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酸っぱい葡萄 酸っぱい美人

ちょっと顔がかわいいからってあの子はツンとしてる。美人は性格悪いわ。

母は美人を見るたびに、こういった。幼い私に向かって、美人は性格が悪いから近づくなと。母の言葉がこの世界のすべてであった私は教えに忠実に美人には近づかなかった。ところが、美人が近づいてくる。私からは決して美人に近づくことはない。母は私の友達を見てはかわいいからって気取っている、と批判した。

私の友達は美人ばかりだ。控え目に言っても美人ばかりだ。類は友を呼ぶって言うからどうせあなたも美人なんでしょう?と思ったあなた。馬鹿もほどほどにしてほしい。私は自他ともに認めるブサ王だ。道行く人に〇〇〇デラックス!とか、男には、ブスのお前には聞いていない、と辛辣な言葉を浴びせられたことは数えるに枚挙がない。自分の結婚式では、カメラマンに花嫁より友達ばかり撮ってしまったと言われた。そんな私の友達がみな美人だなんて、オカルトであろう。都市伝説であろう。美人友達アピールか?そんな青臭いことを言える歳ではもはやない。厳然たる事実として、私の友達は有無を言わさぬ美人ばかりである。しかもその美人がみなただ造形が美しいだけでなく、そこにいるだけで花が咲いたような存在感のあるなんとも形容しがたい神聖な美しさを放っているのだ。引き立て役として選抜されたと思うだろう。たとえそうだとしても私に多くの美人が寄ってくる。醜形に対する同情でもあったのであろうか。それでもとにかく美人が寄ってくる。美人はブスといたほうが張り合わずに済むからか。それでも途切れることなく美人が寄ってくる。自分が男だったら、恐ろしいほどのモテ方であった。かの藤原道長も泣いて羨ましがったであろう。これは幼稚園の頃から大人になるまでずっとである。

彼女たちは外見が美しいだけでなく、教養があり、品格があり、やさしさと愛情に溢れる人たちである。美人というと人を見下したり、自分の美貌に胡坐をかき精神面の鍛錬を欠いた下品な美人も確かにいる。しかし私の知る美人は親切さに溢れ、学ぶことに意欲的で、向上心があり、誰に対しても公平な態度で接し、時に泣き、笑い、怒り、悲しみ、人間的魅力にあふれている奇跡のような人々であった。そこに彼女たちがいると人は親切にせずにはいられない。やさしさを表現せずにはいられない。彼女たちがいるだけで温かい光が放たれ、見る人の心に美しい花を咲かせるのだ。

彼女たちは当然男にモテる。それも相当な器の男にモテる。男は愛を伝えずにはいられない。彼女が笑顔になるためなら文字通りなんでもする。これがまた、その男も本当に優しく、愛情深く、情緒的に成熟した魅力的な男性なのだ。消耗品のような男ではない。磨き上げられ、崇高な精神性を体現するかのような尊い男たちだ。よくもこんないい男が世の中には隠れていたもんだ、というようないい男が彼女たちの周りには頻繁に現れる。世の中にいい男がいないなんて嘘である、と私は断言する。分配に問題があるだけである。

彼女たちはこういう素晴らしい男の愛を受け、それに奢ることなく受けた愛を他者に向ける人達だった。分け与え、ともに喜び、ともに祝福することが彼女たちの喜びである。往々にして彼女たちは美食家である。男は彼女たちを喜ばせるために手の込んだ洗練されたレストランへと連れて行く。そこで味わう芸術的な料理・Cuisineを味わう舌を養い、究められたサービスを享受し、その甘美なもてなしをドレスを着るように身にまとっていく。洋服やジュエリーにしてもそうだ。私が安物の雑貨屋で1000円のメッキのピアスを他の客に押されながら物色している間、彼女たちはVan Cleef &Arpelsのジュエリーの文化的価値・芸術的価値・匠の技の生み出す究極の美に触れている。こうして彼女たちの審美眼はしなやかな筋肉の如く鍛えあげられていき、彼女自身の血となり肉となり、彼女の知性と感性の芳香を高めていく。また、素晴らしい男といることで、愛情だけでなく、良い人間関係、道徳観、美的感覚、芸術的感性が、絶え間なく磨かれていく。彼女たち同様に美しく豊かで愛情に溢れる女たちも同じ匂いのする彼女たちにその厳しい審美眼で選び抜かれた人脈・情報・環境を与える。これ以外にも、彼女たちには多くの友達、陶器屋の主人、コーヒーショップで後ろに立っていたサラリーマン、ケーキ屋のお姉さん、病院の先生、駅員、見知らぬ学生、など彼女たちに与えることへの歓喜に沸いた人々が列を成して待っているのである。そして彼女たちはそれを感謝して受け取り、受け取った親切をまた別の人に美しい笑顔とともに伝えていくのだ。

彼女たちは外見が優れているだけでなく、愛と豊かさの循環が止まらない喜びの渦に包まれて人生を過ごしている。その循環はますます彼女たちを魅力的な人物へと磨きあげ、ますます多くの人を魅了していく。

この私が嫉妬しなかったわけがない。嫉妬と悔しさと劣等感を原動力に自己を形成してきたこの私が素直に彼女たちを受け入れられるはずがあろうか。しかし圧倒的な美を前に嫉妬などという感情は屁のつっぱりにもならない。私を襲ったのは絶望であった。人生の土俵が違いすぎる。私は非モテという花街道をイカリ肩を切って闊歩し、心臓を非モテに捧げていた。また劣等感ゆえに認知がゆがんでおり、善すらも悪ととらえる、今思えば神経症的な側面を持っていた。彼氏など一人もできたことがなく、また男から携帯電話の番号を聞かれたことも、今度食事でも、なんて若き乙女にすれば当たり前の状況に陥ったことなど二足歩行のカバを見つけるのに等しい奇跡であった。そんな私は誰かに親切にされることもなく、女性として人として大切にされるという経験が決定的に欠如していた。一方で美人は私がのどから手が出るほどほしいものを易々と手に入れていく。ただ存在するだけで。その様は己の女としての自信を海の藻屑と化すに十分であった。私の荒れ果てた心は、益々ないがしろにされるような経験を呼び込み、益々私は僻んでいった。一方が益々精神的に貧しくなる一方で、もう一方は益々富み、精神の貴族の様相を表していく。彼女たちが生きること自体で積み重ねてきた喜びや愛の多さに対し、自分の前には生きること自体で高々と積み上げてきた嫉妬と絶望が超絶的な存在感を放ちながらそびえたっている。追いつこうとしても星と星程の絶望的な距離があり、私はどうあがこうと絶対に這い上がることのできない永遠の地獄の谷、精神の貧困の谷にいるように感じられた。

私は徐々に彼女たちから距離を置くようになった。彼女たちといるのは本当に楽しい。いつも学ぶことがある。しかし私は彼女たちと一緒にいることが耐えられなくなった。その高貴な佇まいに、その花のような存在感に、その女神のような輝きに。それらは鏡のように否が応でも自分の醜い感情を映しだし、結局私はその感情に負け、彼女たちからそっと距離を置くようになった。自分など彼女たちにはふさわしくないのだと決め込み、明るい道化の姿をしながら心は嫉妬と絶望で地獄の谷で焼かれるようにその表現できない怒りを叫び続けるしかなかった。分かり合えない厳然たる格差があると痛いほどに悟った。にも拘わらず、人生のどんな場面でもどんなに美人を遠ざけようと、私は美人と知り合い、美人と仲良くなり、美人から離れられない。どれだけ美人を追い払おうと、美人が寄ってくる。そのたびに私の地獄の火は焚きつけられ、自分の醜さを体に焼き付けるのであった。

嫉妬と絶望に狂ったこんな私でものちにどうにかこうにか結婚という形までこぎつけた。それは自分の大きくかけた女性性への劣等感を埋めるのに作用し、気づけばかつてのように自分を憎むこともなくなった。正直無意識の上で健全な動機で結婚したのではないように思う。しかし、事実としてかつて劣等感の地獄の底で叫び続けた自分の醜い心の弱さをもう感じることはなくなっていた。

かつての美人の友達と会った。彼女は相変わらず魅力的で、益々幸せと豊かさが溢れ、輝きが増している。彼女の人生は多くの成熟し、高貴な精神の持ち主たちによって、そして彼女そのものが与える豊かで深淵な心によってさらに祝福されたものとなっているのが手に取るように感じられた。美人は結婚できても苦労する人もいるわよ、旦那が金持ちでもDVかもしれないわよ、なんて言う人がいるが、それはブスによる嘘である。身も心も美しい美人は素晴らしい人とパートナー関係になっているし、素晴らしい人生を歩んでいる。彼女は年齢とともに豊かで上質な経験を重ね、熟成された内なる煌めきはダイアモンドの如く輝きを放ち、一生ものの眩い魅力を作っていく。その人なりの試練はほかの人と同様に訪れようと、一旦好循環の上昇気流に流れに乗った人は簡単にその流れから外れることはない。彼女たちが神の愛する美しい娘たちだとすれば、慈悲深い神がその梯子を外すはずことなどあるだろうか。

ふと、かつて見るたびに絶望の砂嵐を呼び起こした美人を目の前にして、私はもうそのような感情がすっかりと抜け落ちていることに気づく。思い出す。彼女は今も昔も優しく、素敵な人だ。私は悟る。それが一貫した私の事実だ。私がどうあれ、美人な友達は私のありのままを認め、友として大切にしてくれた。ところが、どうだ。私は自分の内なる劣等感によって彼女たちのありのままを受け入れず、彼女その人と心を通わせる努力を怠った。そのエネルギーを自分を苦しめる道へと導き、美人だけではなく、多くの人と心を通わせる努力を怠り、自分の心に鎧を着せ、誰にも己を傷つけさせまいと自分を守ることにしか注意がいっていなかった。

現実は、美人は優しい。美人は親切。美人は人の気持ちがわかる。美人は素敵な人が多い。美人は楽しい。美人は学ぶことが多い。美人は謙虚だ。美人は聡明だ。美人は強い。美人は利他の精神にあふれている。

かつて母が私に魔術をかけたように、美人はどうせ性格が悪い。という言葉は私の中で現実となろうとしていた。私の見ている現実はその反対にも関わらず。母の劣等感と妬みを受け継ぎ、そう捻くれて美人を憎むこと、ひいては自分を憎むことを無意識のうちにしてしまっていた。そして私は自分はブスである。自分は美人ではない。という、厳しい現実を、受け入れることを拒否し、ありのままを認めることを恐れた。自分の繊細で弱く、そしてかわいくありたいと純粋に願う無垢な若き乙女の心を守ることに必死で、そんなときにいつも都合よく母の呪文「美人は性格が悪い」を盾に自己防衛に走っていた。自分の愚かさに気づいたときに、私はきっても切れない美人との縁に感謝した。しつこく私の人生に現れてくれてありがとうと。私は心から感謝した。多くを教えてくれた彼女たちの存在に対して。母の見る美人と、私の見た美人は違うと気づかされたことに。母の言葉の呪いに縛り付けられ人を妬み敵対視するような大人にならなかったことに。自分の醜い貧しい心によって美人は性格がきたないなどとわかりもしないことに囚われて尊い素晴らしい友を失わずに済んだことに。その色眼鏡で世界を見、世界を、自分を、呪いながら生きずに済んだことを。そして、外見に関わらず、自分をありのままに受け入れ、愛することができるようになったことに。

言うまでもなく、私は今更美人にはなれない。しかし、美人を人生の哲学が詰まった本とし、そこから学ぶことはできる。向上しようとすることはできる。美人がかつて私にしてくれたように、他者に親切にすることはできる。美人は私に人としての在り方を教えてくれた人たちである。

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