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「終わり」

以前プレイしていて、最近はもうやらなくなってしまったソーシャルゲームがある。
そのゲームは未だに根強い人気があるけれど、僕は飽き性なので再び火が灯りそうな予感もなく、でもそのコンテンツ周りの話題やアートはなんとはなしに観測していた。
そんな中、僕が最も熱を上げてコンテンツを追っていたときに素晴らしい作品を作っていらっしゃった、ある作家さんのことを思い出した。
その方の作品と出会ったのは何年前だったかもう定かではない。だが、登場人物の心の細部まで描写する、繊細な作品を作られる方だということは強く心に残っていた。
表面上だけを掠めて語るのは憎むべきことだが、僕から見たその方はかなり活動に精力的な方で、イラストを描かれる他にも、オリジナル作品を手掛けていたり、YouTubeでゲームのライブ配信をしたり、かと思えばエアロバイクを漕ぐ配信をしたりと、様々なことに触手を伸ばしていて、その活力には見習うべきところが多くあった。

なぜこんな突拍子もないことを語りだしたかというと、先日その方のイラスト投稿サイトのアカウントがふと目に入り、(最近はどのような作品を作られているのだろう)と活動を確認してみたところ、なんと作品が全て消去されていたのだ。
翻ってSNSを確認してみたところ、どうやらそちらのアカウントも削除されているらしい。
僕は何度か好きだった作家さんが急逝されるという事態を目にしているため、心配になり背景を少しばかり探った。
すると、どうやら体調等に問題があったわけではないらしいということが薄ぼんやりと判明し、ほっと胸をなでおろした。
では何故と疑問に思ったのだが、それ以上詳しい事情は分からず、またあまり深入りしすぎるのも躊躇われて、まあ生きていらっしゃるのであればいいだろう、と自分を納得させることにした。

さて、ここからが本題になるのだが、このような喪失を経験するたびに思うことがある。
もっと好きだとか、あなたを応援していると伝えればよかった、と。
何度も言及している通り、僕は基本的に人間嫌いで、他人の事情だとか感情にあまり関心が持てない。だからこそ、自分の感情を揺れ動かすような、そんな素晴らしい作品やコンテンツと出会えた時には人一倍入れ込む。
でも、それを直に伝えるにはなんだか照れ臭く、そして人の事がよくわからない自分が伝える言葉などには価値も意味もなく、それを伝えられたとて迷惑にすぎないのでは、という思考から感想などはあまり発信しない。
それに、もはやコンテンツが消費される社会となり、クリエイターと消費者の距離感があまりにも近くなってしまった昨今では、言葉を伝える方法はより簡単になり、そしてその分重みも奪われてしまったと感じる。
妄信的な返信、既読感覚の「いいね!」、とりあえずのスキ!。どれもこれも僕が嫌いで、共感しがたく、その一部には決してなるまいと思っている事例だ。
けれども、それに反目しているからといってクリエイターに何を伝えないというのも、最近では無礼というか、もったいないというか、なんだか大切なことを忘れているような気分にもなるのだ。
前述したように、もはやコンテンツは氾濫し、情報量は荒波のようになり、ある人にとっての宝だろうがなんだろうが、問答無用で押し流していく。
母数が増えるからこそ、その一つ一つに向けられる目は少なくなり、代わりに批判的な、声の大きな連中の言葉ばかりが目立つようになっていく。
その中で、ちっぽけな自我を保つために沈黙を守ることのなんと愚かしいことか。

「門松は冥土の旅の一里塚」という言葉がある。
人は誕生日を祝うが、節目を祝うというのはそれすなわち、また一歩死に近づいたということを祝うのと同義ではないか。
僕はそんなことを考えているから、あまり積極的に人の誕生日を祝わないし、そも生まれてきたことが祝福であるとも思わないから、祝われたいとも思わない。
それでも、自分にとって大切なものだったり、記念だったり、そういったもののために声を上げることは至極真っ当なことであり、むしろ自分を自分足らしめる証左とすらなるのではないかと、最近は少しばかり考えもする。
この世は諸行無常。形あるものはいずれ崩れ、生物は死に、万物は塵芥となる。
どれだけ好きでも、どれだけ応援しても、いつか何事にも終わりは来るものだ。
だとしたならば、誰かが懸命に作り上げたその一瞬を応援することに、間違いなどあろうはずもない。
なんだか、少しばかり返信ボタンを押す指が、投稿ボタンにかかる重圧が、軽くなったような気がする。
きっと気がするだけではあるんだろうけど。

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