剥離
心が剥がれてしまった感覚ってわかります?先生?例えばね、すごくきれいな花を見ているのとまったく同じ瞬間にコンクリートがぐるぐる混ぜられている様子が浮かんできたりとかね。50M走走らなきゃいけないんだけど、走る前から走り終わるまで掛け軸が頭から離れなかったりとかさ。走り終わったら、掛け軸からアヒルがグガーグガー鳴きだしたりとかさ。私みんなそうだと思ってたんですよ。受験勉強してた時とかは、本当にやばくて。微分積分やりながらたい焼きがひたすら焼かれていく様子が頭にどくどく流れてきたりさ。たい焼きがみんなこっちを見てるんですよ。ある日友達に、いつも私頭の中にバラバラのことが同時進行で浮かんでくるんだよね、って笑いながら言ったんですよ。そしたらその友達は真顔になって。え、どういうこと?って。その時、みんながみんな頭の中にいくつもバラバラの考えや映像が流れているわけじゃないって初めて知ったんです。
でもそれがおかしいとかは思わなくて。ずっとそうだったからそんなもんなんだと。旅行に行ってすごくきれいなヨーロッパの街並みを見ているのに保険の証書に押した印鑑どれだったけなと思ったらもうそれが頭から離れなくなったり。すごくおいしいお寿司を食べているのに味がわかんないんだよね。おいしいのにおいしい味がわからない。そりゃそうだよね。お寿司食べながらゴム加硫の様子が頭に浮かんでくるんだからさ。中学校の卒業式ではみんな別れのさみしさで泣いているのに私は芸人の「どうも~!」が頭から消えなくって、泣けませんでした。ほんと困りました。
なんていうのかな。感じている感覚が自分から剥がれちゃってるんですよ。楽しいは言葉としては知ってるんですが、自分が感じているのは本当に楽しいっていう感覚なのか自信がないというか。見た目リア充だったから、楽しいー!いえーいって口では言いながら無理やり私は今楽しいんだ!って言い聞かせてたんです。そう言い聞かせるたびに何度もバカみたいに楽しいー!イエーイ!ってデカい声で言うんです。彼氏に振られてさ、悲しい、って言いながら悲しい感覚がわからないんだよね。悲しいって悲しい演技をすること?悲しいって言っとかないとおかしいよな?とか思いながらがんばって悲しがってた。悲しい状況だから悲しく感じないといけないと思ってた。真面目でしたよね。
それでいて、将来の不安は強かったんですよ。小さい頃から、もっとしっかりしなさい。もっとできる子です。もっと頑張りなさい。今頑張れば将来心配しなくてもいいから努力しなさい。先生も親もみんな言いました。先生や親の言いつけを守りました。テレビも我慢して、夜も寝ずに勉強しました。お友達とも遊ばず勉強しました。恋愛なんてくだらない、ってずっと本を読んでいました。努力の甲斐あって学年一の優等生になりました。でも先生や親はまた言うんです。もっと頑張れば良い大学に行ける。もっと頑張れば良い就職ができる。私は、もっと頑張ればもっと立派で良い人間になれるって思いました。言われたとおり、立派な人になるために、一生懸命勉強しました。将来の安泰のために。将来の不安を消し去るために。でもどれだけがんばっても将来の不安は消えないのです。消えるどころか、ふとした時に、私の目の前は不安の霞でいっぱいになっていることに気づきました。
だんだんさ、そうしてくるとさ、自分がわかんなくなってくるんですよ、先生。自分が一体何を感じてるのか。何に感動してるのか。自分は一体何者なのか。そして自分がなぜ生きているのかすらもわかんなくなってくるんだよね。さんざん立派な人間になるために血のにじむような努力をしてきたのに、私、このザマでしょう?先生もご存じの通り。立派な人間になるどころか、その正反対の所にたどり着いちゃった。
こんな私でもさ、人生で初めてものすごく大好きになった人ができたんですよ。あ、一応言っときますけど、その時の私にふさわしい表現をするならば、「ものすごく大好きだと感じてたと思う人」ね。全身全霊で相手は私を大切にしてくれてさ。でも私、感覚が剥がれてるじゃん。だからそういうのが全く理解できなくてさ。なんでそんなに私のこと頑張って大事にできんだろってその人のこと不思議な生き物みたいな感覚で見てたんだよね。変わった人だなーと。好きだって思っていると思うと思って付き合ってたって感じだな。相手が大切にしてくれるからそれが好きってことなのかなとかさ。彼氏がいてものすごく大好きな演技をしているんだけど、好きって感覚はどっか別のところにあるみたいな。その彼氏はさ、本当に尽くしてくれたんだよね。本当にこんな私みたいなのに優しくしてくれて、本当に呆れず見捨てず大切にしてくれてさ。申し訳ないくらい。そんなの人生で体験したことなかったから正直圧倒されてました。
んでさ、その人がさ、ある日突然いなくなっちゃったんだよね。私さ、わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない。混乱して。初めてあんなに動揺した。上も下も混ぜ混ぜの、右と左もアベコベになっちゃった。まっすぐ立てないのよ。夜か朝かもわからない。寒さも暑さも。目を閉じているのか開けているのかもわからないの。
その時に初めてさ、人生で初めてさ、心の底から失うことの悲しさとかさ、絶望感とかさ、自分の非力さとかさ、どこかのだれかさんのものじゃなくて、間違いなく自分の腹の中から湧き上がってくるのを感じたんです。不思議とさ、この失った時の感覚はいつもと違ってわかるんだよ。もう掛け軸のアヒルとか出てこないんだよ。悲しいは悲しい。悲しくて涙が出る。心が締め付けられて立っていられない。寝ているのに寝ていなくて、心臓が割れそうで、痛くて。涙が止まらなくて。悲しいは悲しいなんですよ。辛いは辛いなんだよ。それ以上でもそれ以下でもない。こんなの当たり前なんだけど、私それが自分のものとして感じたことがなかったんです。
1か月くらい続いきました。もう何日ごはん食べてないかもわからない。何日泣き続けたかもわからない。でさ、ある日突然朝起きると、毎朝止まらなかった涙が止まってて、手のひらの感覚が異様にはっきりしてたんですよ。手のひらが別の命になっちゃったのかと思いました。そのまま外に出たの。そしたらいつも見ている風景がものすごく色鮮やかで、私びっくりしました。瞬きもできないんです。街路樹の緑がこんなに緑だったのかって。緑の中に黄みどり・深緑・エメラルドグリーンがあって、緑には深さがあるんだなって産まれて初めて思ったんです。アジサイの花の色と輪郭が筆で書かれたようにくっきりしていて。鳥の鳴き声は360度どの方向からも聞こえてくるんです。車の走る音なんて怖いくらいに臨場感があって。太陽の光は剣のように尖っていて、そのまま光の剣に刺されるんじゃないかってぐらい鋭かった。雲が流れていく音すらも聞こえてきました。空気の匂いもむせ返るほどに匂いがして。どうしちゃったんだろう、って思ったんだけど、初めてそこできづいたんです。これが生きてるという感覚なんだって。これが感じるということなんだって。私はただそこに立っていて、音と光と匂いが私を圧倒されるしかありませんでした。ただ立ち尽くすしかありませんでした。足は芝生の温度すらも感じるほどに皮膚感覚が研ぎ澄まされていました。圧倒的なそれをさ、ただただ感じるしかなかった。なにもできなかったよ。初めて自分が何かを感じていることを自分の実感として感じたんだよね。気づいたらさ、道のど真ん中に立ち尽くしてわあわあ泣いてました。先生。人が通りすぎるのも目に入らないくらい、光と音と匂いと温度とが一斉に降り注いできて、言葉なんてだそうと思ってもだせない圧倒的な感覚なんですよ。泣いてたのはさ、悲しさにじゃなくて、ずーっとそれはそこにあったんだよ。すっごいきれいなものがさ。すっごい鮮やかな世界がさ。それに気づいたんだよ。私はずっとそういうものに囲まれて愛されて生きてきてたんだよ。そういうことに気づいた、うん、言葉を選ばずに言えば、歓喜ですかね、それを自分のものとして感じたんですよ。でも私は今まで感じることを自分に許してこなかったんだよ。本当は許されているのに。自分の世界を狭めて感覚を解放してこなかったんです。自然な感覚を許してこなかったんだ。素直に楽しい時に楽しいと感じ、うれしいときに嬉しいと思うその感情を抑えてきてしまったのです。そのときに、私、本当に自分は愚かだったって気づいたんです。無知だったんです。大馬鹿者だったんです。こんなにも多くの生き生きしたものが、きらきらしたものが、身の回りにあるのに、それを無視して不安にがんじがらめになって、怖いものばかり探し求めて生きてきたって。それに気づかせてくれたのは、失った彼なんだよ。大事な大事な彼をさ、失う感覚を味わって初めて、皮肉だけれど、引き換えに自分が生きる感覚を初めて自分で、この手で握ったんだ。ずっと私はその彼にさ、愛されていたってことすら感じる力がなかったんだよ。一つさ、一貫した事実はさ、彼はどんだけ私が情けない人間であってもずっと愛してくれていたんだよ。ずっとそこにあったんだよ。私に語りかけてきていたんだよ。そこに大きな大きな愛があったんだよ。深い深い愛に包まれて生きてきたのに私はどうしようもない大馬鹿者だったんだよ。
その感覚はさ、数週間続いて、ほんとおかしくなったと思いました。全てのものが朝露がついているみたいに鮮やかで生命力が溢れ出て、すべてのものが鈴のような声で語り掛けてくるんですよ。その優しい世界の音や感覚に触れるたびに私はオイオイ泣かずにはいられませんでした。美しい音はただただ美しく。優しい人はただただ優しく。もうさ、前みたいに美しい音楽を聴きながら、有馬兵衛の紅葉閣へ!とか思わなくなりました。ただ、美しいものを美しいと感じ、ただ優しい人を優しい人と感じるんですよ。
不思議なものでさ、そこからもうあの剥がれた感覚がなくなったんだよね。楽しいという感覚は本当に心の底から楽しいし、ただ楽しい。うれしいという感覚は体の底から湧き上がってきて、私の表情もうれしいと表現しているし、ただ嬉しい。悲しいときは悲しいなんていわなくても心臓が絞られるような感覚になるし、涙がポロポロとかってに流れてくる。悲しいはただ悲しいなんだよ。嬉しいはただ嬉しいなんだ。体と、心と、表現が一致したんです。やっと。初めてさ、私は生きることがこんなにも豊かなのかって思いました。
もし使徒ってのがいるとしたらさ、私、あの人はそうだったんじゃないかなって思うんです。その人のおかげで世界の見方は180度変わってしまった。その人のおかげで私は自分が愛されていると知ったんです。その人のおかげで私は失っていた生きることの喜びとその躍動感を自分のものとして知った。その人のおかげで私たちの身の回りにはあふれるほどのやさしさや温かさがあることを知った。もしかしたらさ、あの人は神様から私にそのことを気づかせるために送られてきた使徒なんじゃないかなって思うんだよね。いいですよ、変なやつって思ってくれても。先生、もう大丈夫そうです私。なんか、もう大丈夫な気がします。私、決めたんです。これからは今まで感じてこられなかった感覚を、もっと大切にしようと思うんです。子供のころ、若いころに、感じてこられなかったものを、感じながら生きていこうと思うんです。もういい年になっちゃったけど、やり直せると思うんです。私、生き直すことにしました。