【楽曲語り】Finally「トーキョー・ナイト・イミテーション」〜化け猫と真似事〜
横山直弘という人は、本当にとんでもない作家です。
これほどまでに鋭く、甘く、残酷に、それでいて優しく。
しかも、直接的な単語を一切使わずに。
そのようにして「アイドル」の幻像を描き出した彼の手腕には、ただただ拍手しかありません。
こんにちは!灰色です。
今回の記事は久々に楽曲語り!
Finallyの新曲、「トーキョー・ナイト・イミテーション」(以下、「トーナイ」)について、いつもの超自分解釈をやっていきます。
(※「新曲」と書いたのは7月下旬のことで、この注釈を書いている現在は12月に差し掛かりつつあります。足掛け半年近くも同じ記事に悪戦苦闘しているという醜態ですが、悪しからずご了承ください)
いつもの長い前置きはやめて、早速まいりましょう。
あのウルトラアンセム「Rock’n’ roll shooter」に続き、ロックバンド「感覚ピエロ」のVo.&Gt.・横山直弘氏がフルプロデュースしたこちらの楽曲。
これまでのFinally楽曲ではMegが歌割りを担当していましたが、なんと今回はそちらも横山氏が手掛けており、メンバーたちの魅力とポテンシャルを存分に引き出すことに成功しています。
今回、私が「トーナイ」を取り上げた最大の理由。
それは、この楽曲が他に類を見ないほど鮮やかに「アイドルとファン(オタク)」の関係性を歌ったものだと感じたからです。
この切れ味たるや、横山氏にぜひ一度アイドルグループをプロデュースしてほしいと思うほど。「トーナイ」ほど的確にアイドルという存在の本質を突いた作品は、メジャーグループにもそうそう存在しないのではないでしょうか。
ここではあえて、「本質」という言葉を用いました。
では、アイドルの「本質」とはいったい何か?
広く知られているのはその語源通り、「偶像」という言葉でしょう。
憧れを集め、活力を与える、理想的な偶像。
「ヒーロー(ヒロイン)」としてのアイドルを表した言葉とも言えます。
これは確かに的を得た表現ですが、しかし私の考えでは、あくまで存在の一側面を表しているに過ぎません。
アイドルが持つ、もう一つの側面。
それは「イミテーション」=「真似事」です。
念のために言及しておくと、これは決して彼女ら(彼ら)のパフォーマンスを卑下する言葉ではありません。
アイドルにおける「真似事」。
これを語るには、アイドルを推す・応援するファンとの関係性にフォーカスしていくことが必要になってきます。
本題を掘り下げる前に、一度Finallyの楽曲における「トーナイ」の位置づけを整理しましょう。
昨年10月から今年3月(実質4月)まで展開された、実力派ロックアーティスト陣からのプロデュース作品群を中心とした空前絶後の「5ヶ月連続新曲リリース」企画。
3/26のバンド編成ワンマンへ向けたプロジェクトでありながら、実際には「燈-tou」のサプライズ発表によって半年連続リリースになったこちらですが、その楽曲たちを時系列順に並べた上で分類すると以下のようになります。
1.「Rock’n’ roll shooter(「ロッケン」)」
2.「WINNERS」
3.「走れ」
4.「Love me for who I am(「ラブミー」)」
5.「ファイター」
6.「燈-tou」
私の観点では、これらは二つのグループに分類できます。
まずは「WINNERS」「走れ」「ファイター」「燈」。
このグループは、いわば「ヒーロー系」。
ヒーロー系最大の特徴は、熱くストレートなメッセージ性です。
グループ自身を主役に据えて、一人称視点からその精神性や確固たる意志、理想へ向かう情熱といった要素を織り込んでいます。
壮大で勇ましい歌詞とメロディ、それにパワフルな歌唱法も特徴でしょう。
こちらは、ロックアイドルであるFinallyが従来から得意としてきたスタイルでもあります。
例を挙げればキリがありませんが、以下がその代表的なパートです。
「走れ」については、手前味噌ですが過去に以下の記事でも語っておりますので、興味のある方は併せてご覧ください。
では、残された「ロッケン」「ラブミー」はというと。
これらはいわば、「アイドル系」です。
「アイドル系」では、夢や覚悟といったFinally特有の熱いリリックは出てきません。
その代わりに、楽曲の世界には「君」と「あなた」を中心に据えており、鮮烈でときに官能的な表現がダンスとの相乗効果で披露されます。
代表的な歌詞は以下。
「ロッケン」「ラブミー」とも、過去に語りをやっておりますので、こちらも僭越ながら以下にてご紹介いたします。
「ヒーロー系」と、「アイドル系」。
もうお分かりでしょう。
この2グループのうち、「トーナイ」が入るのはもちろん「アイドル系」です。
アイドルという存在を語るとき、古典的ながらも欠かすことのできないキーワードの一つに「疑似恋愛」というものがあります。
特に「会いに行けるアイドル」を謳ったAKBグループの隆盛によって握手会やトーク会などのいわゆる「接触イベント」が一般化した現代において、ファンによる受容……誤解を恐れずに言えばコンテンツ消費の形態として、「疑似恋愛」という側面は存在感を増してきました。
そしてこの要素は、規模の小ささと活動頻度の高さから「接触」の重要性が大きいインディーズ(地下)アイドルにおいては、はるかに大きくなります。
メンバーとチェキを撮ったり直接お話ができる「特典会」が接触イベントの最たる例なのは、言うまでもありません。
「疑似恋愛」をさらに分解すると、その構成要素として以下のようなパーツが見えてきます。
楽曲は主にラブソング。特に、射程範囲を小さくして「ボクとキミ」の世界を設定して語りかけるもの。場合によっては更に具体的に、「アイドルのボク」と「ファン(オタク)のキミ」にフォーカスし、業界用語を用いることで親近感を持たせることもある。
LIVEパフォーマンスの際に、指差しや視線を個別のファンに投げかけるといった「レス」。
(主に特典会における)トークなどの交流。特に、リピーターへのいわゆる「認知」を伴うもの。SNSでのリプ返などもここに含まれるかも。
主にこうしたアプローチを用いて、アイドルはその磨き抜いた魅力によりファンとの間に「疑似恋愛」を演出します。
抗いがたいその魔力の前に、ときには「ガチ恋」と揶揄されるほどにファンをヒートアップさせることもある「疑似恋愛」ですが、多くのアイドルがこれを大なり小なりアピール手段に使い、活動拡大の燃料にしていることには、賛否はどうあれひとまず納得いただけるのではないでしょうか。
恋愛という表現では非常識に感じてしまうかもしれませんが、キュートな声で歌われる甘いリリックにときめく、愛くるしい笑顔にメロメロになる、名前と顔を覚えてくれていて嬉しい、自分の話で笑ってくれて楽しい……そういった経験は、LIVEに通うファンなら誰しも覚えがあるものでしょう。
あえて本稿においては、性別や度合いといった個人差を問わず、そうした要素をまとめて「疑似恋愛」と呼ぶこととします。
そして言うまでもなく疑似恋愛とは、読んで字の如く。
「恋愛」の「真似事」に他なりません。
これが、アイドルの側面に「真似事」を挙げた理由です。
「君のことだけが大好き」と言われても、アイドルから告白されたと受け取る人は(基本的に)いません。
「キスをして」「めちゃくちゃにして」なんてリリックも同様です。
ですが、そんな当たり前の常識をひととき忘れた先にこそ強烈な刺激が待っていることも、また事実です。
真剣に、なりふり構わず感情移入をしたとき、「真似事」はいっそう熱を帯びます。
これはアイドルに限ったことではなく、演技の世界などでも同様でしょう。
本当に恋人を失ったように悲しみ、本当に殺し合うように剣を振るうからこそ、その表現は真偽というレベルを超えて多くの人の胸を打つのです。
同様に、疑似恋愛という「真似事」をヒートアップさせるもの。
それは言ってしまえば、「勘違い」です。
推しは、自分のことを思い浮かべながらこのパートを歌っているのかもしれない。
レスをくれたときのとびっきりの笑顔は、自分への愛情の表れかもしれない。
もちろん、一歩間違えれば非常に危険な受け取り方ですが、そんなことは絶対に有り得ないことを大前提に置いた上で、ライブハウスという限られた空間で、限られた時間のあいだだけ、半ば意識的に享受する「勘違い」の悦び。
それもまた、アイドルを愛でるファンの心を高揚させ、もう一度もう一度と彼女たちのもとへ足を運ばせる中毒の源なのです。
「トーナイ」は、そんな「真似事」に観客を誘い、勘違いを引き起こすアイドルのことを「猫」、それも妖怪の「化け猫」にたとえて表現します。
「化け猫」となったFinallyの誘惑たるや凄まじく、これまでの2年間では影も形もなかったワードが、蠱惑的な歌と舞を伴って次々と飛び出します。
元来、猫という動物は、人間に勘違いをさせることに恐ろしく長けた生き物です。
こんなにすり寄ってきて、この子は自分に懐いているのかもしれない。
そばでゴロゴロくつろいでみせるのは、心を開いてくれているからかもしれない。
自由と気まぐれの象徴とされる猫は、しかしそのように都合のいい勘違いを誘うことで、いっそう人間からの寵愛を集めます。
「化け猫」もそのような、人を惑わし翻弄するイメージと結びつく怪異。
まさに、「妖艶」という言葉が最適ですね。
では、Finallyは「化け猫」として、どんな言葉をささやいてくるのでしょうか。
ここからは各パートの歌詞と、その解釈を並べていきます。
アイドルとして生きることは、苦しみの連続に涙を流すばかり。
他に誰もいらない、あなたとだけ気持ちを通い合わせられたら、それだけでいいのに……
そんなことを思ってみても、しょせん猫は猫。アイドルはアイドル。そのようにしか生きられません。
憂いを隠したまま、「あたし」は今夜もネオンの灯るライブハウスへと、ファンを誘いながら消えていきます。
今日もすべていつも通り。
目線を合わせたら、もう逃さない。
ご新規様のあなたも、あざとくセクシーに釣って捕まえて、すぐに虜にしてあげる。
「見つめ合えば離さない」から連想するのは、絶世の美女からの視線と、目をハートにしてそれに容易く射抜かれてしまう観客の姿でしょうか。
一切謝る気のない「ごめんなさいね」にも、小悪魔的な確信犯(本来の意味とは違いますが省略)の香りが漂っています。
あたしを推してくれるなら、ちゃんとそう言って。
一度捕まえたファンのことは、ちゃんと意思表示させて後に退けなくなるまで、決して逃しません。
「かわいいフリして無敵」も、まさにパワー系ロックアイドルのFinallyにピッタリな表現でしょう。
ここでは仮に、キス=全力で愛することのたとえとでもしてみることにします。
「トーキョー・ナイト・イミテーション」。
それは、LIVEの開催される一夜だけの、アイドルとファンの両者による「真似事」です。
時間が終われば、化け猫はもとの姿に戻り、群衆に紛れて何処かへ消えてしまいます。
けれど、どうやら化け猫は再会を期待してもいるようです。
まだまだ、あなたの心を奪ってめちゃくちゃにしたい。
また会えたら、もっとかき乱して、夢中にしてあげる。
そんな鳴き声が、聞こえた気がします。
「何度でも」という言葉の通り、2番では再会を果たした「化け猫」がいっそう甘く、激しく愛を求めるさまが歌われています。
しかし、続くこのパートだけは様子が違いました。
「散らばった嘘の星」が指すものも、これまた色々と考えられます。
アイドルとしての「あたし」がこれまで振りまいてきた真似事の愛情のかけら、そしてそれを受け取ってくれたファンたちの存在でしょうか。
あるいは、フロアのそこかしこに灯っている、自分を推してくれているファンの持つペンライト(サイリウム)の光かもしれません。
その眩しさに、思わず「あたし」のアイドルの仮面も壊れかけてしまいます。
化け猫の変わり身をいますぐ解いて、本気で愛してくれている誰かのところへ飛び込みたい。
決して許されない欲求が首をもたげてきます。
(2番サビは省略)
「残念無念でまたいつか」をアイドルに当てはめるならば、アピールした観客をしっかり魅了して引き込めなくて残念……というところでしょうか。
「さよなら あたし 捨て猫よ?」という捨て台詞はいじらしく、さも未練ありげですが、これも化け猫の言葉。その本心は分かりません。
やわらかい平仮名ばかりで、キュートさ全開のこのパート。
猫撫で声を奏でては人間を惑わし蕩けさせる化け猫ですが、しかしいつしか主語である彼女自身も「迷い込んだ」ことに気づきます。
人間はいつだって、猫の一挙一動を自分勝手に解釈します。
元気に遊ぼうとするときにはまるでつれないのに、心が弱っているときに限って寄り添ってくれる様が、まるで優しさのように感じられたり。
人間に気を許さない自由さの中にも、まるでこちらの胸のうちをお見通しでいるような素振りは、猫をより特別な生き物のように演出します。
もちろん、全ては人間の勝手で都合のいい解釈です。
それでも、猫が悲しみを和らげてくれることで人の心が救われるという事実は変わりません。
こちら側の事情を何も知らず、自由奔放に振る舞っているのに、今の自分の気持ちに寄り添っているように感じる。
「弱くていいよ」と、存在を全肯定してくれているように感じる。
そんな猫と飼い主のあり方は、アイドルとファンのそれにも似ています。
しかし、このように解釈すると、続く「着飾った姿のあたしでいいもの」という歌詞がやや奇妙でもあります。
「ラブミー」での「ありのままの私を愛して」というメッセージとは真逆のこの言葉。
「着飾った姿のあたし」とはすなわち、夜の間だけ人間からアイドルに変身する、化け猫としての自分のことでしょう。
もしかしたら、「弱くていいよ 泣いてもいいよ」とは、そんな自分自身に語りかけている言葉かもしれません。
無敵に見せかけても、常に不敵に振る舞っていても、その裏で変わらない弱い自分。
思いが通じず、夜ごとに涙を流す自分。
でも、そんなことは化け猫の生き方には関係がないのです。
煌びやかに着飾って、ステージの上に立ちさえすれば、弱さも嘘も覆い隠されるのですから。
可愛らしく強調される「愛が足りないや」も、果たして本当のところは分かりません。語り手は全て、あやかしの化け猫なのです。
そしてまた、このパートには聴き手の心をちくりと刺して抜けないトゲが仕込まれています。
そのトゲとは、Aoiの声です。
横山氏自らが、他の5人とは一線を画すとして……というより、アオイ本人にインタビューした内容をそのまま書いてしまえば、「一人だけ、反吐が出るような女の声じゃない」と評されたらしい、彼女の声質。(横山さんごめんなさい、伏してお詫びします)
ピュアというより、純朴。
不器用を通り越して、ひたすらに無垢。
そんなAoiが泣きわめくように歌うからこそ、今一度「化け猫」のトリックは力を発揮するのです。
先ほど「ごめんなさいね」で一発かましてくれたMegでは、ちょっとこうはいかなかったでしょう。Megごめんね。
「あたしは絶対素敵」。
これもまるで、自分に言い聞かせているような。
「かわいいフリして無敵」と謳っていた一番とは、やはり少し様子が違うようにも思えます。
嘘がほつれはじめているのか、それとも化け猫の妖術が解けつつあるのか。
だからこそ、「今夜だけでいい」と、苦しいほどに刹那を強調するのでしょうか。
あなたのことを、むちゃくちゃにする、化け猫。
出会ったときは、そのはずでした。
それが、今や逆転しています。
「あたし化け猫よ?」と正体を明かしていながら、なおも「あたしのことを」と誘う言葉。
彼女の望みは、果たして順逆いずれなのでしょうか。
愛してくれる人間にめちゃくちゃにされて、ぐらぐら揺れて壊れて、弱い自分も剥き出しにして。そうして共に夜を越えて逃避行へと向かいたいという、愛に絆された捨て猫の哀願?
それとも、ここに来て尚も「あたしをむちゃくちゃにできるのは、あなただけ」と甘美なる蠱惑を仕掛けて、愛を餌に「勘違いオタク」を手玉に取ったら最後にはまた霧消する、そんな化け猫の妖夢?
猫は猫。
どれだけ親しくなった気でいようと、われわれはたかが人間風情。
気高い猫の本心を、図れようはずもありません。
そしてまた、どこまで親しくなった気でいようとも、ステージの上と下も同じことなのでしょう。
魅せるアイドルと、魅せられるファン。
化かす猫と、化かされる人間。
どこまで行こうと、こちらは遊ばれる側。
できることはただ、あちら側の美しさに見惚れながら、身勝手な勘違いを繰り返しては右往左往することだけなのです。
それを承知の上で、今ある陶酔のひとときを楽しむ、約束事の細い糸で繋がれた関係。
一夜限りの、愛の真似事。
軽妙洒脱に、スマートかつセクシーに、けれど痛々しいほどに生々しく。
3年目を迎えたFinallyが描いたのは、言葉を綴れば綴るほど、アイドルとファンの関係そのものに酷似していく戯画でした。
お洒落で刺激的な装飾をまといつつ、公然のタブーへと踏み込むこの鋭さは、アイドルサイドの発想からは生まれ得ないもののように思えます。
「トーナイ」もまた、バンドプロデュース×グループのポテンシャルというFinallyのスタイルだからこそ生まれた化学反応の産物であることは、間違いがないでしょう。
いえ、あるいは。
あるいはこうして、熱に浮かされたオタクが知ったような考察を繰り広げることもまた、Finallyという大妖のてのひらの上なのかもしれません。
自分だけは作り手の真意を、物語の構造核を理解している…………
これまた大層おめでたい「勘違い」。
こんなものは、批評家の「真似事」に過ぎません。
全くもって、勘違いに遊び真似事に酔うことの、なんと甘美で幸福なことでしょうか。
猫たちの術中からまんまと抜け出せなくなっていたのは、どうやら私の方だったようです。
5ヶ月かけてもどうしても上手くまとめられなかったので観念しました!ここまでにします!
今回もド長文をお読みいただき、ありがとうございました!
それでは皆様、12/10日曜日のワンマンライブでお会いしましょう!!