「伝統的家族観」という世界
「正義はどうあるべきか?」と問われた時にどう答えるか。すぐに解答できる人は少ないだろう。あるいは「あるべき世界はどういうものか?」と問われたらどうだろう。気宇壮大にも程がある。とはいえ一つだけ言えることがある。私たちが現在生きている日本という社会は、意識するしないにかかわらず、概して西洋の正義に基づき、西洋の世界観に従って運営されているということである。
現在の日本社会は民主主義社会であり、自由主義社会である。また憲法の前文には基本的人権の尊重が謳われている。日本には様々な価値観を持った人が存在するが、公的な立場の人が民主主義、自由主義、基本的人権の否定をすることは(ゼロではないにしても)ほとんどありえないことである。それらは法で規定されているだけでなく、私たちも義務教育の中で西洋式の正義=倫理を身につけている。
卑近な例であるがTwitterではよくフェミニストとオタクが論争を繰り広げている。直近で自分が目にしたのは公の場に掲示された露出の多い女性キャラの広告の是非を巡る討論であった。彼ら、彼女らはお互いに激しく言い争っていても、しかしやはり社会規範に基づいてのものである。オタクは「女が男に口答えするな」とは絶対に言わない。「男女は平等であるべき」だからだ。フェミサイドも「オタクに人権はない」とは言わない。「誰しも人は生まれながらに基本的人権を持っている」から。
もちろん西洋の中でも価値観の物差しは数多く存在する。私たちが信奉しているのは言ってみればリベラル式正義といったところか。現在の日本の法と(おおよその)日本人の倫理を理論的に裏付けているのはホッブスやルソーの社会契約論、JSミルの自由論、カントの義務論、ベンサムの功利主義などなど、いずれも西洋人である。仏教、儒教倫理も根強いがやはり西洋倫理に後塵を拝しているように思われる。その内容は知らずとも、私たちは西洋式の物差しの中で生きていて、そのことを疑問に思う人は少ない。それでは西洋式の物差しは絶対的に正しいのか? そこまでは言わずとも相対的にマシな「正義」なのだろうか?
想像してみてほしい。「このイラストを公の場に出すのは間違っている。なぜならばそれは神の意志に反するからだ」と主張する人がいたら一体どう反論すべきだろうか。更にその意見に賛同する人が大勢いて、自分を数で圧倒してきたら。西洋式の物差しはそこでは全く通じない。カール・ポパーがいうところの「文化的枠組み」。言ってみれば世界観が違うのである。
周知のように世界には西洋的でない倫理観で生きる人が大勢いる。代表的なものはやはりイスラーム文化圏だろう。ムスリムはクルアーンに基づくカラームと呼ばれる神の倫理学体系を築き上げている。他にもヒンドゥー教にはヒンドゥー教徒の倫理があり、ユダヤ教徒にはユダヤ教の倫理がある。アフリカのエチオピア西南部のボディ社会には戦争や略奪とは別に文化としての殺人があるそうだ。正直、日本人の自分には理解できないカルチャーである。
日本は漢字文化圏だけあって古くから儒教の影響が強い。仏教より先に6世紀に百済から日本に入ってきた。「修身斉家治国平天下」という言葉が端的に示すように儒教は正に「人が行うべき正義」や「あるべき世界」を示す学問である。現代の日本人も日常の中で「それは親不孝だ」とか「仁義に反する」と言うことも多い。一方で、近世に朱子学として武士に慫慂された儒教は日本の近代化の社会的礎石となったが、明治維新以降「脱亜入欧」の掛け声と共に現実政治の場からは徐々に姿を消してしまった。それでも戦前は教育勅語に強い影響を与えるなど政界にも存在感を保っていた儒教であるが、現在の国会で声高に「仁・義・礼・智・信」を根拠として法案が可決されることはない。
しかし今の日本の政治が全て西洋的価値観の下で行われている訳ではない。中には非リベラル的正義を大っぴらにして施行されるものもある。それが「伝統的家族観」である。同性婚、選択制夫婦別姓が「伝統的家族観に反する」として保守層から反対されているのはつとに知られている事である。他にも子ども新組織が伝統的家族観を重視し「こども家庭庁」と名称が変更されたり、寡婦控除問題や、直近でも無戸籍児童の解消のための改革が伝統的家族観を主張するグループに阻まれている。
伝統的家族観と聞くと何となく「伝統を大切にしてる人がいるんだな」と気軽に思ってしまうところであるが、日本国憲法十三条「すべて国民は、個人として尊重される」に則る現代の個人主義社会の中で「伝統的家族観」を理由に法案が通されている、あるいは通されない現象は割と不思議なものである。個人的に「神の意志に反する」と大して変わらないのではないかとすら思う。
保守層は憲法に書かれた個人主義の削除を目指しており、自民党憲法改正案では十三条は「個人として尊重」から「人として尊重」に変更されている。また伝統的家族観の重要性を再確認する家族条項も追加されている。
昔、野田総理のことを歴史と伝統への関心がないと批判していた故・中曽根康弘元首相も家族条項導入に熱心だったのも印象深い
そもそも伝統的家族観とは何か。保守層の中でも多種多様な考えがあるだろうが、一つの類型としてはやはり、イエを社会の基本単位とするイエ制度=家父長制が挙げられる。日本のイエ制度は10世紀平安時代の貴族社会に萌芽し、以後百姓層にまで複線的に一進一退を繰り返しながらゆっくりと日本社会に浸透していった。イエ制度成立以前の古代共同体社会では男だけでなく女もまた性に放埒であった。12世紀の初めに編纂された『今昔物語集』には女やもめがボーイズハントに稲荷詣している様子が描かれている。しかし古代が終わり家父長制が完成に近づいていくと、女性は性規範に縛られ社会的な拘束を受けるようになる。
中世から近世にかけて日本の家族は男性優位ながらも多様な様相を呈していた。夫婦別財の慣習はヨーロッパではあり得ない話だと、日本にやってきたルイス・フロイスが驚いたという記録もある。 状況が一変するのは明治にイエ制度が法的に定められてからである。江戸時代には形式的には男女にある程度の平等があったが、明治以降は男尊女卑色の濃厚な強権的家父長制が日本社会に敷衍した。ルース・ヴェネディクトの『菊と刀』では当時の日本の家族が以下のように描写される。
これを読んで分かるように戦前のイエ制度は現代から見ると中々に過激な社会システムである。中近世のそれと比べても度を逸している。家族の構成員は家長の命令・監督に服する法的義務を負い、女は成人であっても法的無能力の立場に置かれた。中世にはあったはずの女性の財産権は奪われ、重要な法律行為をするには常に夫の同意を得なければいけないこととなる。
昔の日本の結婚は個人と個人の契約でなくイエとイエの結合であり、婚姻には家長(圧倒的多数が父親)の許可が必要であった。「お義父さん、娘さんを僕にください!」というやり取りが結婚には必要な時代がかつて存在したのである。現在の法規範に従うならば、娘という一人の人間を対象にして「くれ」というのは失礼な話であるし、パートナーを育ててくれた感謝を示すにしても「お義父さん、お義母さん」と両親二人に頭を下げるべきだろう。
現在、唱えられている伝統的家族観では流石に戦前のような男尊女卑思想ではない。それは建前ではないはずだ。保守層の考える伝統的家族観の具体像は同じく戦前のものであるが、教育勅語の家族像が近しいように見受けられる。以前、自民党の西田昌司参院議員は参院憲法審査会で教育勅語を「日本人の伝統的な価値観だ」と評価し「日本の文化で一番大事なのは教育勅語に書いてある家族主義、家族と伝統を大事にすることだ」とした。
儒教倫理に溢れる教育勅語であるが、原文の「夫婦相和シ」を男尊女卑と見るか男女同権と見るかは意外と解釈が分かれるようだ。当時出版された井上哲治の『勅語衍義』では「和」の語を夫唱婦随の意に解している。儒教系の解釈でも倡予和女(となふればわれなんじにわせん=男子の貴方が唱してくれるなら私はそれについて和す)として男性優位を説いている。一方で、倫理思想学者の八木公生氏は「和」を仲睦まじさと解き、男女同権と釈義している。いずれにせよ、保守層が教育勅語を理想とすると言っても男尊女卑社会を目指している訳ではあるまい。
大日本帝国は自国のイエ制度を植民地に輸出していった。日本は併合した朝鮮等で皇民化政策の一環として創始改名を行った。これを朝鮮人の名前を日本風に改めるものだとするのは半分の理解に留まる。当時の朝鮮半島は姓と呼ばれる男系血縁集団(門中、中国でいうところの宗族)を基底とする宗族制社会であり、イエに該当する概念が存在しなかった。そこで日本はイエに当たる氏を創らせたのである。畢竟、創氏改名とは朝鮮の宗族制社会を「日本の古来の美風」に則ったイエ制度社会に改造する政策であった。
伝統的家族観は一つの非西洋的な世界なのである。世界という言葉は決して大袈裟なものではない。日本は単にイエ制度を植民地に導入するだけでなく、西洋世界を打倒し日本的家族観を模した世界の構築を目指していた。その誇大な構想は「八紘一宇」の名称で人口に膾炙するところである。
八紘一宇は日本書紀の神武天皇の橿原奠都の令の一節「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」をモデルとする、世界を一つの家に見立てた国家家族論である。国家をイエの延長をみなす主張は明治20年代から唱えられ「万世一系の皇室」を大和民族の父親とした。その世界観を拡充したものが八紘一宇と大東亜共栄圏である。
アジア共同体の盟主(家主)たる大日本帝国はアジア諸国(子)を保護・監督する必要があり、イエの秩序原理を乱す国(中国のこと)は膺懲されるべきとされた。それはお互い対等な外交関係を結ぶ現在の西洋的なウエストファリア体制(主権国家体制)とはおおよそ異なる世界観であった(とはいえ当時の西洋諸国が主権国家として対等に遇したのは列強が「文明国」とみなした国だけである。半開、未開と見下された国々は悉く植民地にされてしまった。列強も大日本帝国も似たり寄ったりである)。
現在の保守論者は「いきすぎた西洋主義」と西洋的倫理を規範としながらも、同時に伝統を大切にしようという論調をとっているが戦前のファナティックな国粋主義者、軍国主義者達は自由主義、民主主義、功利主義、唯物論を「西洋の思想であり日本の伝統に馴染まない」として名指しで排撃していた。国家指導者だけでなくメディアや教員も時流に棹差して「内なる敵性思想(西洋主義)を遍く洗い落とすべし」として思想戦を展開した。
いきついた先は滅私奉公を強要される全体主義である。英米との対立を単なる経済や領土を巡る争いに止まらず、西洋の世界観と東洋の世界観が衝突するイデオロギー戦争と考えた日本は、やがて無謀なアジア・太平洋戦争へと突入していく。現在、伝統的家族観を主張する人が大東亜共栄圏の復活を狙っているとは言わない。そんな人はいたとしてもごく少数だろう。しかし、伝統的家族観と八紘一宇の思想は根源的に軌を一にするものである。
伝統的家族観なるものはリベラル的世界観からすれば一笑に付して然るべきものかもしれない。しかしリベラル的世界観を相対化した時、伝統的家族観もまた一つの世界観として成り立つものである。伝統的家族観を唱える人々は決して滄海の一粟ではない。今年、旧統一教会が理想とする家族観と自民党のそれが酷似していることが話題になったが、だからといって旧統一教会が自民党に思想的影響を与えていると考えるのは荒唐無稽な話だ。伝統的家族観の世界を共有する人は決して少なくないのだ。
長々と書いてきたが、結論として伝統的家族観というのは単なる価値観の一つでなく一つの世界と考えるべきなのである。それは西洋リベラル的価値判断の範疇を超えているものだ。いかにリベラル的理論を用いて説得を試みても、生きる世界観が違うのならば建設的な会話は難しい。氷炭相容れずとまでは言わずとも、保守層との対話にはラディカルなアプローチが求められると自分には思われる。