが、中身は勃起出来なくなっている憐れな柔らかい人間で、それを加虐することで性的に興奮している自分。
一面では腐れヤクザに成敗を与える、正義の建前がある。一面では痛々しく憐れな男に自身の加虐的嗜好を押し付けてレイプする、常識から著しく外れてしまった自分がいる。そんなゆがんだあり方を受け入れてくれる男に、腐れヤクザの烙印も好意も正面からぶつけることができない、複雑な人間になってしまったのだと思います。

そんな井波が久しぶりに会った百目鬼に放った言葉が、「お前そんなに傷だらけだったか?」という正月に久しぶりに再会した親戚のおっちゃんのようなコメントです(45話)。なんだこのお年玉くれそうなくらい親しみを感じるコメントは。いや、親しみを感じているんだと思います。同族になってしまったから。あるいは、明確に切り分けることができなくなって、許容範囲が広くなってしまったからかなと。

しかし井波は、矢代の心に立ち入ることも、自分の情を開示することもできていません。井波はけなげに矢代を送迎していますけど、セフレを毎回車で送迎するのって普通なんですか??セフレ界隈に詳しくないから分からないけどえらく親切な気がする。でも井波は百目鬼のように、矢代の家に押し入るほどのことはできていない。あの36階タワマンの矢代の部屋は矢代の心象風景だと思っているのですが、部屋=心の中にまで踏み込めてはいない。矢代への恋慕を認めるまでには至っていない。あくまで情報提供というビジネス的建前がないと交流できない。なぜかって、4年経っても矢代から井波へ情の類いの感情は一切向いていないことはよくわかっていたからじゃないかと(同意の上とはいえレイプしてるんだからあたりまえっちゃ当たり前だが)。本当は矢代の心が欲しくなりつつあっても、そうするとそれまでの立て付けがめちゃくちゃになるからできないわけです。

じゃあ井波は矢代の何になりたかったのかと言うと、特に何かになりたいという訳でもなく、この終わりのない、ゆがんだぬるま湯のような地獄のような共依存関係が長く続くことを願っていたのではないかと思います。そして互いに4年も依存し続けている状況の中、矢代への独占欲が芽生えていてもおかしくないのではないかとも。
二人の関係については何の答えも出さないまま、ただただ4年が過ぎ、関係性には何の進展もなく、しかし井波の引いていた常識のラインは矢代によって確実に曖昧にされてしまった。もっといってしまえば、人格さえも変えられてしまった。一方の矢代は、井波との関係からは何も変わらなかったのに。

複雑さの開示欲求と失恋

そんな井波は百目鬼が電話に出てくるとなんだかとっても喜んでいます(53話)。語尾に音符マークついている勢いです。正直この場面で何でこんなに喜んでいるのか未だによくわからないんですけども、言葉と行動を素直に受け止めるなら、百目鬼に興味があること、百目鬼に矢代とのプレイを自慢したいこと、でしょうかね。じゃあなんで百目鬼に興味があるのかというと、まともだった奴が深くヤクザに身を落としたのはなぜか、というところに関心があるから。なぜ百目鬼がヤクザに深く身を落としたことが気になるのか?そこに矢代が関わっていることを直感しているからだと思います。で、百目鬼と矢代は自分を置いて矢代のヤサに入っていった訳ですが、そのあと矢代は自分のところに戻ってきた。おまえは選ばれなかった。優越感がでちゃう。ならばもっと煽って自慢してやろう♪って感じですかね。
同時に、井波は自分の秘密を誰かに打ち明けたい気持ちもあったんじゃないかと思います。矢代と井波の関係を知っていて、かつ、二人の関係に手を出してきた人間は百目鬼だけなので(七原は知ってはいるだろうけど、部下故に矢代のシモ事情に口出しできる立場じゃないので何もできない)。百目鬼はおそらく矢代への執着から顔中傷だらけにしてまでヤクザに身を落としている(多分)。そんなおまえにとって大事な人間が今は俺なしには生きていけないんだという優越感が、自分が矢代をレイプする動画を見せるという謎な感じの開示欲求に結びついていたんでしょうかね。想像ですが。

まあしかしともかく百目鬼に見せびらかした結果出力された答えは、矢代は百目鬼にしか勃起しないという事実でした。矢代が百目鬼にだけは違う反応を見せる、つまり特別だったのは自分ではなく百目鬼だったことを知って、井波は思わず真顔になります。矢代には情愛が存在しており、それは4年間関わっていた自分には一切向かず、4年ぶりに再会した百目鬼にだけ向かっていた。井波は失恋を悟ったわけです。
相手には情が見て取れないのに自分には情があることをどうしようもなく認めなきゃいけない場面、矢代は自分は簡単に射精してしまったのに百目鬼の対応があまりに義務的なので「笑える」といって顔を覆っていましたが(46話)、同じ状況におかれた井波から出てきた言葉もやっぱり「何だそりゃ笑えるな」でした。
このあと、井波は殴られてスマホを破壊されSDカードを回収されたにもかかわらず、怒りもせずにタバコを吸い淡々と百目鬼への質問に答えるという4年前井波と全くかけ離れた立ち振る舞いをするわけですが、失恋の衝撃をなんとか取り繕っているようにも見えます。タバコへ送る視線がもの悲しい。
あまつさえ頼まれていないのに奥山の情報まで渡すその姿は脈絡のなさもさることながら痛々しくもあり、百目鬼は思わず「アンタは気持ち悪いな」という言葉を投げかけます。つまり、あんたらしくない、ヤクザを憎み悪辣さを隠さない4年前のおまえはどこに行ったんだ?というところでしょうか。それに対する井波の返答は「褒めてんのか?」です。かなり意味不明な会話で初見の時は百目鬼のこと好きなんか…?と思いましたが、どうにも複雑な人間になってしまった井波に対し、百目鬼も「矢代を害し続けた憎い存在」だけでは割り切れない「気持ち悪さ」=違和感を抱えるようになり、井波もその評価に百目鬼の敵対的な態度の軟化を感じて、「褒めてんのか?」という返答になったような気がします。いや、未だによくわかりませんが。

矢代の恐ろしさ

大分好き勝手述べましたが、井波の失恋説を考えてみると、改めて矢代は末恐ろしい人間だとも思いました。全てを受け入れる矢代をおいしく食べてやろうと思い一歩立ち入った男は、深入りしたら最後、気づいたらもう戻れないところまで甘い酸で浸食されてしまって、しっかり養分を搾り取られながら人格や行動様式までドロドロに作り替えられてしまう。そこまでめちゃくちゃにされてしまうのに、用済みになったらあっけなく捨てられてしまう。並の男が軽い気持ちで手を出していい物件じゃない。もっともこれは矢代の意図したところではなく、生存戦略として何もかも受け入れ続けた結果、このようになってしまったわけですが。
酸に飲まれたのは百目鬼も同じ。しかし、酸で浸食され、人格も人生も何もかも変えられてしまってもなお暴力的なまでに矢代の心象に立ち入り、我が身を省みず、その恐ろしさひっくるめて包摂し幸せを願う、一途で勇敢で優しい男だけが矢代を受け止めることができる。矢代は、そういう男だけを求めている。残酷なまでに。

4年間かけて人格を浸食されながら、自分にはとても手に負える男じゃない、でも離れることもできない、という矢代の末恐ろしさを、井波も実感していたんじゃないかなと思います。失恋はショックだっただろうけども、一方でどこかほっとしてもいるようにも見え、百目鬼に奥山の情報を与えたのも、もはや自分から抜け出すこともできないでいた甘い地獄に終わりを告げてくれた礼のようにも思えてきました。犬よろしく、自分の手に負えない存在に選ばれた男に格の違いを見せつけられて腹見せたって解釈も悪くないかな。いずれにしても想像ですが。

ちなみに4年前のレジェンド当て馬・竜崎は矢代への恋慕を受け入れ、矢代のために体を張る男チャレンジをやってのけてくれました。井波も男チャレンジのチャンスはあるのかな?どっちかっていうと矢代の手に渡ったレイプ動画をネタに揺すられそうですけども。

おわり


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