ティーンとの関わり方がわからない
できもしない善行の安請け合いをしてしまったのではないか。朝方の目覚めきれない温かいベッドの中で質問される。私は自分の器以上のことに足を踏み入れているのではないだろうか。最近の目覚めはいつもこの自問自答で始まる。
最近アフリカンアメリカンの高校生を放課後預かっている。ただでさえティーンは取り扱いが難しい。のに加えて私が預かっている彼は家庭に事情があり、繊細な思春期、喧嘩に明け暮れている。非行少年と言われる瀬戸際である。いや、もう非行のタイトルは獲得済みであろう。
学校という安全な建物を一歩出ると多くの誘惑が待っている。不安定な家庭環境で暮らしてきた彼は自分を同化できるものに魅力を見出している。最もわかりやすい肌の色という外的要素によって自分を再現できるものに無意識の安堵を覚えるのだろう。例えばギャング的なもの。例えばラッパー的なもの。ティーンだ。高校生だ。そういう俗に言う悪いものに憧れる気持ちもわからないでもない。でも、憧れがリアルに変わるとき、彼は戻れない修羅の道を歩みだすのだ。そのリアルは半端なものではない。子供であれ、その危険な誘惑は容赦しない。
その防止のために、大人の目が届かなくなる放課後に兄弟のような存在として地域の大人の家で自分以外の家庭を見、そして危険へ誘うものから守るというものである。彼の場合は荒れた家庭環境もあり、それが必ずしも基準ではないと外の世界も見せる意味もあり、放課後ボランティアを必要としているとのことだ。少しでも役に立てればということで、私とパートナーはボランティアを引き受けることにした。ちなみにパートナーはアフリカンアメリカンだ。どちらかというとこの決断は彼の意見が強かったことは述べておこう。彼は黒人の少年がひとたび学校という守られた環境を出ると、いかに危険な誘惑が多いかということを身に持って知っている。自分の経験から一人でも多くの黒人の少年を守れればという強い願いあってのことだ。正直私は気が進まなかった。
引き受けたは良いが、正直関わり方に戸惑う。ものすごく戸惑う。親戚のティーンエイジャーでも関わり方がよくわからない。ましてや他人。ましてや荒れ気味の少年。ましてや全く異なる人種。思い出す。この年頃は大人が全て敵に見えていた。大人は何もわかっていない。年長者への尊敬よりもいかに自分が大人と対等な存在であるかを試すような行動をとっていた。一言で言えばクソ生意気であった。彼は自分の過去に侵した幼く未熟な、無知ゆえの罪を思い出させる。
正直彼は何故こんな英語も中途半端な日本人のおばさんの家に俺はいるのだ、と感じているのではないだろうか。共通の話題も乏しい。高校生といえば友達と過ごす時間が全て、話題の中心になり、イケてるグループに所属していないとスクールカーストから転落してしまう。きっと彼は友達とクールなファッションの話をしたり、流行の音楽の話をしたり、女の子とアイスクリームを買いにいったりしたいのではなかろうか。
でも、彼の場合こんな健全だと思われる友達関係ですら彼を危うい立場へ連れ去っていく可能性が高いのだ。それはそれは易々と。それは一重に彼の人生に健全な大人の存在感が脆弱であったことが要因であり、それにより健全な自制心・愛着心と危機管理能力が育まれてこなかったことが大きい。また彼が荒れ気味であるのは湧き上がる思春期特有のアドレナリンと、また複雑な家族関係から生じる心理的葛藤をどう表現すべきかというとめどなく渦巻く内面の自問自答が彼を駆り立てているのではないかと思う。強制的に私たちの家に来ることで、危険な誘惑から断ち切ることが、彼を全うな道へ誘うのにどれほど効果があるのかはわからない、というのが正直なところである。
彼は家に帰ってきても、Hiと言ったきり、あまり話そうとしない。こちらから話をふっても適当に相槌を打ち、ダルいぜ、とにかくダルいぜ、というオーラを全身から醸し出している。そりゃそうだ。野菜を作り、静かに読書をし、毎日平穏な生活を送るおばさんと、HipHopに憧れ、バイオレントでクールなものにしか興味のない黒人のティーンのどこに共通点があろうというのか。ティーンといえども、日本人のティーンのような菜食主義的な幼さはない。数々の喧嘩をしてきたリアルストリートな、少年というには貫禄が出すぎている。ひょっこりはんが家に来るのとマイク・タイソンが家に来るのとでは醸し出す空気に歴然とした差がある。圧が違う。彼は学校での出来事やスポーツの話を嫌々した後、スマホをいじりだす。そりゃそうだ。大人でもスマホを見ていたほうがおもしろいし刺激的だ。
しばらく無言の時間が続く。気まずい。私はごはんの用意をしながら乏しい話題を続ける。自分の話題の乏しさ、コミュ力の低さに自分で引く。彼はおもむろに言う。「I am so hungry」腹が減ったと。学校のランチが買えなくて何も食べてないと。私はちょっと待ってな。と言い、キッチンに立つ。
ちょうど良いアメリカ的なおやつがない。アメリカのティーンが食べるようなものがない。あるのは白ご飯のみ。日本人としてできることの選択肢は自ずと狭まる。
私は彼に2つのおにぎりを差し出した。こんなもの食べるだろうか、という疑念はぬぐいきれないが、今はこれしかない。困った時の神頼みならぬ、困った時のおにぎり頼みである。丸美屋の卵とすき焼きの2つのおにぎり。きっと彼は人生の中でおにぎりなど目にしたことも耳にしたこともないであろう。アフリカンアメリカンの親の元で育った少年はピザ・バーガー・フライドチキンなど典型的なアメリカのファストフードで育っている。平和という2文字を全身に纏い、おもむろに横たわる俵型の二つのおにぎり。それを見た彼は目をすこし細め、首を素早く少し後ろに引く。アフリカンアメリカンがよくやる、なんじゃこれは、という反応だ。こんな得体のしれないもの食えるか、という意味も含まれていただろう。
一応血のつながらない私に対して彼なりの遠慮があるのか、彼は文句を言わずにおにぎりを食べた。無言で食べる。突然彼は顔をあげて私に言う。くるりと美しく持ち上がった睫毛に縁取られた大きな瞳は黒飴のように照り輝き、彼は言う。おいしいと。こんなにおいしいものを食べたのは久しぶりだと。いつもはリアルストリートな風格の彼だが、おにぎりを頬張る彼の目は子犬のように純粋無垢に輝いていた。その時から彼との不思議な絆のようなものができた。ティーン相手にどう対応したらよいのか分からないことに変わりはないが。
この後から彼はいつもうちに来るとおにぎりが食べたいと言うようになった。ピザやチップスではなく、おにぎりが食べたいらしい。正直おにぎりがあるからうちに来ているようなものだ。でもそれで彼が守られるなら私はいくつだっておにぎりを握る。