高校生からの質問の解答
なんか、Xで質問貰いましたが、あまりにも長くなるので記事にしました。
まず、前提として、大学で習う社会学の知識や法学の知識もガンガン使いますので、高校生には難しい内容かも。
まぁ、頑張って
1.ネットの九州差別の歴史
まず、コレ。
ちょっと因果関係がおかしいです。
まず、インターネット、特にXにはフェミニズムがありました。フェミニズムは「男尊女卑」「家父長制」と見なしたものに罵詈雑言を飛ばしました。
それとは、九州差別というものがありました。それは、「田舎の偏狭な因習」というカテゴリーでインターネットの中で噂として広まって行っていました。
私の記憶が正しければそれは「膿家」というワードで、2ch(今の5ch)のウトウトメスレ(舅、姑がいかに嫌な奴かを語る掲示板、10年前、2015年くらいに流行ってた)で広まって行っていました。
そもそも、2chなんて、真偽不明のうわさが飛び交う場所、こういうのも作り話が結構多いのでしょう。
それで、「悪い話」ほど広まるのが人の性。こういう「膿家」の噂は、まとめサイトの勃興と共に広まりました。そして、こういう膿家の話は特に「西日本の田舎」という設定で広まることが多かったと思います。
この2つがXで悪魔合体
「男尊女卑の九州人は罵詈雑言を飛ばしてよい」とする風潮が生まれました。
さす九というスラング(東京では信じられない因習を指し、”さすが九州”という意味)もXで生まれ「九州と言う田舎は、男尊女卑の因習が残る、卑しい田舎だ」という風潮が生まれます。
(エビデンスはこういう投稿で・・・)
その中で、女性、特に九州女性は、「差別と闘うと思っていた、フェミニズムの指導者的立場の人から、差別されることで悲しみ始めた」のです。
私は、九州を罵倒している人、そのような女性の中でも界隈の影響力を持つ人の価値観を、九州の女性が内面化し、その価値観で傷ついている、と捉えています。
それは明らかに「九州の女性を罵倒してよい社会」の価値観を内面化し、それに服従することを道徳する社会が出来てしまった、と。そして、その社会で差別する人が、自己肯定感を傷つけられている、というような現象、だととらえています。
私は新自由主義者なので、このような状況の解決方法を自由に求めます。
つまり、そのような影響力を持つ人に、一言言っていい、自由が貴方たちにはあるでしょう、と。
表現の自由とは、権力に対して何言ってもいい、自由だったでしょうと
フェミニズムとは、社会に対する”反抗”だったでしょう、と
その二つの精神をおざなりにして、「どこかの偉い誰かが言った、”正しい差別”に服従し、自らを被差別民として、悲しむ」のは、それは、自由でも何でもなく、服従でしょう、と言うのが私の意見です。
これはデータがありません。X上の匿名の声があるだけです。これが「統計データに至らない、エビデンスらしきものではない」ことは重々承知です。ですが、これを敢えて「エビデンスと見なす」という考えは口述します。
2.ポストフェミニズムの時代
2つ目の質問
フェミニズムの崩壊
確かに、私はフェミニズム、特にフェミニズム運動は終わった、と思っています。そして、「男女同権」は達成しえない、と思っています。
説明しましょう。
https://femimatsu.com/article/504475828.html
それは、「フェミニズム運動が部分的に誤っていた」からで、女性がうざかったからではありません。(まぁ、やかましかったから、多少あるかも。)
「非認知的差別」の正体
で、制度的な差別が無くなった今、社会学者や活動家は誰もがこう言います。
そう、文化的な差別が存在する、と。昇給スピードや年収の面で差別が存在する、と
それは「文化的な差別が存在するから」でしょうか?
それでは、実際の経済学者の本を見てみましょう
これはクラウディア・ゴールディンという、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者の本で、これが参考になるでしょう
クラウディア・ゴールディンは
”同職に就いている「女性間」で育児の有無で賃金差が大きくなるからであることを突き止めた。”
と述べています。
つまり、昇給の人事や、年収の上昇スピードの差は「非認知的差別」というフワッとした「気持ちの問題」ではなく、「時短勤務を選択する女性」という労働時間の問題なのです。
私の個別の実例でアレですが、
私が働く会社でも女性は多く働いています。そして、多くの女性が昇格を望んでいないのです。何故なら、管理職になってしまえば、子供の面倒、休日の家事、育児や、子供が急に病気になった時に早く帰ることが出来ないから、です。
日本で女性管理職が増えないのはこのためでしょう。
事実、日本の女性はほとんどが就労しています。
https://www.mhlw.go.jp/bunya/koyoukintou/josei-jitsujo/dl/19-01.pdf
女性の就労率は97.8%、つまり、今どき、完全失業状態にある女性は5%もいないのです。
その上で、「女性が昇給しないのは気持ちの問題」とするのは明らかに現状を無視していると言えるでしょう。それは、「俺の正義が実現しないのは、気持ちを込めて働かない、女性が悪い」という、女性解放と全く逆の抑圧を産むでしょう。
多くの女性が 子供の面倒を見るために、時短勤務を選択しています。
それを「非認知的な差別がある」要するに「みんなの気持ちの問題だ」としてしまう方法では、永遠に解決はしません。
私から言わせれば、それは「国家課題が解決しないのは、気持ちの問題だ」とする、国家指導者の傲慢と全く同じ。将に「戦争に勝てないのは気持ちの問題だ」とした、戦前の国家のように失敗するでしょう。
イデオロギーがいかに正しそうだ、と見えたからと言って、現場や、働く個人が人間である、ということを無視して正義を上から押し付ければうまくいかないのです。
私が思う解決の方法は、学歴と資格の取得です。女性の学歴や資格をあげ、理系、特にバイオ、ヘルス系の仕事、資格を取らせて時短勤務させた方が良い。
時短勤務が可能な職業の中でも薬剤師は年収が高いことで知られています。であるなら、薬剤師やバイオ産業を勃興させ、医療業界をより商業化するべきでしょう。
性的消費を巡る議論
性的消費、性的モノ化を巡る議論は昔書いたのですが、
まぁ、割とこういう意見です。こちらをご参照。
あと、あくまで、コレは2次元の話。3次元のエロと女性差別には別の話が適用されます。
まず、高校生の方に知っておいて欲しいのは、性産業とは、主として貧困女性が就職する職業だ、ということです。グラビア、AV女優、風俗嬢どれでも同じですが、学も資格もない人が一攫千金を得る手段として、性産業は女性からもニーズがあります。
高校生なので、まだ分らないでしょうが、学がない、資格がない、離婚して身寄りがない、などの女性は己の体一つで稼いで自分なり、子供なりを養う必要があります。
当然、誰でもアイドルになれる訳ではなく、「美貌」というモノを対価に稼ごうとするのは当然、一人ではありません。
次から次へと、一攫千金を夢見た若い女性が美貌を売りに来るのです。体を鍛え、シェイプアップし、お化粧をし、場合によっては整形までして、一攫千金、大量のSNS映えするような写真、そしてちやほやされることを夢見て性産業に入ります。そして、かつて隆盛を誇った女優も「劣化」という言葉で切り捨てられます。
そういった女性を「あなたの仕事は不埒でふしだらな仕事だから、正義のために失業しろ」という方針は、逆に女性を追い詰めることになるでしょう。
男性にニーズがあり、女性も、美貌を売ってお金を得たいのです。そこに関係ない誰かが「ふしだらだ!」と誰も望んでいない正義を持ち込む必要はないのです。
それは、「美貌で商売されると、私達に不利だから、読書と勉強で勝負する市場に変えよう」という、自由市場をイデオロギーで操作する傲慢な欲望です。そして、往々にして、そのような傲慢な欲望は成功しません。
ですので、エッチな女性の絵が沢山あること、エッチな女性の写真が沢山あることを、私は問題だと思いませんし、これが「女性蔑視的」だと思いません。だって女性の方からSNSにアップロードしてますから。
「不道徳だからやめろ!」というより、高い金で買う方がよっぽど彼女たちの理に適っています。
セックスワークを巡る議論はコレをご覧ください。
別の話になりますが、当然、性産業に従事した女性の、再就職支援も国やNPOがセットで行うことで性産業は成り立ちます。
いま日本では「建前上」性産業が存在しないことになっているので、セックスワーカーの再就職もおざなりです。これは問題だと思っています。
3.「差別する自由」万人の万人に対する差別
明白かつ現在の危険
私は表現の自由戦士を自称しているので、表現の自由を尊重します。
表現の自由。なんとなく響きは良いと思いますが、しっかり議論すると難しいモノです。で、私は表現の自由を巡る法制度は、わいせつを除けば「明白かつ現在の危険」にしぼるべき、と思っています。
例えば、Xのことを考えてみましょう。
Xで誰かに死ね、と言ったとします。
https://x.com/ochao0o0/status/1828016278029889793
確かに野蛮な言葉ですが、この時、誰かの何かの権利が侵害されているでしょうか。まぁ、「なんだコイツうぜぇな」程度でしょう。
これは、法学を考えるとき重要な概念で刑罰には「保護法益」というものが存在します。
保護法益とは、国民に人権が存在する、という状態を前提とした法の解釈です。たとえば、国民には生きる権利があります。生存権ですね。ですが、恐ろしい人は他の人を殺してしまいます。ですので、国民の生存権を守るために、殺人罪という刑罰が法によって決められています。
全ての刑事罰には保護法益が定められています。つまり「誰かの人権を守る」以外の刑罰は認められない、という前提です。(ただ、この”誰か”が集団だったり、法人格(会社を人と見立てた法学上の概念です。会社に疑似的に人権を認めるときに使います)だったりすると、話がややこしくなるわけです。
殺人罪の場合、対応する保護法益は生存権です。
それでは、このポストをもう一度見てみましょう。
確かに、「死ねよ」とは言われていますが、言われた人の生存権は脅かされていません。X普通にやってるし、
ですので、この場合、「生存権の保護」は成立しない訳です。
じゃあ、もう少し、深堀していきましょう。
旦那デスノートを考えてみましょう。
で、これは、「今殺してます」という書き込みですね。コレは、がっつり、旦那さんの生存権が脅かされてるので、殺人罪、もしくは殺人未遂罪(全ての刑罰には”未遂罪”が存在します。うまくいかなくても、同等の罰を下す、と言うものですね)が成立するでしょう。
このように、(厳密には違うけど「今、この表現をすることで命の危険、他、危険にさらされる人がいる!」という表現規制の解釈を「明白かつ現在の危険」と呼びます。
この概念が存在した当初は、徴兵制に反対する人の「表現を禁じる判決」でした。
つまり、「徴兵制反対!防諜法によって、表現を禁じるのは表現の自由に反する!」と訴えた裁判で
「でも軍事機密を表現すると、死人が出るよね?よって表現の自由と認めない」とした判決です。
これは、今では半分法令化したヘイトスピーチの概念にも当てはまります。
歴史の話をしますが、
2014年くらいかな、「行動する保守運動」という右派政治勢力が、排外主義運動を行いました。
動画のように、デモは過激化し、ついに暴動に発展しました。
そして放火事件も発生しました。
このヘイトスピーチの問題ですが、これを法規制するとき、すっげぇ揉めました。右派団体は、「俺たちは正当に主張をしている」と「俺たちは不正を追及しているだけで、悪いのは朝鮮人の方だ」みたいな感じで超絶に揉めたのです。
で、このヘイトスピーチは法規制されます。で、これがまさにデモ活動によって、放火(居住権、生存権)、暴動(生存権)が脅かされていて、これが「明白かつ現在の危険」と認められたからこそ、ヘイトスピーチは表現の自由として認められない、という形になったのです。
全ての人に配慮する表現は達成できない。
と同時に、芸術、文化方面で、アンチリベラルの動きが勃興します。反ポリコレです。「反差別イデオロギー」を映画や漫画に強引に盛り込むことで、皆、嫌気がさしたのです。
私も、当時、「ポリコレ棒」とすら呼ばれた、このポリコレ運動に反対していた記憶があります
近年でも、パリオリンピックの開会式で、トランスジェンダーがキモいと炎上しました。
(私から言えば、ぶっちゃけ、肥満過ぎだよね、とは思いますw)
正しく、みんなが映画や文化、表現の中で、”ポリコレ”を嫌だと思っているのです。
つい先日も「お前は政治的に正しくない」ということで契約解除になったアナウンサーもいます。
Xを見る限り、皆が「何もかもに差別だ」と言う社会を息苦しいと思っていると思います。私個人は、別に弱者が頑張ることや表舞台にでることは嫌いじゃないです。ただ、国家が恣意的にそれを行えば、必ず、それは良くない結果しか招かないのです。
国がある特定の人を取り立てること、これはどうあっても、良くない結果しか招かず、それは悪い結果をもたらすのです。(これは私の信条の新自由主義、小さな政府論の基本的な考えです)
「思想の自由市場」
であるなら、全てほったらかしでいいのか、差別と闘う手段はないのかというとそうではありません。「明白かつ現在の危険」に値しない差別する表現の自由があると同時に、「差別を批判する自由もある」からです。
そして、インターネット時代の素晴らしい所は、この罵詈雑言の不毛な言い合いが、全てWebを通じて全世界に公開され、第三者がログを見ることです。
誰かが差別をします。そして、それに対して誰かが批判をします、そして、それに対して批判を・・・と永遠と批判の会話が連なります。
見る人がみれば不毛に見えるでしょう。しかし、これこそがある意味人の言論の本質でしょう。
今でこそ、新自由主義なども立派に体系化されていますが、新自由主義とは「アンチ封建制度」要するに、「この世界の職業が家柄や世襲で決まってるから、世の中は良くならない」という封建制度の悪口に端を発する思想であったからです。
特に私は絵を描くので。絵とは、当人の差別心の塊のような表現です。その当人が美しいと思ったものを美化し、それに情熱を注ぎ、そうでないものを切り捨てます。
「芸術は排泄物」と表現する人は沢山いますが、まさしく、差別心こそが美への情熱だと私は思っています。
芸術から、ロジックと思想の話に戻すと、思想の自由市場をより開き、全ての意見に批判する自由を儲けて、それを第三者が見て選び取るのが最もよいネット文化と言えるでしょう。
思想の自由市場とは、まさに、「第三者が思想を選び取る自由がある」ことにその価値があるのです。
私が考えてる、思想の自由市場として、開かれたネット文化は全盛期の2chやニコニコ動画のような感じです。無秩序で、放置されているように思えますが、全てが全ての人を批判するうちに、過激な意見は追い出されていくものなのです。
このゴミ溜めの山から、クソの山から、見ている人は自由に自分の納得する意見を選べばよいのです。
フィールドワークの技法
1.ネットの九州差別の歴史で述べた
のは社会学の技法です。
社会学とは、人文学、統計学、歴史学を総合した学問です。その中で、社会学は敢えて、科学的手法を無視することがあります。
科学的手法とは「仮説を立て、実験し、それに再現性があること、見落としがないことを確認する」一連の手順のことです。
通常、社会学も「仮説を立て、統計を取り、それがどの集団、社会にも再現性がある」という前提で研究を行います。
ですが、社会学の派閥によっては、それを無視することがあるのです。それがフィールドワーク、という手法です。
フィールドワークは、「このデータには再現性がある」という科学手法を無視します。ですので、「これはこの集団に特異の物だ。」という論文の書き方を行います。
(この本の中では、”論文というよりルポライト。このルポライトでどれほど社会に影響を与えたかが論文の価値になる”みたいなこと書いてたと思います)
これを踏まえたうえで、私も社会学の手法に乗っ取り、Xの匿名の声、データになってない、噂程度の物をルポライトを書くように、エビデンスとして用いました。
確かに、論理的でないし、科学的手法でないかもしれませんが、一応、学問として認められた手法です。
しかし、高校生に言いたいのは、この手法は「基本を分かった上で、あえてそれを無視する」という手法です。
統計データや数学なしでは社会学は成り立たないので、もし勉強しようと思ってるなら、数学がちゃんとできる教授についてください。今の社会学の信用の無さは、数学が出来ないばっかりにそうなっているのですから。
私の大学時代に習ったことですが、「数学は学問の女王」と呼ばれます。物理、工学はもちろん、言語学や人文学、美術でも数学は使うのです。
数学はしっかりやりましょうね。
終わりに
あまりにも本気になって聞くので、ちゃんと書きました。
高校生でコレ読めたら大したものでしょう。まぁ、匿名の良く分かんない人のブログ記事なんか見てないで、勉強した方がマシなような気もしますが。
人文学等に興味を持ってもらえたら幸いです。