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”推し”のきもち


実は私は昨日、つまり2021年8月13日金曜日に初めて”note”と出会った。まだnoteが一体全体どういうものか、使い方もまるきり、きっと何もわかっていない。でも少しだけ実感したことがある。このnoteを立ち上げた人はすごいなと思う。ある意味、平等に”生きる場所”を個人に提供しているのだ。

当たり前だが生きてゆくためには少なからずお金がかかる。空気だけをすってゆきてはゆけない。生きるためには、食べてゆかなければならず、食べるためには、生活してゆくためには、職業に就き、時間と労働を提供しなければならない。私の時代はまだ今のように、こうした情報社会ではなく、大学でやっと”情報社会”という授業が出てきた時代であったが、それでも誰もがPCを触れる時代ではなく、こんな風に誰もが何も知らなくても感覚で情報をいじれる時代ではなかった。なので働くという作業は社会に出て自分から人に関わらなければ仕事というお金を稼ぐ方法がなかなか探すことのむつかししい時代であった。つまり。自分の中に閉じこもって、生きてゆくことができる余地は当時の社会になかった。いやあったのかもしれないが、少なくとも私のような不器用で馬鹿者には見つけることがむつかしい時代であった。あげく就いた職業は、誰もが自分の人生において決してなりたいものに就けるけるわけでもなく、あくまでも生きてゆくためであり、純粋に夢を追うためには自分を応援してくれる身内の財力や、自分やその才能を応援してくれる存在、つまりはパトロンが古くから必要であった。親の財力に恵まれ育ったか、才能を発掘されるチャンスに恵まれたかしたエリート以外は、そうこうしているうちに通常はなかなか夢を追いきれなくなり、いつしかそこに知らない間に寄り添う人との出会いがあり、契約を結び家庭をもち、それを守るために生きること、つまりはそのために目の前の仕事に就き、働くことが個人の幸せだと思いこませて定年まで働くのが一般的な流れの時代であった。

こうしたわけで私の時代はもっと人が当たり前にもまれていた時代でもあったと思う。きっと親子関係も親の権力が当たり前に強かった。今のように子供の気持ちや、友達のような親子関係などという優しい風潮のある時代ではなかった。なのでまあ当時も社会に適応できないダメ人間の私のような人も多くいたのだと思うが、ひきこもるなどということは身近に感じて生きてこなかった。仕事をやめれば自分の居場所がなく、心が病んでいてもそれを隠して人としての尊厳も与えられず、屍のように働いた。つまりはひきこもるということはすでに神経が病んでおり、そうしたレッテルを張られ、センシティブな思いは無視されて私たちはもっと鈍感にならなければ、生活することの難しく、生きるか死ぬかの向かい合わせを強く背負わされるような追い込まされた場所にあったと思う。

今はひきこもった生き方にも世の中は優しいと実感する。なぜなら自己の発信の場所がこうして見つけることができる。生きていくということは実に厄介で過酷だ。誰もがわけもわからず落とされた世界で、わけのわからない間に出来上がっている自国のルール、そのわずらわしさに適応しなければ”立派な社会人”として認められない。でもそのハードルは思うより高くて、いや高すぎて、ついてゆくことはかなりむつかしい。正当な税金を払ってこの日本国において”人権”を得ることは困難で、私はいつだって疲れてふっとため息をついた瞬間、すっと魔風にさらわれてリタイアしたい思いに駆られる。いや、その前にまともな社会人としての生活が果たしてできているかのほうが疑問ではあるのだが。

けれど生き方は一つではなく、唯一無二の一人一人の存在が、自分の価値を自分自身の中に強く、揺ぎ無く、確固と持ち、それを誰に侵害されることなく守り抜くことが、このnoteの中ならできうる可能性を感じたのである。

昨日人生においてはじめて推しという感情にであった。偉そうにも、自分をさておき、その若い才能を応援したいと思いたち、いても立てもたまらずサポートということをしてみた。たかだか1000円のサポートではあったが私はとても幸せな気持ちになった。いや少額だからこそだから気楽に、何度も何回もできてよいのである。そこに大きすぎる執着が生まれにくい。金額が大きくなれば所有感、してやってる感、やがてパトロン的思いが強くなり人の中に執着が生まれる。人に対する執着は私は人を闇に落とすと思っている。が、しかし、このネットの中の住民は多いので、私のように感動をサポートという形で応援したいと思う人間の一人一人のサポートが、この社会においての正当なその人の価値とされ、評価されたことがまた推された人の心を支え、生活の支援になる。実に素晴らしいと思った。私は彼女の成長をずっと見守ってゆきたい、どんな風に生きてゆくのか、何者になってゆくのか、純粋にこれからも応援してゆきたいと思った。このnoteはそうした出会いをくれる場所でもあるのだ。人に才能を推してもらえる場所。生きることに少々不器用な人たち、お金がなくても、出会いというチャンスに恵まれなくても、人生において生まれ落ちた場所に、持ち合わせが不遇であっても、そうした不平等の世の中において、このnoteという場所が居場所になる。これまではただの発信場所だったブログが、こうした一つの社会、しかもグローバルな社会の中に平等に住民権を自由に与え、生きる場所を提供していることに感動がやまない。ただし、いろんな人がいる。パトロンの危険性も十二分にある。このコミュニティが、もちろんまずは個人の責任においてマナー、道徳をまもられるべきなのだが、だからと言って丸投げ放置されるのではなく、どうルールを敷いてゆくかもまた、この素晴らしい居住区に居場所を見つけた一人一人を守るうえで、これから大切な課題であると思う。

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