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爪痕1 アサリ味のインスタントラーメンとエゴン・シーレ展

アサリ味のインスタントラーメン


父親がアサリ味のインスタントラーメンを買ってきた。セールだったから安かったのだという。そのまま放置されていたのを思い出して食べた。ひどい意味で旨味が強かった。ボンゴレビアンコの汁だけを1リットル集めて濃縮したらああいう味がするのだろう。胃の中でアサリが歯を食いしばっているようで何とも気分が悪い。キリリキリキリ

エゴンシーレ展

父親と弟と一緒に『レオポルド美術館 エゴン・シーレ展』に行ってきた。上野の改札を通ると「健康で文化的な最低限度の生活」という言葉がいつも頭の中を回る。高校の同期は、「淹れたてのコーヒーとアイロンのかかった新聞のある朝」が健康で文化的な生活であると中学校で習ったと言っていた。10時に起きてセールの即席麺を食っても文化的な生活はできるのだという庶民の反骨精神が湧いてくる。絵の観想を下にまとめる。

自転車に乗る人のいる郊外の風景


カール・モルの版画である。建築物の様な直線的なものと版画の相性がいいなあと思ってみていた。あるいは必ず縁どられ、現代の絵と近しく思えるから親近感を覚えているのかもしれない。隣にあった『ハイリゲンシュタットの聖ミヒャエル教会』の方はあまり好みではなかった。ごちゃごちゃとしている。

「第40回ウィーン分離派展」ポスター


ポスター展のポスターらしい。他のポスターもそれぞれよかったが、これがひときわ目を引いた。モノクロでルールに支配されているのが好きなのだろうか。引き算されたものが良いのだという凝り固まった日本美学にとらわれている可能性を感じる。あるいはカリグラフィーが好きなのかもしれない。

シェーンブルン


カールモルの油彩。目で散歩できる絵画。足取りと目線がきっと同じ道のりをたどる気がする。

秋の森


エゴンシーレの作品。2つの意外性。油彩の中で鉛筆が使われることと、鉛筆が木をうまく表現できる道具であるのだということ。木は茶色で描かれがちだが実際には黒いのだ。奥に続く道の曲線の柔らかさが、鉛筆の洗練されない太さと上手くあっている気がする。版画の縁取りとはまた違う黒い線の可能性がある。

昼食(スープ、ヴァージョン2)


ネーデルラントの農民画を思い出す。人間がモチーフでありながら誰に視線が集中するわけでもなく、暖かい空間の構成物となっている。もたらす温かみは家に置きたい感じがあるが、誰でもない人間を見ていると、自我を失って幸せに同化させられそうな恐怖がある。

キンセンカ


コロマン・モーザーの油彩。距離によって雰囲気の変わる絵画。遠くから見ると精緻な絵画に見えるが、近くで見ると荒々しく絞ったクリームのようである。抽象度の変化が実際の花と逆で面白い。

ほおずきの実のある自画像


エゴン・シーレの油彩。目の輝きに負けそうになる絵画。今まで印刷で見ていたこの絵はグレーでのっぺりとした印象だった。美術館のライティングの下で見た彼の目の輝きは、絶対にエゴン・シーレの見せた才能の圧だ。自身の才を溢れさせた目でこちらを見ないでほしい。まぶしくて顔を隠して絵画を見ていた。彼の圧に負けない何かがなければこちらが押し流されそうで、それ故に自分が何者であるのかを考えさせられる作用を持つ。

啓示


エゴン・シーレの油彩。「融け入る」とは何か。啓示を与える側は様々なパーツで構成されており、大味な寄木細工の様だ。その寄せ木細工の模様の一つに、向こう側を向いた男がいまなろうとしている瞬間のように思えた。あるものとの融合は、必ずしもその人の個性をなくすわけではなく、それらを組み合わせることなのかもしれない。

母と二人の子ども Ⅱ


エゴン・シーレの油彩。母性本能を抜き取った目で見た子どもの絵画。母親の顔は生気がない。私に人間との関係性がないまま赤子を見たら、きっとこんな風に見えるのだろう。

横たわる長髪の裸婦


エゴン・シーレの素描。今回の展覧会の中で一番可愛い絵。裸体と澄んだ目の組み合わせが好み。

まとめ


エゴン・シーレの絵は家に置くには味が濃すぎる。胃ではなく心がキリキリしそうだ。


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