見出し画像

向き合うべき本質


母が1週間の余命宣告を受けた。

あれだけ勝手に産んだことを憎み、生きることへの絶望感を味わわされた母の命が風前の灯らしい。

背中に包丁を突きつけられた状態で、「こんな子、産まなければよかった」とそれに類する言葉を母から数時間に亘り浴びせられた5歳の夜。

その後も何度もうつ病の捌け口となり、学校から帰宅すると自殺しようとする母を止め続けて父の帰りを待つ生活。

私が泣き続けて止めても効果なし、でも姉が止めたときは効果があったのを見たとき、そのときは気づかなかったが、あの夜を経験して全て繋がった。

母は望んで私を産んだのではないのだと。

それでも泣きながら止めなければならない。
家中の刃物を座布団の下に隠し、新たな刃物を母が見つけてこないことを願いながら。

保育園と小学生の楽しい思い出は無いわけじゃない。
でもそんな生活で完全に「みんなの前の自分」と「心の奥にいる自分」が分離し、多重人格者への道を歩み、表面化しないまま今に至る。

友達の家にいけば、夕飯を準備しながらおやつを出してくれるその母親、その会話や行動を見るたびに胸が引き裂かれる思いだった。

授業参観や運動会は父が少しでも惨めな思いをさせないように無理して頑張っていた。そんな父をみて、早い思春期・反抗期を演じ、大人びた子どもを演出した。
そんな場で他の家族を見ることは、手に届きそうな天国を地獄から見せられる感覚だった。

本当の思春期・反抗期になった私は、将来への絶望感とともに母への憎しみを爆発させていた。
「死にたいなら死ねばいい」
「お前の弱さが人を苦しめている。」
「小さいころから鍛えられた俺はそんな人間にはならない。」
思いつく限りの言葉の暴力を駆使した。
母との関わりを断たなければ、人生は好転しないと本気で信じた。

そこで新たな気持ちが芽生えた。
同年代の子どもたちがまだ親から褒められたい、と思ってる時期に、
「他をみて比較し、悔しくなる生活なんて真っ平ごめんだ。自分の評価を決めるのは母ではない。他人から見た自分、あるいは自分自身なのだ。」
「自分のための人生を歩むんだ。自分の選択と努力による人生の逆転を掴むんだ。結果責任はすべて自分にあるのだ」
と泣きながら紙に書き殴ったことを今でも覚えている。

では何を武器に生きるのか。
目の前には、父に迷惑をかけたくない、母のせいで自分がダメなんだと思われたくない、そんな思いで人より少し得意になっていた勉強くらいしかなかった。

エリートやその家族が住む地域ではなく、お世辞にも優秀とは言えない公立中学校に通っていた私が、トップを取るのはすぐだった。
当たり前だ、覚悟が違う。

地域で1、2を争う進学校に合格し、一時は母も自慢気になり生活がマシになったが、根本的なところで変わらず、これでもダメかと思った。
思えば、似たようなレベルの高校に行っていた母がああなるのなら、私がそれでは逆転などできないのだ。

そこからまた絶望感に苛まれる日々。
ただ自分への誓いを思い出し、大学受験に賭けようと思った。
こんなに生まれも育ちも、顔も性格も関係なく実力だけが問われる世界は、私にとっては地獄に垂れ下がった蜘蛛の糸そのものだった。

受験生活中は家から離れることができる。
中学時代の部活で家にいる時間が極端に減ったことで母の調子がよくなった悲しい気づきも理由にはあったのかもしれない。

そんなこんなで浪人しつつも東大に合格。
人生逆転ゲームの賭けに勝ったと思った。
そこから人生が変わった。
周囲の評価も「こんな家庭の中で良く頑張ってる」ではなく、なんの枕詞もない賞賛を受けることになった。
数々の賞賛の影に、家庭のことをひた隠しにすることもできた。

そして母にとっても自慢の息子になったらしく、あらゆる場面で「アクセサリー」に使われた。
「条件付きの愛情」
私はその条件を満たすことができたのか、という悲しき感慨とももに、「無償の愛」という幻想への憧れも強まったことを覚えている。

すぐに実家から離れるために弁護士になるつもりもなく、入学当初からビジネスマンを志していた私は、人気大手企業に就職。
数年後に欧米の大都市への赴任し、幼少期に抱いていた絶望感はとうに消え失せていた。

しかし帰国後すぐに父が病に倒れた。
どうやら母がまた暴れ、父を家から追い出した結果、父は体調を崩しそのまま重い複数の病を併発。
ほどなくしてる帰らぬ人となった。

そこから1年間、母は荒れに荒れた。

まず会いに行っても、5歳の夜と同じ言葉を発しながら包丁を振り回す始末。
葬儀くらい家族で仲良い姿で父を送り出したいという私の願いから、葬儀まで連日の説得。

あれだけ憎んでいた母を説得する屈辱はもう1人の自分に背負わせ、落ち着いては暴れを繰り返し、なんとか葬儀に参加してくれるところまでに。
私は自分の有能感に浸っていたかもしれないが、その有能感は翌日すぐに絶望感に変わる。

父が眠る葬儀屋の前に母が包丁を持って登場し、警察のお世話になり、そのまま精神病棟へ。
自営業をしていた父の会社清算と相続を姉と2人で行う必要があったが、そんな母が同意書に判を押すわけもなく、
エリートの道を歩んだはずの自分が、まだ母に振り回される状態から脱せていないことに気づいた。

そのときの出来事と絶望感が人生最大の挫折、屈辱かもしれない。


そんな私にも転機が訪れた。
第一子、母にとっては初孫の誕生だ。
そこからは母と私の間にはこれまで何もなかったかのような時間が続いた。
私も子育ての大変さを痛感する中で、赦しはしないが母の苦しみを部分的に理解できるようになった。

何もかも良い方向へ、私も母との関わりを積極的に持つようになった。

そこから数年、母が入院した。
一度退院したりもしながら、ある日突然、命の危機という電話を受けた。
しかしその危機を母は乗り越え、生きのびる希望が見えた。

そこからすぐ、容体は急変し、今日、1週間の余命宣告を受けた。
私の人生、人格形成から(悪い意味で)切っても切り離せない存在である母がまもなく息を引き取るようだ。

憎んでいた、誰よりも嫌いで、そこから産まれたことを信じたくない存在がいなくなる。

はっきりとした記憶はないが、3歳ごろに私の誕生日にケーキを作る背中を見せていた母が、

あの夜までは手を繋がないと寝れない私の手を強く握っていた母が、

外科の先生に「自慢の息子」として、自分の人生が間違ってなかったと主張するように話していた母が、

もういなくなるらしい。

私は今どんな気持ちなんだろう。
憎んでいるんだろうか、悲しんでいるんだろうか、すっきりしているんだろうか。

2人の自分がそれぞれ混乱している。
私の目から液体を流してくる自分と、よかったじゃないかと説得してくる自分。

でも事実として液体は流れるし、父のときにも経験しなかった虚無感は確かにある。

さて、私は誰のおかげでここまで来れたのだろう。彼女の人生は幸せだったのだろうか。
最後の1週間、何十年と「うつ」に苦しむキッカケをつくった張本人である私が、母に何がしてあげられるのだろうか。

わからない。誰か教えて欲しい。
あんなに頭を使い、逆転ゲームに勝ち抜いてきたはずの自分がわからない。


憎しみから始まった文章を書いた自分が、最後には彼女の幸せを願っているという皮肉。

物心ついた頃から苦しんでいた、何とか脱すためにもがいていたことに関して、「憎悪の対象の幸せを願う」という、全く想定外の方法で整理がついている。

こんな憎しみに塗れた関係で「無償の愛」がそこにあったのだ。
母からもらっていなかったと思っていたそれが、私の中に確かにあるのである。
物心ついてからの生活がどんなに悲惨であっても、その前にはしっかり母は「無償の愛」を私に与えていたようだ。
いまはっきりわかった。

皮肉なものだ。
母の死を目前にして、私はやっと気づいたのだ。
憎しみから生まれたものは、どんなに素晴らしいと周囲から賞賛される結果であっても、何の解決にもならない。
心の中の温かい想いを、「無償の愛」を返すことでしか、糸口はなかったのだ。

こうやって後悔をしながら、人は大人になっていくのかもしれない。

さて、もう間違えないように、母との最後の時間を「無償の愛」の恩返しに使うとしようか。

いいなと思ったら応援しよう!