魔族と人間とゾルトラーク


はじめに

 ゾルトラーク(あいさつ)! 城です。アドカレめんどくさいな~って思ってたけどやっぱり書くか~ってなったので書きます。よろしくお願いします。今期は逆張りせずにフリーレンみてます。おもしろいです。

人間と魔族

 一般攻撃魔法ことゾルトラーク、第三話では見るからに悪そうなデカい魔族を消し炭にしてましたね。消し飛ばされた魔族さん(名前忘れた)も大層驚いた様子でした。それから、見た目人間っぽい魔族も登場してましたね。こちらも紆余曲折あってフェルンにぶち抜かれてましたが。こっちのひとは最初全然魔族だって分かりませんでしたね。フリーレン一行のライバルとかかと思いました。

 ところで。どうして魔族は魔法でぶち殺していいんでしたっけ?

 今日はそういう話をしようと思います。よろしくお願いします。

「魔族との対話なんて無駄な行為だ」

 1000年以上生きた大魔法使いフリーレン様によるとだいたい次のような理由だそうです。

魔族もまた言葉を使う。しかし魔族にとっての言葉は、人類を欺く術にすぎない。魔族の祖先は、獲物をおびき寄せるために物陰から「たすけて」と言葉を発した魔物だった。云々

『葬送のフリーレン』 第七話

 なるほど。たしかに人間の姿や言葉を騙って、人間を害しようとする、いいえ、害しようとなんて思ってないですね。ただ食糧として食べようとしているだけ。しかしそんな危険な生き物は駆除されて当然ですね。むしろしなければ私たち人間が喰われてしまうのですから。奨励されるべき行為とすら言えるでしょう。

ところで(2回目)。あなたのお隣のご家族、ご友人、魔族だったりしませんか?人間と魔族って何が違うんでしょうか?

社会契約説

 魔族となにも違わないんじゃないかという視点を提起したいと思います。論旨としては、人間社会は実は、魔族、それも“弱い”魔族の寄り合い所帯なんだ、ということ。青少年的な僻んだ…というか潔癖な社会観をも感じますが……。
 突然ですが、今回ご登場いただくのはホッブズというおじさんです。中高の社会科で何かと出てくるあのおじさんです。絶対王政の擁護だとか、自然状態がどうとかで記憶にある方もいらっしゃるかも。以下、ゾルトラークをぶっ放していいかは、彼が教えてくれる…?かもしれませんというお話です。

人間は情念の生き物

 お腹が減った、あったかいお布団で寝たい、痛いのはイヤ、死ぬのは怖い……などなど、人間は欲望に突き動かされて生きる生き物です。こうして人間を突き動かすものを情念と呼びます。しかし同時に、人間は情念が突き動かすのままに生きているわけでもありません。おなかが減ったからと言って人のパンを取って食べたりはしないのは、理性があるからできることです。
 しかしホッブズは問います。ではどうして、人間は人のパンを取って食べないのかと。そしてこう答えます。そういうことがまかり通る世界は、結局(理性的に考えて)自分にとって不都合だからだ、と。気の向くままに殺し、騙し、犯し、盗む、各人の各人に対する戦争のような社会(これを自然状態といいます)は、ひとときも気が休まりそうにありません。争って傷ついたり死んだりするのは怖いですし、おちおちお布団で寝ていられそうにもありません。(魔族の世界はこんな感じなんですかね?こわい。)だから、私たちのような弱い魔族は、ほんとは他を出し抜いてやりたいのを堪えて、お互いにそういうのはナシにしようという社会契約を結ぶわけです。(では社会契約がどのように結ばれるかというホッブズの一番の特長を全端折りしますが、今回はその前提となる彼の人間観が本題なので許してください)

 そして己の情念のままに生きるという点に着目すれば、魔族も人間も変わらないということが言えそうです。違いは争いを苦にするのかどうかだけ。ですから「人間と魔族はどう違うのか」の答えとしては、「違わない。争いを選べない弱い魔族を人間と呼んでいるだけ」ということになると考えられるのです。
 第一の問いかけにもホッブズ流に答えておくと、社会契約を守る必要のない=弱くない魔物にはゾルトラークをぶっ放してよい、ということになります。改めて確認しますが、「弱い」というのは殺伐とした自然状態には耐えられない、という程度の意味です。クヴァールもリュグナーたちも(※調べた)あんまりそういう感じじゃなかったですもんね。

おわりに

 言葉を使う魔物と人間の違いはなんなんだろうという疑問から発して、両者に根源的な違いはないというペシミスティックな結論に達してしまいました。
 そして実際のところは分かりませんが、筆を進めるにあたりフリーレンの人間観、そして道徳観もこれに近いのではないかと思うようになりました。というのも、長命であるがゆえに人間の多様な生きる目的をある程度相対化してそうというのが一、説教臭さを敬遠し、また本人も生きる目的に窮していたところから特段の道徳的な直観(形而上学)や信仰への帰依はなさそうというのが二です。……あの作品の世界の自然観、社会観、道徳観、とても気になりますね。みなさんここまで与太話に付き合っていただいてありがとうございました。あともしログが残るんだとしたら、投稿時間とかはあんまりよく見ないでください(深夜2時は広義当日って言い張らせてください……)。

裏話

 恥ずかしい話をすると、本稿は当初「ゾルトラークと形而上学」という脳みそから偶然滴り落ちてきたタイトルを見切り発車で採用素材そのものの味を生かした状態で提供される予定でした。ところが書いているうちに中身がどんどん変わっていき、最終的にはメインディッシュにメタフィジックスとは似ても似つかないリアリストのホッブズおじさんが鎮座していました。予告と違うものになってしまってすみません……。

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