部落解放運動と日本共産党の天皇制廃止運動史
部落解放運動の反天皇史
部落解放運動による反天皇思想は、戦前に部落出身にして衆議院議員となった松本治一郎の「貴族あれば賎民あり」という発言が端的にそれを表現している。
1933年に開催された全国水平社11回大会に際して、日本共産党の32年テーゼを参考に全水解消派が作成した「運動方針討議委員会の意見書」では「天皇制の打倒なくして部落民の解放はありえない」と述べられている。部落民は社会の中で天皇、華族、士族などの上層身分への対蹠的存在であり、こうした構造こそが部落差別をもたらしていると主張した。一方で、全国水平社とは別に部落解放運動を行っていた帝国公道会は「天皇の下での平等」を標榜し、天皇制を擁護している。
その後、日中戦争が始まると國體打倒に対する当局の弾圧は激しくなってきた。あくまで天皇制打倒を目指していた日本共産党は治安維持法や特高の手より壊滅したが、全国水平社は時勢に迎合し一時的に天皇制に接近した。全水左派は「天皇一人のみが上にたち、全ての国民は天皇の赤子であり平等である」という一君万民論を根拠に、部落差別は日本国民の冒涜であると主張した。
戦後、1946年に行われた大会では「我々被圧迫部落民衆こそは征服者が支配している天皇制に最も鋭く対立する処のものであります」と再び反天皇制の旗幟を鮮明にしている。この大会では部落差別を「蚊」、天皇制を「ドブ水」と例えている。一方で部落解放全国委員会の行動綱領には天皇制打倒が明記されることはなかった。天皇制打倒を明確にしてしまえば真宗大谷派や日本社会党など天皇制擁護の団体との連合が不可能になるため戦術的配慮だったとされる。しかし1960年の部落解放同盟の綱領で「天皇制の廃止」が登場し、現在まで削除されることなく残っている。
1948年には松本治一郎は蟹の横這い事件で世間を騒がせている。衆参両院の開会式では正副両議長が天皇に拝謁するのだが、その際に天皇にお尻を向けるのは不敬だということで斜め前に歩いて入室し、斜め後ろにバックして退出するというのが明治以来のしきたりになっていた。これを松本は「そんな蟹の横這いみたいな真似ができるか。人間天皇になったはずだろ」と主張し、断固拒否したのである。
日本共産党の反天皇史
共産党が君主制打倒を党の公式方針にしたのは1927年テーゼからであり、1931年テーゼでは「天皇制」という言葉が初めて綱領的文書に使われた。この君主(天皇)制打倒はソ連のコミンテルンから押し付けられたものであり、当時の共産党最高幹部の間でも天皇制打倒の是非については議論があった。天皇制打倒を掲げるとなると政府からの弾圧が激烈化し、国民からの支持も得られなくなるのではと危惧された。とはいえ当時の共産党はコミンテルンに経済的にも思想的にも完全に依存していたため断る選択肢はなかった。だが、この二つの不安は後に現実化する。
1925年に制定された治安維持法では国体(天皇を中心とする国家体制)を破壊する行動が禁止され、満州事変以後は政府の弾圧は激しさを増していった。天皇制打倒を掲げていた日本共産党は政府の目の敵にされ、特高警察は共産党そのものだけでなく全協やコップといった共産党を支援する大衆団体まで取り締まった。共産党員は次々と逮捕され、凄惨な拷問によって死んでいった。同時に「天皇は労働者からの支持も高く、労働者解放と天皇制打倒は両立できない」として転向をした党員も多かった。こうして戦前の日本共産党は天皇制打倒を掲げてしまったばかりに壊滅状態に陥った。
国内の共産主義運動が絶滅に瀕していたにもかかわらず、政府高官は天皇制を脅かす共産主義者に怯えていた。戦争末期、近衛文麿は昭和天皇に対して上奏文を提出し、日本の内外の情勢が共産革命に急速に向かっており、國體(天皇制)護持のために勝利の見込みなき戦争を早期に集結させなければならないと説いた。共産主義者を過度に肥大化し、あらゆる社会問題を共産主義者の陰謀にしてしまう反共思想は現在でも存在する。
戦後合法化された日本共産党は、共和制のアメリカをはじめとする連合国軍を解放軍とみなし、その余勢を駆って天皇制打倒に気炎を吐いていた。しかし戦中アメリカや中国で活動していた野坂参三が帰国すると潮目が変わる。野坂は天皇制に対して穏健派であり、政治制度としての天皇制の廃止と昭和天皇の退位を求めながらも皇室の存続を主張した。野坂がこの件について事前にモスクワと相談していたことが大きな要因となり、第五回党大会では「封建的専制的軍事警察政治制度としての天皇制の廃止」と留保をつけた方針にする。
周知の通り、戦後憲法では天皇はあらゆる政治権力、軍事・警察制度から隔離されており、象徴天皇制をもって共産党のこの希望は叶えられたはずである。しかし野坂は「首相の任命、国会の招集解散など国事行為を行うことは民主主義の原則に逆行し、天皇が内閣の助言と承認を拒絶しない保証がないので危険である」として象徴天皇制を拒否した。終戦直後の日本共産党は戦争の余韻から象徴天皇制の評価を計りかねていたのである。
共産党と同じく左派であった社会党の中心人物であった西尾末広は「新党は皇室を中心とする日本的社会主義の具体化を目指して闘争する」と述べ皇室を擁護した。多少穏健化したとはいえ天皇制打破を目指していた共産党はこれを罵倒し、左派共同闘争の可能性が断たれてしまう。天皇制へのスタンスの違いから協力関係を断れてしまう共産党の懊悩は今後も長く続いていく。
1961年綱領で日本共産党は日本の現状をアメリカの従属国と認識し、支配勢力を半封建的な地主層から独占資本家へと変更した。天皇制については「絶対主義的天皇制は変質して、ブルジョワ君主制の一種となり〜」と記載された。これにより戦前以来の天皇制打倒の重要性は低下していく。その後、ソ連や中共と決別し暴力革命路線を放棄していった日本共産党は、選挙に勝つために国民から人気の高い天皇制の打倒についてトーンを弱めていかざるを得なかった。しかしこの段階では天皇制擁護には回らず、昭和天皇が崩御した際には議長の宮本顕治は戦前の治安維持法や戦争責任について言及し、戦後は「非愛国的な対米従属の象徴」と天皇を弾劾している。
共産党が転向したのは2004年綱領においてである。この綱領で国民主権の原則からみて「民主共和制」を理想としつつも「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」と述べ、当面は「天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する」と主張し「君主制を廃止」という規定を削除した。共産党が象徴天皇制を容認したことは、党員の反天皇制主義者から大きな批判を呼び、当時の不破哲三議長はその対応に追われることとなった。
2004年綱領には日本共産党はまず選挙で勝利し「民主主義革命」を起こし、後に「社会主義的変革」で共産主義を目指す、二段階革命論が提唱された。マルクス・レーニン主義に教条的に従うならば民主主義段階では一時的に天皇制を容認しても共産主義社会においては廃止されるべきになるが、志位和夫議長は社会主義的変革段階でも天皇制と共存しうると述べている。
近年よくニュースで聞く野党共闘は共産党が選挙に勝つために民主党などと共同戦線を張るものであるが、ここでもネックとなったのが共産党の「天皇制打倒」のイメージであった。共産党はこれを払拭すべく、2016年にそれまで参加を拒否していた、天皇が臨席する通常国会の開会式に党として初めて出席している。2019年には同じ理由で令和の天皇即位の賀詞に賛成した。しかし共産党への不信感は強く、立憲民主党や国民民主党の最大の支持団体である日本労働組合総連合会は「共産党の名前が変わっていない以上、天皇制打倒の考えは変わっていない」と述べ、それゆえ「共産党と政権を共にすることはありえない」と断言している。2022年には共産党は綱領の解説リーフレットを作成し、「与党になったら天皇制は廃止?絶対にしません」と主張し、日本共産党=天皇制打倒のイメージから脱却しようと試みている。
参考文献
『日本共産党』中北浩爾
『京都部落問題研究資料センター通信 Memento 2003.7.25 No13 反天皇制は部落解放の核心である』師岡佑行