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さあ、始めよう。
今日は曇り。
曇りの日は時間の感覚が鈍る。過去が過去のようでなくなり、未来が見えにくくなる。そして現実が、襲ってくるような感じが濃くなる。だから曇りの日は無理をしない。「曇りの日は無理をしないで」という詩を書いたくらいだ。落ち着いて。深呼吸して。
一年前、山と川に挟まれた端っこの町に引っ越した。その日から私は毎朝、深呼吸している。
港町で生まれ育って、山の暮らしは初めてだ。
小さな貸家。小さな庭と畑と、これも小さな東屋がついている。
毎朝霜が降り、何もかもが凍ってしまう。
霜を踏むのは初めてだった。凍った水たまりを触るのも。
この一年、初めてのことばかりで、初めての感情ばかりで、この体感を、記憶しておきたい、と思った。それで記録することにした。
思えば私が書く詩は、記録に近い。どちらかといえば、そんなに言いたいことがあるわけではない。抑えきれない感情でもって、言葉があふれてしまうようなことはない。自分では思いもよらないようなことがあった時、世界が少しずれて、こんな光景があったのか、と、ほっとするような、安心するような、少し怖いような、自分ではどうにもならない感情を、取っておきたい、と思って書く。
何のためだろう。と、そんなことを思うのはやはり曇りの日だ。
書く人は、どうしたって仕方がないから書くのだと思う。
詩を書き始めたのは二十三歳の時。もうすぐ三十年になる。
本を読み始めたのも同じころだ。
どうして書くように、読むようになったのか、なぜ書くのか、考えてみるのも面白そうだ。けれどそれはまた改めて書いてみることにして、いま、ここで、どうか読む人が楽しい気持ちになるものが書けますように、そう願う。
《さあ、始めよう。》
これはメイ・サートンの真似。「独り居の日記」(みすず書房)の冒頭の部分。この後に、《雨が降っている。》と続く。
この一行に衝撃を受けて、それからほとんどの著作を読んだ。
《窓の外に目をやると、楓の数葉はすでに黄ばんでいる…》と続く。
家の窓からは道を挟んで、小さい銀杏の木が見える。高さは二メートルくらいだろうか、銀杏からすればまだ子供だろう。そのせいか、木肌はあまり凹凸がなく、ほとんど白に近いクリーム色で、日が当たるとそれは美しい。
年末の初霜から二日目に、一斉に葉を落とした。
黄葉して、風にそよいで、にぎやかだったのが急にしんとして、凍った空気の中で目を閉じてしまったように見えた。
足もとに敷き詰められた黄色い葉はすべてに氷の縁取りがあり、一歩近づくとごく小さな鈴の鳴るような音がした。
落ち葉が、薄い氷のように割れたのだ。
見上げるとてっぺん近くに一枚だけ、黄色い葉が残っている。落ちようとして引っかかっているらしい。クリスマスツリーの星のようだ。
きれいだった。
凍ったところがきらきらとして、思わずため息が出るほどに。
毎朝夫を見送りに外へ出る。夫は山の仕事をしている。
向かいの山の木と(一本だけとくに大きい木が立っていて、それが角みたいで、私は小鬼山と呼んでいる)、白い銀杏と、それから庭の楡の木と栗、こぶし、そのほかまだ名前を知らない木々に挨拶して回る。
小さな東屋の下にこれまた小さな水盤がある。最後に凍った水盤をこつこつ、ノックする(これも挨拶のつもり)。
早朝。まだ、誰も彼もがしんとしている。夏、あんなにへとへとになった草刈が恋しくなってくるくらいに静かで、少し淋しげだ。
端っこの町にようやく日が差す。
夜が明ける。