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~読~『小説 日本婦道記』

祖父母ソフボ遺品整理イヒンセイリ最後サイゴにのこったのは、二振りの日本刀。
博物館で展示されているような、黒々と光を放つ鞘や精緻に彫り込まれた鍔(つば)に目を惹かれるような逸品ではない。いたって簡素で地味・・・というかつまり、観賞用ではなく、実用向きに用いられた刀なのであろう。

じっさい、骨董品としての価値はほぼナシと判明しているわけだが、祖父が大切に床の間に飾っていたからには、わが一族にとってはそれなりの意味をもつものなのだろうと深慮してみる。
さて、これを機に処分するか、後世に引き継ぐか。
結果、後世代にあたる二家で、どちらがどちらの刀を受け継ぐかを決める次第となったわけである。

親族が車座に会すその中央、鎮座ましますは二振りの日本刀。
みなで一斉に威勢よく唱和する。
「いっせーのーで。じゃんけん、ぽん!あいこで、しょ!!」
わが一族史上おそらく類をみないであろう珍妙なる合戦が繰り広げられた。

こんな決め方でいいのかしら・・・?とみなが“?”を腹の底に溜めていただろうと思うのだが、表面上はいたって賑やかに、楽しく決着がついた。
じーちゃん、こんなやり方になってしもて、気に入らんかったら・・・ゴメン。

珍妙な合戦の結果はさておき、たくさんのギモンと想像がぶわりとひろがる。
この日本刀は、いったいいつの時代から存在しているのだろうか。
そして・・・じっさいに人を傷つけたことがあるのだろうか。
もしかすると、はるか遠くとおく隔たった昔に感じられる江戸時代、お武家さまの腰に帯びられた過去をもっていたりもするのだろうか。

これからご紹介する小説に描かれているような、つましくも美しい日本の風景の中を、この日本刀もまた生きていたのかもしれない。
そんな風に想像を遊ばせてみる――。
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◆山本 周五郎 『小説 日本婦道記』

初めて読んだのはいくつくらいの頃だったろう。
定かではないが、時代小説を読むには不似合いフニアイなひよっ子だったことだけは確かだ。
おそらく封建社会の在り様やひとの情愛の機微なぞまだピンとこない、幼い感性しか持ち得ていなかったろうに、なぜだか深くふかく感動した。
ものすごく大切なモノを読んだ、と感じたことを鮮烈に覚えている。

以来、山本周五郎氏の遺した作品はどれも大切に読んできたし、なかでもこの『小説 日本婦道記』は、長きにわたって読み漁ってきた数多の小説の中でも、一番といえるほどに大切な一冊だ。

あたたかい家庭生活は文学の敵だと頑なに思いこみ、心の臓と肝臓を患って六十三歳で急逝するまで、家族と離れて独居をつらぬいた作家。

さぞや凄烈な人柄であったろうかと思いきや、その作品群はどれも、ふとした日常にちいさく、けれどうつくしく花開く、思いやりや慈しみ、愛情やいたわりがきらきらとあふれ伝わってくるような、けして華美ではないのにあざやかに印象深い物語ばかりだ。

江戸の時代。
主家に仕える夫や息子、想い人がその武士道を過たず勤めをまっとうできるように・・・と心血注いで生きた、妻や母、女たちの物語。

戦国時代を生きた姫たちのように、戦乱の世に翻弄され波乱万丈の一生を送ったわけではない。
市井の一隅にただふつうに在った武家をささえたふつうの女たちが、その小さな世界をいかにうつくしく生きたか、そのなにげなさをすらりと切りとって供してくれるような、清々しい短編ばかりだ。

ただし決して、『旧きよき時代の日本の妻』像として、彼女たちが模範化、偶像化されているわけではない。
あくまでも封建制度下における武家を背景にしてこそのうつくしさであろうから、そのまま現代の価値観にスライドしてしまってはナンセンスの極み、興ざめだ。

作家は女性に尊敬にちかい感情を抱いていたのではなかろうかとさえ思える、それくらい強くたくましい女たちがいきいきと、温かくやさしく、じぶんの信念を貫いてうつくしく生きている。
それはかえって、現代の女性たちが、いずれそうなりたい未来の女性像として描きさえしそうな、わが人生をわが手で選びつかんでゆく理想像のようにさえ思えてくる。

どの物語も短いので、あらすじを書いてしまうと、それがもう物語の種明かしになってしまいそうだ。
今回ばかりは「どうぞひとまず読んでみてください」とだけ綴るつもりが、個人的感慨を連ねてしまった。

ちいさなひとつの家庭でくりひろげられた、女たちのちいさな生活の物語。
そのなにげなさに、そのうつくしさ強さにふと気づき、驚きを、感動を、感謝を禁じえない、男たち…。

〈収録作品〉
『松の花』『箭竹』『梅咲きぬ』『不断草』『藪の蔭』『糸車』『風鈴』『尾花川』『桃の井戸』『墨丸』『二十三年』