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マリリン~ ときめいて Temptation 夢がひとひら♬ 天使になった歌姫♡ (前編)
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"本田美奈子. スター誕生"
中学校3年生の時に『スター誕生!』のオーディションを受ける(1982年)。
14歳で出場したテレビ予選では柏原芳恵の「ハロー・グッバイ」を歌い、合格して決戦大会へ進出する。
この時の出場者の5人の中には松本明子と徳永英明がおり、3人とも決戦大会へ進んでいる。
15歳を迎えて出場した決戦大会では松田聖子の「ブルーエンジェル」を歌った。 しかし、プロダクションは1社も獲得意思を示さず、残念ながら落選となってしまった。
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山口百恵が引退した1980年…
この年の春、松田聖子がデビューし、柏原芳恵と河合奈保子が続いてデビュー。
翌81年は、薬師丸ひろ子
82年は、小泉今日子、堀ちえみ、早見優、そして中森明菜、原田知世がデビュー。
1983年(昭和58年)4月、東京都北区の東京成徳短期大学附属高等学校に入学する。
同年7月に初めて原宿を訪れた際に、少女隊のメンバーを探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ、芸能界に入る。
前述の『スター誕生!』の決戦大会にはボンド企画のスタッフも参加していたが、その時は指名に至っていなかった。社長&プロデューサーの高杉敬二とは、ボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることとなる。
中原めいこのヒット曲『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』をデモ音源で聴いた高杉は...才能がある歌いっぷりから、この子はソロで売り出そうと決めたそうである。
84年の春、荻野目洋子、岡田有希子、菊池桃子、がデビュー。 女性アイドル歌手全盛時代が、80年代の象徴です。
GDPがアメリカに迫る勢いの日本の景気はよく、「made in Japan」が全世界を席巻した。 後に、バブルと呼ばれた時代は、アイドル歌手が上位独占する歌番組の全盛時代でもあった。
そんな背景の1985年の2月に、斎藤由貴に続き、4月に本田美奈子がデビュー。 浅香唯、中山美穂、南野陽子、そして秋元康プロデュースの おニャン子クラブ。
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"本田美奈子 殺意のバカンス"
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華奢な身体から、凄い迫力のアイドルが居ると話題になったデビュー曲「殺意のバカンス」が、歌謡界で注目を集める。
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同年9月リリースの4thシングル「Temptation」が大ヒット。 新人賞を総なめする。
"本田美奈子 Temptation (誘惑)"
https://youtu.be/4y0yMVPINxc
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翌86年2月、5thシングル「1986年のマリリン」が、チャート3位まで上る大ヒットにより、全国的な知名度を得るようになった。
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"本田美奈子_1986年のマリリン"
https://youtu.be/FG5WT74AYio
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85年、松田聖子の結婚-活動休止の後... 中森明菜、小泉今日子、映画では薬師丸ひろ子の全盛時代であり、本田美奈子はトップアイドルには成れたものの、3強~4強に食い込むには到らなかった。
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また、『スケバン刑事』の斎藤由貴や南野陽子のように、お茶の間の人気者にもなれなかった。 売れつつも、気持ちの低迷期が続くのだった。
この時代が、求めていたのは、松田聖子であり、中森明菜であり、南野陽子だった。 バブルと言う飽きるほどの物が豊かな時代、求められたのは甘ったるいアイドル像だったのかも知れない。
お茶目で、いつも全力投球、そしてファンサービスいっぱいの本田美奈子の実像を、どれだけの方が知っていただろうか!?
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本名:工藤 美奈子
生誕 1967年7月31日~2005年11月6日(38歳没)
本名、工藤 美奈子(くどう みなこ)。
身長:162cm、体重:43kg、血液型はO型。
1985年、シングル「殺意のバカンス」で歌手としてデビュー。
1980年代はアイドル歌手として、1990年代以降は主にミュージカルで活動した。
2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦する。
なお、姓名判断により名前の後に「.」をつけ改名したのは2004年11月からである
活動期間 1985年-2005年
レーベル 東芝EMIコロムビアミュージックエンタテインメント
事務所
ボンド企画(1983年 - 1992年)
トリプルA(旧社名:スリーA、1992年 - 1996年)
BMI(1996年 - 2005年)
共同作業者 岩谷時子、井上鑑、岡野博行
公式サイト minako-channel
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