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「あれが地下で寿司を売る女ね」

大学時代、デパ地下の寿司屋で一年半ほどアルバイトをしていた。

デパートのアルバイトというのは、働き始めるまでに様々な試験がある。使える商品券と使えない商品券、株主優待にポイントカードの併用、クレジットカード決済に一部ポイントでの支払い、それら幾通りものパターンを覚える必要があり、三度ほど試験もあった。あとは申し訳程度に言葉遣いやお辞儀の訓練もあった。
そして何より、デパートは女の園でもあった。従業員は不思議と皆女ばかりで、少ない男連中はみな厨房での作業か、たまに見回りにくるたぶん偉い人たちだけ。7階建てのビルは、鍛え抜かれた女たちの笑顔で飽和状態だった。

私が働いていた寿司屋は、デパ地下の中でもかなり渋い方だった。洋菓子店やその他高級お惣菜店で働く女たちは皆可愛い制服を身にまとい、目元に力の入った化粧で笑顔を振り撒いているのに対し、私はネットで髪を封じ込め、紺色の三角巾にオールバック、同じく紺色のエプロンですっぴんに近いナチュラルメイクだった。たしかに厚化粧の女が売る寿司を食べたいとは思わない。

バックヤードから一礼して売り場に入る。
自分の寿司屋を目指す道中、すれ違うお客様たちに囁く様な「いらっしゃいませ」を配る度、身体は自ずとオンモードになっていく。しかし洋菓子店の前を通ると何故か気持ちが萎れてしまうので、いつも回転焼屋の前を通るルートで売り場に向かった。

私の寿司屋は、隣りが漬物屋、向かいが中華のお惣菜、裏にはあの豚まん屋があった。
みな阿呆みたいにオールバックでニコニコしていた。
そして私は地味めなこの一角が好きだった。
食べ方や冷めても美味しい旨を事細かに説明したにも関わらず客が何も買わずに立ち去ると、「何も買わんのかーい!」とこちらに向かって叫ぶ中華屋の姉ちゃんも、終業後こっそり皆で各店の残り物を交換し合って帰る(本当はダメ)のも、私は大好きだった。

しかし、私が何より好きだったのは17時から完全閉店20時までの最後の3時間、デパ地下が戦場と化すあの3時間だった。
洋服や化粧品売り場とは違い、食べ物(しかも生物)を売っている私たちには、「いかに残さず売り切るか」という切羽詰まったものがあった。
私の店には「100円引き」「200円引き」「300円引き」「全品半額!」と書かれた4種類のシートが用意されており、それをベテラン店員のおばちゃんが客足を見て順に出す。無闇矢鱈に安売りはしない。ただ最後はたった100円でも売れた方が良い。その切り替えのタイミングが肝心だった。

17時を過ぎたあたりから仕事終わりに立ち寄る客層が徐々に増えていく。さりげなく製造時間が古い順に100円引きシールを貼っていき、それに気付いた小綺麗なサラリーマンたちがこれまたさりげなく買っていく。ここではまだ声を張り上げたりはしない。

18時を過ぎると一気に客足が増える。しかしここであまりに売り切ってしまうと20時まで品数が保たない。ここから新規で寿司を巻くことはせず、既に陳列されたもので乗り切りたいのだ。ここでもまだ200円引きシールをさりげなく貼り、「お寿司一部200円引きになっておりまーす」と適度に客寄せするまでに止める。

18時半、戦いの火蓋が切って落とされる。
これまでいた仕事終わりの客層に加え、近所に住む主婦層が増える。そろそろ寿司が安くなると知っている主婦の目つきは違う。何度も店の前をウロウロしては、「全品半額!」のシートが張り出されるのを息を潜めて待っている。
私はまず「300円引き」のシートを張り出し、「お寿司300円引きでーす!」と声を張りながら店の前に出る。そしてすれ違うお客様の目を見て「今晩はお寿司いかがですか!」と笑顔で勧めると、更に「おいしいお寿司はいかがでしょうか〜!」と遠くにまで叫ぶ。語尾を上げるのがポイントだ。
一人でも立ち止まる人が出るともう決まり。人は人がいる所に集まるものである。この後にまだ「全品半額!」があるとは知らない通りすがりの人たちが、「ラッキー!」とお寿司を買って帰る。私はこの時の「ラッキー!」の顔を見るのが好きだった。
「ちょうど良かったわ〜」と嬉しそうなお客様と、「今お値引きした所なんですよ〜!ナイスタイミングです!」と談笑する。
しかし、「全品半額!」の存在を知っている主婦たちはまだ買わない。

19時を過ぎた頃、ベテランのおばちゃんが「そろそろいこか」と私に告げる。私はいそいそと「全品半額!」シートを店先に掲げると、静かにレジに戻り一つ大きく息を吸う。そして、「お寿司全品半額でーーーーす!!!」と思いっきり叫ぶ!
すると、これまで何処かに潜んでいた主婦たちが待ってましたと一斉に集まり、みな家族人数分の寿司を我先にと抱えレジはあっという間に大行列になった。

ここからが私の腕の見せ所である。うちの寿司屋はバーコードがない上に、デパ地下の商品は贈答用になることも多い為本体にも値段が記載されていない。つまり、全ての商品の値段を記憶し、この場合更に脳内で半額にした金額を手打ちでレジに打ち込む必要があるのだ。私はこれが得意だった。高速でレジを打ち、大行列を捌いていく。お箸やお醤油にガリ、ポイントを付けるのも忘れない。遠くでお洒落お惣菜の女たちが涼しい顔でこちらを見ているのが見えたが気にしない。隣りのお漬物屋さんが「がんばって!」と目配せしてくれた。
ハイエナの様な主婦に混じって、偶然通りかかるとお寿司が半額になっていただけの「ラッキー!さん」がたまに居るととても癒された。
私は、「今夜はみんな美味しいお寿司食べて寝てー!」とレジを打ち続けた。

最後の1時間は嵐の様に過ぎ去り、気付けば閉店の音楽が流れ始める。私は「ありがとうございました」と退店するお客様たちに礼をしながらレジ閉めに取り掛かる。そして、商品券や紙幣を種類別に分け不備がないことが分かると、残り物をご近所さんに配り歩いた。お寿司はどんな時にも喜ばれ、いつもたくさんのお礼をもらった。「お疲れ様でした」と円陣を組み、紙袋に詰めたお土産たちを抱えてアルバイト用のロッカールームへと向かう。薄暗い部屋で髪を下ろし、紺色のエプロンを外すとじんわりと疲労が滲んできた。嫌な感じはせず、薄らと達成感を孕んでいる。この感じも好きだった。

煌々と光るデパートを背に帰路につく。
夜風を浴びて初めて自分が汗をかいていたことに気がつくと、自然と身体はリラックスした。
帰りに通りがかったコインパーキングの隅で、野良猫たちが会合を開いていた。
みな肩をすくめてこちらを見ると、私が過ぎるまで目を離さずにいる。早く警戒心から解放してやろうと、私は歩くスピードを早めた。
暫くすると、「あれが地下で寿司を売る女ね」と話す猫の声が背中に聞こえた。



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