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【初心者でもわかる】実はあまり知らない??『女子プロレス』の実態に関して


皆さま、いつもご愛読いただき誠にありがとうございます。
プロレスマニアです。

世界的にも注目されている『女子プロレス』に関して解説していきます!





*女子プロレスの歴史


もともと日本の女子プロレスは、敗戦から3年も経たない1948年に誕生した。芝居小屋やキャバレー、ストリップ小屋で酔客相手に見せるショーがその始まりとのことです。相手の太腿につけたガーターベルトを奪い合うというセクシーなショーは、やがて警視庁から禁止令が出されて姿を消したものの、1954年11月には、アメリカからミルドレッド・バーク、メイ・ヤングといった当時一流の女子レスラーを招いて大会場で興行を行い、本格的なプロフェッショナル・レスリングとして成長していきました。

いくつか存在した女子プロレスのプロモーションは、やがて全日本女子プロレス(Japan Women’s Professional Wrestling)というプロモーションに統一され、1960年代からは不定期ながらテレビ中継も行われるようになりました。当時の女子プロレスラーは、身体が極端に小さい男性のミゼットレスラーと一緒に興行を行い、リングの上で歌を歌ったと言われています。


*女子プロレスの現実


女子プロレスは一番多い時で年間250もの興行を行う過酷なものです。試合のない日にも移動があったり、同じバスに十数人の選手たちが同乗し、24時間顔を突き合わせることもあります。先輩後輩の関係はかなり厳しいようで、後輩は先輩の付き人となり、洗濯物を洗うことはもちろん、生活一切の雑事を命じられることも以前はあったのだとか。

女子プロレスといってもハードなもので、凶器攻撃はしばしば大流血を起こし、メインイベントから外されたレスラーが有望な若手に危険な技を使って背骨を折ることも、求愛を拒まれた腹いせに本気のキックを後輩の顔面に入れてアゴの骨を折ることも、4メートルの金網の上から相手の腹の上に飛び降りることも、2階席のバルコニーからフロアに置かれた机に突き落とされることもあったそうです。

1990年代の女子プロレスは、世界で最も危険なプロレスだったといわれるほどで、そこには眼を背けたくなるような惨たらしさがあり、同時にある種の純粋さ、高貴さがあり、恐るべき魅力があったとのこと。しかし、命を落としかねないほど危険な女子プロレスに入ろうとする人間はあまりいなかったのだとか。

その後、日本も経済不況に陥り、高いプロレスのチケットを購入する観客も減り、21世紀の女子プロレスは極めて小規模なものになってしまいました。90年代初頭は年に何回も1万人以上の大会場で興行を行い、スタジアムに5万人以上を集めたことさえあったが、現在では200人程度の会場がスタンダードになってしまいました。

*コスチューム


特に女子プロレスでは試合用の服装のことをリングコスチューム、それを略してリンコスと呼んでいる。

日本女子プロレスの黎明期からは長い間はシンプルなワンピース水着やレオタードが定番となっていた。それまでのお色気を払拭してスポーツ色をより高めることの表れであった。ヒールレスラーの場合は下にロングタイツを着用する場合が多い。1990年代までのアメリカも同様にレオタードが定着していた。一方でアイドルから転身したミミ萩原は全盛期にハイレグなどセクシー面が強調されたコスチュームを使用するようになった。クラッシュ・ギャルズの全盛期になると競泳水着がポピュラーとなったそうです。


*まとめ


女子プロレスには男子プロレスとは違う魅力があり、コスチュームやストーリーなど女子プロレスならではの背景があります。

アメリカでは、近年女子プロレスの注目度が増してきており、日本の女子プロレスラーも世界で活躍しています。

改めて、背景を知る事でプロレスがより面白く感じると思いますので引き続きプロレスマニアの記事をお楽しみ頂ければと思います。

次回の記事も是非ご覧ください。




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