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現場の声は無視

今、私は憤っている。なぜかというと、奈良の鹿の治療を制限しようとする動きが愛護会、奈良県、そして県が立ち上げた鹿苑のあり方検討部会から見て取れるからだ。奈良の鹿の治療の妥当性を判断することが以前より検討部会の議題に上っているが、これははっきり言って論点のすり替えである。公益通報当初は特別柵の飼育環境が問題だったはずなのに、いつの間にかその話は立ち消えになって、本筋とはかけ離れた「奈良の鹿の治療は必要なのか」という方向に愛護会幹部は論点をずらしており、愛護会のこれまでの鹿の扱いに関する責任については、うやむやになっている。鹿の治療の妥当性について話し合うように県に求めたのが、奈良の鹿の保護育成を行なうことになっている奈良の鹿愛護会の幹部なのだから、皮肉としか言いようがない。彼らの発言を聞いていると、特別柵の飼育環境を改善することよりも愛護会での鹿の治療を縮小・制限することのほうが大事なようで、奈良の鹿を大切に守っていく気構えが感じられない。

動物愛護法上、保護した動物を適切に治療しないと問題になるが、適切に治療しているのであれば問題にならないはずだ。「今の治療では不十分だからもっとしっかりやりなさい」というのなら話はわかる。しかし、愛護会からは、「今行っている鹿の治療は必要ないし、獣医も必要ない」というメッセージを発信しているようにしか思えない。

そんなに鹿の治療について議論したいのであれば、実際にどのような治療が行われているか、治療現場を見学またはヒアリングに来ればよいではないか。ところが検討部会が立ち上がって1年以上たつのに、検討部会のメンバー、県の担当者、愛護会幹部の誰一人として治療を見にもこないし、聞きにもこない。その上、検討部会のメンバーには臨床の専門家は入っていないし、野生動物の治療に携わっている獣医師も入っていない。治療について議論するなら、少なくとも動物の治療(特に整形分野)にかかわる専門家や野生動物の治療に詳しい人が議論に入らなければ、適切な判断はできないと何度も県の担当者に申し入れているのだが、一向に聞き入れられる気配がない。

もしかしたら、県と検討部会は現状把握もしっかり行わないまま、愛護会の要望をそのまま聞き入れて「今行っている治療は必要ないので、やめましょう」なんて言いだすのではないかと心配している。私は愛護会幹部の本音は「奈良の鹿の治療なんて、外部から見えないのだから適当でかまわない。治療に手がかかる鹿は安楽死にしてしまえば、手間もお金もかからなくてよい。公益通報するような獣医もいらない」ということではないかと疑っているのだが・・・

では実際の鹿の治療はどうなのか?愛護会では設備や人員の制限もあって必要最低限の治療しか行なうことができない。奈良の鹿愛護会に運ばれてくる鹿のうち、2/3程は人が原因の交通事故によるものだと推定される。それ以外は、けが、難産、病気だったりするのだが、病気の鹿の場合はほとんど助からない。鹿はぎりぎりまでがんばる動物なので、立ちあがることができなくなるほど弱った時点で保護しても、早ければ数時間後、遅くとも1日以内に死亡してしまう。交通事故が原因で保護した鹿の場合も、内臓に大きな損傷を受けていたりすると助からないことが多い。なお愛護会の人員、設備では、交通事故で内臓を損傷した鹿の開腹手術はまず無理である。この場合にできることと言えば、支持療法を行い自力回復を促すことだ。しかし、交通事故で脚を骨折した鹿であれば、話は別だ。脚を一本骨折した鹿では、90%以上が回復する。私たちが主に行っている治療は脚を骨折した鹿たちの治療である。

いつも鹿の生命力には驚かされるのだが、脚の骨が皮膚を突き破って出血しているような状態でも、傷口を洗浄して、きちんと添え木を当てれやれば、やがて治っていく。私たちができることは、鹿の自然治癒力をサポートし、命をつなぐためのささやかな治療がほとんどだ。すなわち骨折した鹿に、エサと水が常時近くにある安全な場所を提供し、骨折したところがグラグラしないように固定し、脱水を防ぐために点滴を行い、痛み止めを投与し、回復を促進するためのリハビリを行う。金属を骨折部位に入れて固定するような大掛かりな手術は行っていない(できない)。

愛護会には獣医師が私一人しかおらず、動物看護士はいない。治療頭数が多いときは、治療を手伝ってくれるボランティアさんに多くを頼っている。さらに、鹿の治療に必要なペットシーツなどの消耗品、消毒液、ドレープ、介護用マットにいたるまで医療用品のかなりの分量を寄付でまかなっている。お金をできるだけかけない切り詰めた状態で、できる範囲内の最大限の治療を行っているだけだ。そんな削るところがほとんどないような治療を行っていることを愛護会幹部は知ろうともせず、必要性すら感じていない様子だ。

いつも疑問に思うのだが、奈良の鹿は愛護会幹部、県の担当職員、検討部会のメンバーの所有物ではないのに、ほんの一握りの人たちの意見だけで鹿の治療にしろ、C地区の鹿の対応にしろ、外部の人の意見を完全にシャットアウトした状態で決めてしてしまっていいのだろうか?奈良の鹿には、春日大社の神鹿として保護されてきた歴史があり、今は国の天然記念物である。奈良公園内には、奈良の鹿たちのために自発的にごみ拾いをする人、お気に入りの鹿の行動を観察する人、鹿を見て癒される人など、鹿を大切にしている人はたくさんいる。奈良を訪れる観光客の中には、「奈良に鹿がいなければ、わざわざ行く価値はないよね」とまで言う人もいる。そんな人たちの思いをくみ取らずに、少人数のメンバーだけで一方的に決めてしまうのは、傲慢だと思うし、K-POP問題の二の舞になりかねない。もっと広く意見を募った上で方針を決めていくのが、賢明なやり方だと思う。

 

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