田舎文明の純粋さは時に刃に
首都圏という言葉には単純に経済圏という意味での圏が使われいるのではなく、文化圏・文明圏という意味こそがその本来の意味なのかもしれないと思う。今日イスラーム圏の本について読んでいて、数年前に生まれ故郷に帰省したことを思い出した。結婚式に出席したのだ。実家は日本の片田舎。
いくらネットで先進的な情報が驚異的な速さで拡散されようとも、そしてその情報がネットを通じて地方にいる者にもアクセス可能になっても、そこに住む人たちは男尊女卑、長男神話、結婚と出産こそが女の幸せ、という3つの柱を信じて疑うことを知らない日本古来の価値観を美徳として脈々と受け継いでいるあまりにも純粋な人々である。その3本柱への信仰心の厚さには頭が下がる思いである。私は幼い頃からちょっとおかしな人間だったので悲しいかないくらふるさと、そして祖国日本を心から愛していようとも、一生涯そこに定住するという運命は自分の人生に組み込まれていなかったようだ。だから海外でおかしな日本人として暮らしている。もう愛するふるさとに住む人々と同じ目線で物事をみることはできない。諦めの境地である。先祖代々家系図のどこを切り取っても半径2キロメートル以内に住む人ばかりの血縁の中で私のようなものは200年前であれば村八分にあったであろう。厄介者という烙印を押されて。
結婚式に親族・近隣の知人が集う。皆それぞれに晴れの衣装に身を包み、若い二人の新たな人生の門出を祝う。結婚式は当然二人のあらたな家族としてのスタートを祝う場ではあるが、半分は同窓会の側面を持つ。酒に酔った親族は、人と人との境界線がいい意味でも悪い意味でも薄く、現在の私の生活について根ほり葉ほり質問される。子供はまだか、年収いくらや、旦那はいくら給料もろてんのや?少しの自慢も込めて。あんたのお母さんはよう大事な娘を海外みたいとこやらはったな、うちの娘はあんたみたいに出来がようないし、3人も子供うんで私ら孫の面倒で忙しいてかなんわ。もちろんこれは誉め言葉でも謙遜でも尊敬でもなんでもない。現代でいうところのマウンティングである。
同じ円卓の隣に長らくあっていない幼馴染が座る。彼女も私と似たりよったり、若くして地元をあとにした一人だ。成人してしばらく地元で働いたあと、ある日突然首都圏で就職を決めて引っ越しも決めてきた。何かから逃げ出すように。彼女は独身で中性的な見た目をしている。一般的に言う女の子らしさというものは正直あまり感じない。独身・子供がいない・中性的な見た目。この彼女は新しい話題に飢えた田舎の老いた親族には恰好の餌食である。お前いくつになってん。まだ独身か。はよ結婚せえよ。最低でも女は30までに結婚せえよ。はよ結婚して子供産むのが一番ええぞ。そんな男みたい短い頭しとったらだれももろてくれへんぞ。次は(結婚するのは)お前やな。彼氏おらんのか。彼女はこのようなやり取りを冗談でかわしていく。相手が不快であると全身からサインを出しているのに、そのサインに気づくこともできないほど神経が鈍ってしまった老男の哀れな姿をしつこく晒している。人の身体的特徴、結婚ステイタスについてなど、個人の事情について程度の差はあれ、ある程度教養のある人であれば配慮があることが当然の環境で10年以上過ごしていると、あまりの進歩のなさと無遠慮さに言葉を失う。若いころから首都圏すなわち首都の文化圏・文明圏に移住した彼女も同じように感じていたと思う。
ようやく酔った老男が席を外す。口が人を不快にするための言葉を発するためについているのだとしたら、彼は口の機能を十二分に発揮しただろう。あまりの無知さに呆れ果て、彼女に酒を注ぐ。よくあんなデリカシーのないこと言えるよな、田舎はやっぱいろんな意味ですごいな。彼女は笑っているのか困っているのか、判別の付かない顔で酒をすする。
今はいろんな生き方があるし、型にはまる必要なんてないと思う。私は。
彼女は黙る。沈黙が続く。よほど親戚の言葉が癪に障ったのだろうか。それとも私も輪をかけたのだろうか。
だから、地元出たんや。息苦しくて。地元に帰ってくるといつもこれ。居場所ないねん。罪悪感もある。
分かるで。でも罪悪感なんて持つ必要ない。あんたはあんたの人生を生きてるんやから。
酒の入ったグラスを見つめている。ほんまおっさん鬱陶しいわあ、とすぐに返ってくると思っていた。酒を飲むでもなく、グラスを持ち上げるでもなく、ただグラスを握りしめ一点を見つめている。
あのさ。お姉ちゃんにしか言えへんけどさ。
そういうことやねん。もうわかってくれるひとおらんねん。海外にいるお姉ちゃんならわかってくれると思う。だから今回ぜったい会いたいと思った。
私は彼女が独身でいることについて言っていると思った。
しかしその目を見ると一筋の涙が伝って落ちた。一瞬時が止まる。お祝いの宴会の最中に心臓が絞られる。その短い言葉にすべてが凝縮されている。
自分を貫きな。人と違うことするのは簡単じゃないし、苦しい。でも神様はあんたをそういう風に作らはったんや。その苦しさを扱える強さも授けてくれてはる。後悔する人生だけは送ったらあかん。
咄嗟に言えることを一気に吐き出した。それは本当に伝えたいことではあったけれど、器の小さい自分がうろたえているのを隠すかのように吐き出したのが事実だ。
もう一つ涙が伝った。もう彼女の目を見られない。左側の完璧な日本庭園に目をやる。自分までも涙があふれてくる。私が泣いてどうする。でも涙が止まらない。彼女の今までの思いを思うと。彼女の今までの苦しみを思うと。彼女の今までの孤独を思うと。彼女は単純に就職して首都圏に行ったのではない。自分という人間が本当の自分になれる場所を求めて故郷を去ったのだ。自分という人間が本当の自分を表したら、きっと家族に迷惑がかかるという真面目すぎる責任感を持って。理解してくれる人などいるとは期待できない田舎の文化文明圏の価値観に押しつぶされそうになりながら。彼女が彼女自身であることを受け入れてくれる環境を求めて。受け入れてくれる人を求めて。抗いようのない心の叫びが遠くへ行けと叫ぶのだ。田舎の親戚・友達がなんと言おうと、その叫びこそが彼女を運命の道へと運んでいったのだ。
純粋さは時に暴力になるとは言ったものである。田舎に住む想像力に乏しい者が純粋無垢に信じきっている価値観やアドバイスは時に人を追い詰めていることがある。この時代で言えば、時に、ではなく、頻繁に。田舎は排他的とはいうが、物理的によそ者を排除することに限らず、自分たちの価値観そして想像力の範囲に収まらない者は排除と嫌悪の対象とし、変質・異質なものとして受け入れることを心理的に拒否する面も含めて排他的なのである。そして純粋無垢で幸福な田舎の無知はともすると物事の繊細さ、事柄の奥深さを理解する能力と想像力を持ち合わせておらず、若い感性の涙が伝うような感情の機微を、新しい話題に飢えた退屈な中年の噂と下品な嘲笑の対象にまで引きずり降ろしてしまう危険性すらはらんでいるのだ。この純粋無垢で自分たちが信じる価値こそが真の善良なりとと信じて疑うことを知らない人たちに追い詰められていった多くの人たちが心の安住の地を見つけていることを強く願った。
このことから数年が経っている。世界は大きく様変わりしているけれど、この強固な田舎文化圏は脈々と伝統と言う名のもとに受け継がれた価値観を今も大切にしていることだろう。