人類は【シャッターチャンス!?】和泉 愛依に勝てるのか?
はじめに:エッチなのはダメ!
シャニマスを邪で見る人間を、許さない。
そんな志も新たに六周年を歩んでいこうと決めた日、とあるカードに出会った。
【シャッターチャンス!?】和泉 愛依 である。
<ペナルティー1:セルフビンタ>
僕は自分を打擲した。
お前、今愛依のどこ見てた。
そう鏡の中の自分に問いかけるも、自分の像は気まずそうに目をそらすのである。
ちなみにこの記事を書くために、デスクに鏡を設置した。
邪な目で見てしまったカモ!?と思ったときに自分に問いかけるためである。
お前、今何考えてた、と。
ただリトル・文学部Pはこうも宣っていた。
「目のやり場に困るんです」と。
まあ確かにぶっちゃけクソエッチなカードですけどね。
<ペナルティー2:セルフ腹パン>
僕は自分の鳩尾をぶっ叩いて、どうにか正気に戻る。
落ち着け。心を沈めろ。
深呼吸をヒッヒッフー。それはラマーズ法だ。
ラマーズ法で思い出したのだが、愛依は母親なのではなかろうか。
よくストレイは家族である、という言説を見る。
確かにあさひを見守る冬優子という構図は親子を連想させる。
だが皆、この二人の親子的構図に意識が行き過ぎている。
では、愛依のポジションは?
安直に父親と答えたあなた。
甘い。
甘すぎる。
こんなお父さんがいてたまるか。
こんなお父さんがいたら、戦争は根絶しているはずだ。
というか、どう見ても "母" だろ。何がとは言わないけれど。
<ペナルティー3:正座執筆>
次からペナルティーはこの膝の上に物を積むことにする。
早くも足がしびれてきた。前腿の筋肉が硬いのだ。
まあつまり、和泉愛依のストレイにおけるポジションは?と尋ねられると、僕は母親だと思っている。
これじゃ冬優子とポジション変わんねえじゃん!w と言われるかもしれないが、そうではない。
あさひの母親は、冬優子である。
つまり、和泉愛依は、黛冬優子の母親なのではないだろうか????
まあ四コマのこれが、反抗期の長女をうまくなだめすかして遊園地に連れて行く母親みたいに見ることもできるなと思っただけなんだが。
エビデンスなんかねえよ。お前がもってこい。
まあ基本的にはあさひと同じワチャワチャ側の立ち回りが多いのだが、シリアスなコミュにおいて冬優子の話を聞く愛依の姿は、どこか悩める娘の話を聞く母親のようで。
まあみんなも独自の愛依像を作ってみよう!(クソ雑投げ)
本編:【シャッターチャンス!?】vs僕の理性
さて、くだらない持論は置いておいて、【シャッターチャンス!?】について少し書いていく。
冒頭コミュ「わっ!暗!」
<ペナルティー4:石積み>
石なんかないので棚作ったときの木材(重)を五枚くらい積んだ。
これで大丈夫だ(何が?)
だってシャンクス!!
シャニマスくんがエッチだから!!
その肩出しですら既に効くようになってしまっている。
これは和泉愛依がそういう人だと一度思ってしまった結果、脳が反射的にエッチだと判断してしまっているだけなのだろう。
つまり、僕がエッチなわけではないのだ。
ここを勘違いしてしまう人間が多いのが、困りものである。
コミュ「楽しいクイズターイム!」
このコミュで最も面白いポイントは、プロデューサー自身にある。
自分を月、それを輝かしてくれるプロデューサーを太陽であると表現する愛依。
それを聞いたプロデューサーのセリフが、
太陽パワー!(たいようぱわー!) である。
そう、このカードも、みんな大好きトンチキプロデューサーがみれる至高の一枚なのである。
みんなも手に入れてコミュを読もう!
コミュ「映えなんてレベルじゃないし!」
竹ランプの中で佇む愛依の姿を反射的に撮影してしまうプロデューサーの姿が見られるぞ!
シャニPのいいところは、こうやって、きれいなものを綺麗だと思った瞬間に留めうるところなんですよね。
アッすいません。
コミュ「あめあめやめやめらんらんらん♪」
このコミュではてるてる坊主の三番の歌詞が話題に出る。
雨を止ませられないてるてる坊主は首チョンパらしいと聞いた愛依の言葉。
そう、一生懸命なのだ。
こんな記事を書いている僕ですら、社会で生きていくのは一生懸命なのだ。
一生懸命なのに報われない人間も、どこかにいる。
そんな人間すら包み込む優しさ、母性。
僕が和泉愛依に見た母性は、ここに由来するのかもしれない。ママァ~ダッコ~
コミュ「ダベりしりとり」
車のバッテリーが上がってしまったシャニPの元になぜか(本当になんでだ)駆けつける愛依。
このコ、シャニPのこと好きなの??
家に迎えようとしたり、自転車貸してくれようとしたり。
まー優しさの化身である。
そんなに優しくされると好きになってしまう。
相手の好意を分析していたらこっちが好きになっているとは。
恐ろしいですねェ……(眼鏡クイックイッ)
まあそれで、代案として、
ナチュラルに、夜中に、
女子高生を車の中に連れ込む大人もどうかしていると思う。
なんなら家おじゃまするより際どいだろ。
その後も夜中、ふたりきりで車の中思い出を語らいながらしりとりをしていくわけなのだが、
<ペナルティー5:石積み その2>
すみません限界です。
あまりにシチュがやばすぎます。
古くなって捨てようとしてたデスクトップPCを膝の上に積んだので勘弁してください。
オソンソンが爆発してしまいます。
しりとりの内容自体は、非常に微笑ましい。
これまでのコミュを総括するように、溢れ出るキーワードの数々。
思い出を大切にする子なんだな、と感心させられっぱなしだった。
人は、どうやって言葉を話すのか。
口下手なみなさんならわかると思うが、言葉を知っているイコール言葉が喋れるということではない。
日常的に、反芻して、実際に使った言葉たちの強度が日々上がっていって、実践的な言葉と成る。
使わない言葉は、使えないのだ。
映画の役のセリフを僕たちは知っていても、同様に言い放つにはぎこちなくなってしまうことが大半で、その所以はここにある。
愛依は思い出を、大切に、反芻してきた。
その日あったことを思い返すうちに、思い出が、それにまつわる文字情報が、自分のものとなって、こうした遊びの場面でもすらすらと、一見すれば些細な思い出だというのに出てくるようになったのだ。
我々は、日々を消費してやしないだろうか。
楽しいことを思い出すときに、抽象的にはなっていないだろうか。
具体的に、なにがどうだったのか、日々を思い返せば。
それこそ記録した写真なんかなくとも、些細な場面でも思い出せる、本物の「思い出」になるのではなかろうか。
まあ文字ベースで思考する僕のイメージ論でしかないが。
画像とかで考える人は、それはそれだ。
ともあれ僕は、大切なことを思い出させてもらったように思う。
そしてそろそろ、足の感覚がなくなってきた。
総括:シャニマスはそういうゲームなのか
シャニマスを邪な目で見ることは許さない、というタイトルで始めたはいいが、立派な成人男性には刺激が強すぎる眩しい女の子で埋め尽くされていることを再認識した。
だが、決してエッチなだけのゲームではない。
シャニマスは、2018年当初から一貫してシナリオの深みで食っている。
ときに泣き、少し笑い、半端なく不穏な気持ちになり、吐きそうになり、顔が引きつり、でもなんか納得して読み終えている。
それがシャニマスのコミュであり、今回の和泉愛依のコミュもその印象は大きく変わらなかった。
シャニマスは、エッチなゲームではない。
それを最後に言って終わろうと思う。
嘘で~~~~~~す!!!!
ドエッチ激エロゲーミングで~~~~~す!!!!
目のやり場に困りませ~~~~~ん全部見てま~~~~~す!!!!
表情から太もものラインまでちゃ~~んと見えてるからね~~~~~!!!!(失礼千万)
こんなイラストが全年齢版でいいワケがないだろ!!!!
FANZA版シャニマスのスチルやめろよ!!!!(大歓喜)
真面目にWINGやってた手が一瞬止まったわ!!!!
和泉愛依さんをエッチな目で見てんじゃねえよ!!!!
お前だよ!!!!
高山!!!!