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音楽と僕

僕は音楽が好きだ。
聴くのもそうだし、演奏するのも好きだ。
身体に取り入れているジャンルも幅広い。メインはジャズ、ロック、メタルだけど、ポップやカントリー、クラシック、エレクトロニックなども聴く。
そのため、CDを買っていると破産しかねないという事情からずっと何かしらの定額の音楽ストリーミングサービスのお世話になっている。
奏でる側としては、幼少期よりピアノ、部活でサックス、独学でエレキギターを弾いている。ピアノは一応、有級者でもある。
それに、これは数少ない僕の自慢なのだけど、中学生の頃から音楽の評定で最高評価以外を得たことがなく、声楽や鑑賞でもそこそこ覚えがある。まあ正直、今になって思うと芸術分野で評定をつけるなんてナンセンスで、それぞれの感じたことがそのまま正解であるとは思うんだけれど。

では、僕は音楽で食っていく道を選んだかというと、そうはしなかった。
文として書き出したり、少し振り返ってみると僕は音楽から多大すぎる影響を受けていると改めて実感するけれど、何故かそれを商売道具にしようとは思わなかったみたいだ。
"好きこそものの上手なれ"とも言うし、実績等を踏まえて考えると音楽で食べていける可能性は十二分にあったように思う(あまりにも軽々すぎる、とも思うけれど)。
でも、そうはしなかった。幼いころからずっと一緒にいた音楽よりも、デザインの道を選んだ。
何故だろう?と自分に問いかけても、なかなか明確な答えは返ってこない。
単純にその方面に興味がなかっただけかもしれないし、深層心理で"好きなことを仕事にすると、嫌いになってしまう"ということを理解していたのかもしれない。
事実、僕は未だにデザインが好きではあるものの、なんの責任も負わず創作していたあの頃に比べると、全てを手放しで肯定することはできなくなっている。

でも、時々考える。
もし、音楽で自分を表現する道を選んでいたらどうなっていただろう?と。
芸術とは、それすなわち自分の精神世界の一部を切り取り、他人にもわかりやすい形に再構築して発表するものだ(と個人的には思っている)。
もちろん、商業でやっていくならそこに様々な枷がかけられるだろうけど。
とはいえ、基本的には自分の思考とか、価値観や世界観を凝縮して、メロディーや歌詞として出力することには違わない。
もしも僕がその立場にあるとしたら、出てくるのは絶望や厭世、不信や猜疑などなど、世が世なら発禁処分を受けそうな表現ばかりかもしれない。
そう思うと、音楽をそんな感情で汚さなくてよかったと思うし、同時に、そうやって心を形にできたらどれだけよかったかとも思う。

どうして急にこんなことを書こうと思ったかというと、SNSで"昔はなんとも思わなかった歌詞が、今になって自分と重なって感情的になる"という言葉を目にしたからだ。
それを見て、自分にもあてはめてみたところ、思いついたものがあった。
昔よく聴いていたバンドの歌詞に、こんなものがある。
"仲間を信用できない 仲間を大切にできない そこには死んでく以上の孤独があるらしい"
先に書いた通り、もはや不信は僕を構成する一要素になりつつある。
それは自分に対しても同様で、人を信用できない自分なんて信用できるはずもなく、もはや信用できないことを信用しているという体たらくだ。
それでも、このままだと生きづらさは増す一方だと自覚しているし、好奇心が旺盛ではあるので、人を信用してみたいし、なんなら信頼してみたいと思いすらする。
音楽は多くを教えてくれたし、ずっと僕に寄り添ってくれた。
そして、その元を辿ればそれを生み出しているのもまた人なのだ。
であれば、人間というのも捨てたものではないのかもしれない、と少し思う。
いつか、僕にとっての音楽のような人と出会えることを願う。


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