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気づいたら一周まわって実家へ
田舎生活が嫌で都会のオンナになってやると決め、東京へ上京した23歳の春。
それが、どういうワケか巡り巡って、実家へカナダ人の夫を連れて帰ってきていた。ナウ現在進行形。
✔引っ越し回数 ⇒ 21回
✔転職回数 ⇒ 10回
✔海外滞在年数 ⇒ 2年9カ月
田舎から出たかった幼少期
小さい頃からテレビっこだった。両親も祖父母もテレビが好きで、暇な時はテレビをずっと観ている環境だった。
テレビドラマの世界や美味しいレストランやイベントなど、私の憧れはブラウン管を通して体の隅々まで染み込んでいった。
「東京で憧れの生活をしてみたい」
今考えれば、幼稚な動機だが当時は本気モンだった。
憧れの東京生活
職場は渋谷のIT企業。学生時代に韓流にハマったのをきっかけに、日本よりはるかに発展していたITの世界を知る。
アパートは板橋の1Rの小さな部屋で5万2000円。当時としても、かなり安くてとうてい女子の住む部屋ではないと言われたけれど、自由を手に入れた気分は最高だった。
仕事はというと、最悪だった。俗にいうブラック企業。IT企業はブラックの傾向は強かったものの、当時で創業20年を迎える老舗というポジションがウリでもあったし、社長も40代で経験豊富と思っていたが、読みを間違えたようだった。
社内闘争に巻き込まれ、あれよあれよと会社都合での退社。周りの友人に入社1年で辞めた、いや、辞めなければならない状況なんて人はいなかった。
お先真っ暗ということは、こういうことだと身をもって体験した日だった。
雑貨屋をやりたい夢を思い出した
IT企業では、社員研修やアシスタントのアシスタントのような仕事しかしていなくて、実績もなにもない。転職活動は難航した。資格取得のための専門学校にも通いながら、少しづつ前職での傷を癒しながら、仕事探しを続けた。
当時はまだmixi全盛期の時代だった。ブログのように文章を書く人が多いながらも、写真のクオリティーも少しづつ重視されるようになってきた頃だった。
食べ歩きが趣味だった当時の私は、自炊の写真をmixiに載せて友人にお披露目(褒めて~♡攻撃)をよくしていた。不器用なワタシは、料理の盛り付けでは華がでないと早々に諦め、アフタヌーンティーやFrancfrancなどの雑貨屋さんの食器を物色するようになった。
突然思い出したのだ。「将来、一緒に雑貨屋さんをやりたいね」高校生の時に、仲良しだった幼馴染との会話。本当は、これをやりたかったんだと。
そんなある日、条件、業界、職種、すべてが完璧な会社を見つけ、2週間足らずで内定を頂き働くことになった。それは、以前働いたIT企業とは正反対の性質をもった会社だったのだ。
スキルも経験もないワタシは一生懸命働いた。終電で帰る日も多く、コンビニ弁当も多く、体重もどんどん増えたうえ、恋人さえ作ることができないほど多忙だった。ストレスもピークに達した。
いろんな感情、出来事が重なり、諦めていた海外留学を行く決心がついた。3年10カ月で350万円を貯金したすべてを使う覚悟で10か月間のオーストラリアへワーキングホリデーに行ったのだった。