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ミル貝とわたしの可能性

先日29歳の誕生日を迎えた。

29年間生きたということで、私はかなりヒトである可能性が高まった。
20歳になった頃、犬や猫、その他哺乳類ではないことがほぼ確定し、今回の誕生日到来で、さらに絞られた。
亀やトカゲ、貝なんかはとんでもなく生きるらしく、その可能性はまだ捨て切れない。

真偽の程は定かでないが、ミル貝はなんと160年以上も生きるらしい。
そうなると、いつも寿司で食べているのが憚られてくる。
いつも食べているミル貝は、若年のミル貝なのか、はたまたご長寿ミル貝なのか、どちらにしても申し訳なさが拭えないが、私は美味しいので食べる。
しかし知ってしまった以上、今後はさらに感謝して食べなければならない。
それが礼儀である。
礼儀に科学的根拠などない。

160年以上も生きるとなると、最終的にミル貝はミル貝である可能性しか残らない。

160年も生きて、最後の死因は何なのだろうか。
天敵のカニなどから160年間も逃げ切れて、最後は何で死ぬのだろうか。
それが寿司になることだとしたら、本当に面目ない。

ミル貝は160年生き、自分がミル貝である可能性だけを残し、真のミル貝になった途端、予想だにしなかった「寿司になる可能性」が突如現れ、最期は寿司になる。
人生(貝生)何があるか分からない。

獣医である私の父は、「猿と人との違いは、本を読むか読まんかや」と幼い私に話していた。

本を読む子に育てたいが故に、そのようなことを言っていたのかもしれないが、私は長年これを信じて生きている。

本は読んでいる方が洒落ているし、面白い本は面白いので読書は好きだが、いかんせん読むのが遅いので、所謂「読書家」というものにはなれていない。
昨年は結局5冊しか本を読まなかった。
今年はまだ一冊も読んでいない。

こうなると、ここに来て私には猿である可能性が急浮上するわけである。

調べてみると、猿にも30代まで生きるものはいるらしく、猿である可能性は捨て切れない。
何なら本を読んでいないと言うことで、可能性が高まっている。

このように、可能性なんてのはその都度変動するのだ。

何かができるからこその可能性ももちろんあれど、何かができないからこその可能性も生まれる。
私が明日から読書に励めば、猿である可能性は少しずつ薄まっていくし、猿になりたくなったら、その時は本を読まなければ良いのだ。

ミル貝は、私なんかよりも何十年も長生きし、この地球を海の底から見守っている。
見守っていると言うと何か違うか。
おそらく一緒に生きている。
何をもって短命とし、何をもって長寿とするかは難しいが、全部の人間はミル貝より長くは生きない。生きられない。
それだけは確かで、そんなミル貝を私たちはなんと食べることができる。
これは可能性の風穴であり、不思議だなぁと思いながらも、口に放り込めばそんなことすっかり忘れて、私は明日も生きていく。

160年生きるミル貝も、29歳になった私も、それを見守り生きている地球である可能性は、最期まで捨て切れない。
そんな地球もまた、宇宙である可能性は捨てきれずにいるのだ。

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