「ハリーポッターと死の秘宝」考察:無敵のママと無能なパパ
僕はハリーポッターのファンであり、映画に限らず原作本も何度も何度も観返しています。そのたびに新たな発見があり、すごい物語だなと感動します。そんな中僕がこの作品から感じたのは、著者jkローリングがこの作品に込めたメッセージです。その一つが「母親の、子への愛はどんな魔法をも凌駕する」そしてその裏にはもう一つ「一方で父親は無能」という隠しメッセージがあるな~とか思ったのです。それではその根拠を書いていきます。
まずは言わずもがなポッター家の描写からです。ハリーが生まれたばかりのとき、予言にしたがいゴドリックの谷のポッター家を襲いに来たヴォルデモート。リリーが自分の命と引き換えに息子にほどこした守護術は、ハリーを守るだけでなく歴代最強クラスの闇の魔法使いヴォルデモートすらも倒し世界すら救ってしまいます。母の愛の前にはたとえ最強の闇の魔法使いも敵いません。ところで父ジェームズは何してたっけ・・・?彼は家に入ってきたヴォルデモートに応戦するも瞬殺されてます。おそらくろくに時間稼ぎもできなかったでしょう。しかし、これだけで「母最強、父無能」を決めつけることはできません。なぜならヴォルデモートはダンブルドアに匹敵する最強クラスの魔法使いです。ジェームズ以外の不死鳥の騎士団メンバーであっても到底かなわなかったでしょう。
もう一つポッター家についての描写で興味深かったのが、映画最終作「ハリーポッターと死の秘宝PART2」、自分が7つ目の分霊箱であることを知ったハリーがヴォルデモートに殺されるべく、禁じられた森へ向かいます。その途中自らを奮い立たせるために、蘇りの石を使ってリリー、ジェームズ、シリウス、ルーピンの霊(?)を呼び出します。ハリーがまず手を差し伸べたのはもちろんリリーです。そしてその次にハリーが向いたのは・・・シリウスです。そのあとルーピンと話をし、ジェームズと話したのは一瞬です。このシーンのキャラ別尺の長さで言うとやはり母が一番で、父親の優先度は名付け親未満という扱いにしか見えません。
ここまではポッター家に焦点を当てて、「jkローリングの主張は「母無敵、父無能」」説の根拠を書きました。次は、その傾向がより露骨に顕著に表れている一家について書きます。
それは闇のエリート一家マルフォイ家です。ホグワーツ入学以来何かとハリーたちを邪魔してくるドラコ、デスイーターの一人である父ルシウス。そして母ナルシッサ。ポジションとしては脇役的な一家に見えますが、よくよく振り返るとすごい重要な役割を果たしています。ルシウスを見てみましょう。最初はトムリドルの日記をジーニーに持たせたり何かと暗躍するルシウス、しかし第五作「ハリーポッターと不死鳥の騎士団」では予言の水晶をゲットし損ねたうえ不死鳥の騎士団にボコボコにされ捕まり、その責任として息子ドラコは無理やりデスイーターとして働かされます。そして最終作では、無精ひげが生え、見た目はやつれはて、第二作「ハリーポッターと秘密の部屋」あたりであった威厳は完全に消え去ってます。ヴォルデモートからはもはや殺す価値もない無能としてぼろ雑巾のように扱われます。一方の母ナルシッサ。第6作「ハリーポッターと謎のプリンス」で初登場した時点では単なる脇役ポジですが最終決戦では非常に重要な役割を果たします。自らヴォルデモートの死の呪文を食らうハリー、それと同時にヴォルデモートも気絶しました。目覚めた彼はハリーの死亡をあろうことかナルシッサにさせたのです(ビビりのヴォルデモートはなんだかんだでハリーが怖い)。彼女が心からヴォルデモートに忠実であれば「あ!!まだハリーが生きていますよ~~」とか叫んでもよかったはずです。ところが、ハリーの生存を確認したナルシッサは「ドラコは生きてるの?」と彼に尋ね、ハリーはそれに静かにうなずきます。そして立ち上がったナルシッサはヴォルデモートに向かって、「ハリーは死んでいます」と答えるのです。この行動はすさまじいことです。ヴォルデモートは人の心を見破る開心術の達人です。そんな彼の前でウソをつくことができたのは彼女以外には、ダンブルドアの二重スパイをやってのけたほどの閉心術マスターであるスネイプくらいです。息子への思いにはヴォルデモートの開心術すらも敵いません。母親の愛の力によってまたしてもヴォルデモートはヘマをしたわけです。この彼女の勇敢な行動によって、ハリーは勝利への道をつなぐわけです(ついでに、最後の勝負の分かれ目は、ドラコが予期せず得たニワトコの杖の所有権をハリーが奪った点でした。なんだかんだで重要なマルフォイ家)。彼女にとってぶっちゃけヴォルデモートが勝とうが負けようがどうだっていいんです。ドラコがすべてなのです。ドラコのためならヴォルデモートにだってウソをつけます。ここまでくると僕の説にもだいぶ信憑性が出てきたんじゃあないでしょうか?ここでとどめを刺しましょう。次は、原作にはない、映画オリジナルのシーンです。
ハリーをようやく倒し、ヴォルデモート一行はホグワーツ城に凱旋、「私の前にひれ伏せ、さもなくば死あるのみ」と叫びます。ルシウスはドラコに「こっちへ来い」と言いますが、全然動こうとしません。しかし、そのあとナルシッサが名前を呼んだだけで、ドラコは表情を変えヴォルデモート側に向かって歩きだします。そしてそのあとハリーが逃げ出し、デスイーターが散り散りになったとき、ナルシッサはドラコを連れさっさとホグワーツ城をあとにします。その二人を「逃げちゃっていいのかな・・・」みたいにまごまごしながらルシウスが追います。このどちらのシーンも原作にはない映画オリジナルです。なぜわざわざこんなシーンを足したのかと考えると、やっぱり「息子に対する愛情は母親の方が強いんや!父親無能!」というメッセージを強調するためとしか思えないです(笑)
以上が著者ローリングが「母親の愛無敵、父無能」と主張していると思う根拠です。どうしてそんな主張をしたのかな~と調べたところ、彼女は離婚後シングルマザーとして生活保護を受けながらもハリーポッターを書き上げ、作家として最大級の成功をおさめた人です。そうした経歴を知ると、「父親なんざいなくても、子供を育てるには母親の愛だけで十分じゃ!」という気概を作品に反映させたのかな・・・とか思っちゃいます(もちろんこれは私の妄想レベルに根拠のない話)。
できるだけ多くの映画を観ようと思う一方、作りこまれた作品は観れば見るほど様々な発見があったり意味付けができて面白いです。また見よう。
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