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連載:私たちはソクラテスの命日をどこまで知ることが出来るのか?第3回

3.1 航海
 アテナイでは,デリア祭(アポロンの祭)のための使節がデロス島へ行っている間は死刑の執行は中止されていました.通常であれば判決後すぐに刑は執行されるのですが,ソクラテスが牢獄で30日間生き延びることになったのは,たまたま裁判の日がその時期だったからなのでした. アテナイからデロス島への距離は約160kmです.汽船であれば半日もあれば到着できますが,当時は帆船です.どのくらいの時間がかかったのでしょうか? 調べてみようと思います.
 
 デリア祭の使節は,アテナイの港ペイライエウスからデロス島へと船で移動しました.クセノフォンによれば,使節が往復30日(※日数の記述も注意が必要です,例えばヘシオドスは29日のことも30日と言いますので,この30日というのも29日のことかもしれません.つまり日数のことではなく,ひと月のことかもしれません)かけたとされています.またプラトンによれば風の影響で,随分と時間がかかったとされています.そもそもペイライエウスからデロスへはどの程度の時間(日数)で行くことができたのでしょうか? 当時の航海技術のことを知らなければなりません.
 今回の調査のために3つの本を準備しました.

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ジャン ルージェ(酒井傳六訳)『古代の船と航海』法政大学出版局,2009年
フライエスレーベン(坂本賢三訳)『航海術の歴史』岩波書店,1983年
Lionel Casson,Ships and Seamanship in the Ancient World,1971

 
 ギリシャとローマ時代の航海,造船については特に1冊目がおすすめです.2冊目は近現代までの航海術を俯瞰したもの(それもかなり詳しく).3冊目はおまけです.さらに関心のある方は読んだ方がよいといったところです.

3.2 船の速度
 古代の船はどの程度の速度で巡航していたのでしょうか? ソクラテスが生きた時代の船の速度に関する史料は,トゥキュディデスが報告しています.

トゥキュディデス『歴史〈2〉』城江良和訳,2003年,90頁より
シケリア島を周航するには、商船で八日近くかかり、しかもそれほど大きな島でありながら、大陸からは約二十スタディオンの海で隔てられているに過ぎない。

 シチリア島の周囲はおよそ830km.すると1日に100kmは巡航できたことになります.

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 ただし,この商船が1日に何時間航海したのかは分かりません.24時間なのか,それとも10時間程度なのか? これだけでは夜間航海をしていたのかさえはっきりとしません.
 夜間航海については,おなじくトゥキュディデスの報告の中にヒントがありました.

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 ペロポネソス戦争の際,アテナイの民会によってミュティレネというポリスの全住民の死刑(処刑)が決議されるのですが,さすがにそれはやり過ぎだということで,翌日に死刑取り消しの決議が行われます.ですが,すでに伝令船は出港した後でした.そこで死刑取り消しのために,その伝令船を1日遅れで追いかけるのですが,これはハリウッドで映画化して欲しいくらいの名場面だと(個人的には)思いますのでやや長いですが引用します.タイトルは ↓ でお願いします.

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トゥキュディデス『歴史〈1〉』藤縄謙三訳,2000年,298頁   そこで急いで別の三段橈船を派遣して、先発の船が先に到着してポリスを壊滅させるのを阻止しようとした。先の船は約一昼夜だけ早く出発したのであった。ミュティレネ人の使節たちは、その船のために葡萄酒と大麦粉の食事を用意し、もし追い越すことができれば、莫大な報償を出そうと約束したので、懸命の航海になった。葡萄酒と油で捏ねた大麦粉を食べるときにも漕ぎ続け、交代で一部の者は眠っても、他の者は漕いでいた。そして幸運にも、逆風を受けたことは全然なかったし、また先発した船は厭わしい任務ゆえ熱心には漕がなかったが、次の船はかくも懸命に急いだので、前の船が先着して、パケス(※現地のアテナイの将軍)が決議文を読み、それを実行しようとしたときに、続いて第二の船が接岸し、処刑を阻止した。

 この記述から,食事(休憩)や睡眠は伝令船であっても通常時は船外(停泊地)でとっていたということになります.これは意外でした.『オデュッセイア』における夜間には星を航海の目印にするという言及もありますが,ほとんどの場合,夜間航海をしていなかったと考えるほうが良いでしょう.シチリア島を周回するのと,島から島へと渡航するのでは,夜間航海の危険度も違うはずです.

 トゥキュディデスの記述から分かることは,1日に100km程度進むことが出来たということ,そして戦時下の伝令船であっても,夜間航海は避け,食事や睡眠は船外でとっていたということです. 1日に8時間程度巡航したのであれば,時速12.5kmとなり,かりに24時間巡航したとすれば,時速4kmとなります.

 また時代はかなり下りますが,プリニウスがローマ時代の航海記録を報告しています.
※プリニウス『博物誌』は雄山閣から全訳がでていますが,これはLoeb叢書の英訳からの重訳です.ここで引用させていただいたものは,植物と薬学についての巻を抜粋した原典訳です.八坂書房からでているのですが,こちらは註釈も豊富でオススメです.

プリニウス『博物誌』第19巻3-4(大槻真一郎編480頁)
ガレリウス(セネカの伯父)がエジプト長官に任じられたとき、シチリア海峡から出発してアレクサンドリアに着いたのは七日目だった。また、バルビリウス(後55年に赴任)が着いたのは六日目だった。それから一五年後の夏、法務官職にあった元老院議員ウァレリウス・マリアヌスは、風が非常に弱かったにもかかわらず、プテオリ(ナポリ近郊の港)から出発して九日目にアレクサンドリアへ到着した。
 またその草のおかげで、ガデスは「ヘラクレスの柱」(ジブラルタル海峡)を出てから七日でオスティアまで行ける町になった。そしてヒスパニア・キテオリオルには四日で、ナルボエンシス属州には三日目に、アフリカには二日目に着くようになった。これは、前執政官ウィビウス・クリスプスの使者ガイウス・フラウィウスが、微風にもかかわらず成し遂げた記録である。

 記述の一部を地図にしておきます.ローマ時代になると地中海はほとんど庭の様になっていますね.

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 1日におよそ250km進めることになります.これらは遠洋での航海であり,24時間航海したと考えるのが自然です.するとおよそ時速10kmといったところでしょうか.ただしこれらは「最速記録」であり,私たちが検討している前5―4世紀のデロス島への使節船はもう少し遅く,さらに食事や睡眠を船外でしていたと考えられます.すると1日に8時間,速度も遅めに見積もり時速5kmで進んだとすれば,1日に進める距離は40km程度.デロス島へは4日程度で着くことになります.羅針盤や頼りになる海図のある時代ではないので(※方位の記された海図は前3世紀頃に登場したと考えられています),航海は島伝いに行われたはずです.ペイライエウスからスニオン岬へ1日.そこから3~4つほどの島が20ー40kmほどの間隔で点在しています.それらの島々で食事や睡眠をとりデロス島へ行ったのではないでしょうか?

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 しかし,どう遅めに見積もっても往復8日程度です.祭の期間が8日間(※アテナイでの最大の祭は8日間あったとされます)ほどあったとしても,16日もあれば往復できてしまいます.やはり30日はかかりすぎですね.プラトンが言うように,出航が困難なほどの悪天候に数日のあいだ見舞われたのかもしれません.第1回でふれた内山勝利氏による註釈をもう一度確認してみましょう.

デリア祭の開催時期については、デロス暦のヒエロス月(=アンテステリオーン月、今日の二月後半から三月前半に相当)、あるいはタルゲリオーン月(今日の五月後半から六月前半に相当)の二説がある。出土碑文は前者を示唆しているようだが、その時期のエーゲ海渡航はきわめて困難であり、後者と考える研究者も多い。


 ギリシャの冬の海は荒れるので,この時期に毎年渡航していたのか? というのが,内山氏の註釈での研究者の方々が懸念されている点です.たしかに前700年頃のヘシオドスの『仕事と日』では,航海の季節は〈無花果の若葉が広がり始めたときに,オススメしないが春の航海ができるようになる〉とされており,さらに〈夏至の後の50日間が最も航海に適している〉ともあります. 冬の航海は危険だったのでしょう.ここまで分かったことをまとめてみましょう.

 デロス島でのアポロンの祭は,デロス暦のヒエロス月であり,それはアテナイ暦のアンテステリオン月にあたるとされているのですが,新年の始まるタイミング(閏月の有無)によっては1月になる可能性があり,これは旅行家ディオニュシオスの記述する祭が春に行われていたという記述と矛盾します.当時の船の巡航速度を検討すれば,デロス島への往復が30日かかったというのはどう考えても遅すぎであり,プラトンのいう通り,年によっては渡航が困難になるほどの悪天候に見舞われる時期であったという言及は信頼できます.

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 調べれば調べるほど分からないことが増えていくような気さえしてきます.何か史料を読み間違えているか,大切な情報が欠けているのかもしれません.

 渡航可能な季節ではあるが,しばしば海が荒れる,もしくは強風が吹き付ける. 当時の冬の終わりから春の初めの天気が分かるといいのですが.天気が記録された文献などあるのでしょうか?

 それが実はあるのです.その記録をギリシャ人は「パラペグマ」と呼んでいました.

〔第4回に続く〕


不明な点や,誤りがあればコメント欄にてお知らせいただけると嬉しいです.

付録 古代の地図 

 紀元後2世紀にはローマ帝国全域をカバーする世界地図が作製されます.前3世紀のエラトステネスも世界地図を作ったとされています.プトレマイオスのものは(特に緯度について)驚くべき精度です.ソクラテスの時代には,ここまでのものは存在せず,デロス島への航海は島を目印にしたと考えられます.

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