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#000 番外編            突然に下半身不随宣告された息子。すところどっこい疾風記〜息子とともに駆け抜けた23年間の記憶〜


覚え書き その1

初マガジンで文法ミスなど校正もほどほどに勢いでキーボードを叩いた。
一息もつかずに5本を書き終えたところで
シンが最期を過ごしたホスピスで、スタッフの皆さんにシンの人柄や病歴が共有できるようにと提出を求められたアンケート用紙が、本棚を整理していたら書類をまとめているファイルボックスから出てきた。

これを転載するとともに、今までボクらがやったこと、思ったことを当時の日記や手帳から抜き出し並べていくことにする。当時の記憶なので現在の思いとは違うところも多々あるが、かまわずに進めていきます。


世の中でたった一人の方でも、このnoteを見つけていただき
何か少しでも参考になれば嬉しく思います。
記憶が曖昧なので思い出したら随時更新いたします。


「その人らしさを知る人生のストーリー 」より転記

●早産でした。この世に生を受けた瞬間からNICUへ。抱っこもできませんでした。母乳やミルクをほとんど飲んでくれませんでした。

一回につき5ccほど…。

これは長く続き、本当に参りました。また、入院中に身体の数カ所にカフェオレ斑が認められ、レックリングハウゼン病の疑いとの診断。聞き慣れない病名に夫婦で戸惑い、また、それ以外にも黄疸や交換輸血など一ヶ月ほどの入院中に様々な事態が起き、心配が続きました。今思えば
「ICUで生まれ、ICUから旅立つ。」
こんな悲しい運命になるとは想像もしませんでした。


その後、お豆さんのような小さな身体でしたが、少しずつ成長。しかし「川崎病」「熱性痙攣」「救急搬送2回」。また、発達障害検査の結果、「軽い発達障害」「LD」と判断。乳幼児期にミルクが飲めないことでの栄養不足からの可能性と告げられました。それでも彼なりにすくすく育ち、3歳上のお兄ちゃんと穏やかに遊ぶようになりました。


年賀状も毎年、家族総動員で命がけ

幼稚園ではいつまでも砂場でひとり遊びをしたり、帰り道では、田んぼの中にある畦道を行ったり来たり。

畦道が見渡せる丘の上から迎えがてら様子を伺っていると、しゃがみ込んで田んぼを覗いたり、じーっと一点を見つめたり…。よく見ると口元が動いています。
誰かと会話しているように独り言を永遠と話しているのです。


毎年恒例の川でガサガサ
前歯なくともフォトジェニック

これは大人になって意識して大分減りましたが、今も続いています。
ボクらはこれをこの時期によく現れるイマジナリーフレンドと心の中で会話している。とよく話しています。とにかく想像力も豊かで、自分の世界観を強くもつ人物に育っていきました。

小学校入学時より「特別支援学級」へ通級。毎日学校へ行くことをグズり、教室までお兄ちゃんが連れて行くように。初めての場所や、初めての経験にはとても緊張し、周囲をよく観察して自分の居場所を探しますが、家の中では王様でした。
人一倍、感受性が強く、目から入る情報を取り入れることが苦手(視神経の伝達が遅い)な代わりに耳からの情報は、敏感にとらえ、常に周りの状況をよく掴み、声のみで相手の感情まで読み取っていたように感じています。
学校生活はその後もいわゆるイジメはありませんでした。ただ周囲の同級生もどう接していいかわからず、ほんの一部の子供を除き、空気のような存在だったと思います。今思えば、学校へ行くことが面白くなかったのは当然でした。
それでも中学校で一人、支援学校で一人と合わせて二人の親友もできました。
彼らは「相棒」とシンのことを呼び、未だに誕生日や命日にはお線香を上げにケーキなどを持参して我が家に遊びに来てくれます。彼らの成長を見るたびにシンが一緒にいたらどんなに楽しかっただろうと心の底から思います。  


シンが旅立ってから一人の子は、
「シンがまだ生きているような気がする。」
「今でもたまに夢で逢います。」
といってくれます。ボクたちはもっと彼等と逢いたいけれども、
そのたびに悲しい思いをしたり、緊張させることも申し訳なく思っているので、タイミングは彼等におまかせしています。


またシンの想像力ですが、頭の中では様々な物語が進行中でした。

幼い頃より戦隊ヒーローと仮面ライダーが大好きで…。これはテレビを観るだけにとどまらず、成人してからは物語の背景や設定、中の人の情報も収集。
自分なりのオリジナルストーリーを手帳にびっしり書いたり。

毎年オリックス劇場で行われるヒーローショーには、父と二人で最近まで通いました。リュックの中には常に詳細を書き記した手帳と変身アイテムを忍ばせ、静かに全集中。

話しかけるとよく怒られました。

また、レゴを作ることも大好きで、一度マニュアル通りに造った後は、オリジナルにアレンジして楽しんでいました。今では、部屋に大きな飾り棚があり、これまでの作品やフィギュアであふれています。


小学校低学年から高校までは定期的にレックリングハウゼン病の経過観察のため通院していましたが、身体の変化に関しては日々の成長と親のはかない願望から余り強く意識していませんでした。身体にできたカフェオレ斑もこの頃には身体全体を細かい腫瘍(良性)に覆われることになります。

本人は生まれてから発症している難病に対しては、余り深く考えないようにしているようでした。心ない同級生から身体のデコボコについて聞かれても
「そうゆう病気やねん。」
で済ましていました。


中学生になると、学校へ行くのががイヤだと暴れるようになり、これで登校拒否になったら大変とばかりに、ボクらは大声を出して叱り、無理矢理学校へ連れて行きました。校門の前で30分ほど一悶着し、最期は悲しそうな目でボクを睨みつけ、肩を落として校舎に吸い込まれていきました。その悲しそうな顔は今でも忘れられません。

怒りと諦めの入り交じったシンの気持ちを理解してあげられなかったと今では考えますが、その時は理由も無く通学を強要していたと思います。

毎朝、大声で叱っていたある朝。

玄関のチャイムが鳴り出てみると、生徒指導の、伝説も残るほど怖いといわれる先生が立っていました。ドアを開けると満面の笑顔でボクの横をするりと横切り、シンの座るリビングのソファに直行。シンの横で目をじっと見つめ穏やかな口調で
「シン、学校な。来たなったらおいで。自分で行きたなったらでええで。
しばらくノンビリし。」

そのあと、ボクらを呼び寄せ
「学校なんか面白くないんやったら、いかんでええねん。
何も言わず様子みてみ。自分できめよるわ。
お父さんら思い詰めすぎや。大丈夫、中学校は義務教育やからちょっとぐらい休みが続いても退学にもならんし。」

「じゃシン、また学校でな!」
と去って行きました。

今思えば、毎朝続く大声に近所から学校へ通報があったのかもしれません。
まだ手を出していないボクたちを気配で察し、いまならまだ間に合うとばかりに駆けつけてくれたのでしょう。

先生の言葉にボクたちは憑きものがとれたように脱力し、戦意消沈しました。

それから3日後、すました顔で制服に袖を通すシンがいました。

親に頼らず、自分で難題を解決したのでしょう。
シンの目の前には、情けない出来損ないの父親がそこにはいました。


耳から入る情報は成人してからも人より多くをインプットし、長く記憶します。その時の匂いや映像を頭の中の引き出しにしまい、検索してすぐにアウトプットできるようです。また、気配だけで人の動きを把握し、下半身麻痺となってからは、ベッドのある部屋から移動もできず過ごしていましたが、目で見える範囲が狭いにもかかわらず、家族がどこにいるかを気配で察し、離れた場所で会話するまでも、戻ってきた時の時の表情から大体をつかみ取っていたようです。

生まれてから我が家のムードメイカーです。喜怒哀楽が激しく、口の悪い内弁慶ですが、とても家族思いの強い息子です。

外でも内弁慶を発動して愛想のあまりよくないタイプですが、人好きなタイプで、ボソボソと照れながら話すシンを身近に感じ、関わっていただいた人たちもしばらく関わっていると、彼の仕草や感情表現を見ていく内に、いつしか自然と親しみを込めて「しんくん」「シンちゃん」と声をかけてくれます。23歳の現在でもそれは変わりません。

下半身が不自由になってからお世話になっている訪問看護の代表をされている看護師さんも時には厳しく接していますが、
「シンちゃんは不思議な存在。愛想も悪いのになんか気になる。患者さんっていうより息子に近い感じ。長い看護生活の中でもとっても印象に残る。腫瘍ができて、悪化して重粒子治療まで受けて死の淵から何度も生還したのって…ほんま奇跡の子や。それやのに自分のことよりもお父さんとお母さんのことをいつも気にしてるし。背中にできた褥瘡は私達が絶対に治すってスタッフとも話してるんです。」

この2年ほどは大学病院に3ヶ月、脊髄横にある腫瘍を退治するため重粒子治療で兵庫県の病院に1ヶ月、それと引き換えに起きた下半身付随という宿命を抱えたまま大学病院に戻り療養に2ヶ月、急性期が過ぎたとして転院…と一度自宅に戻れるまで半年の入院。その間、どこの看護師さんからも、こちらからは伝えていないのに、いつの間にか
「シンくん!」「シンちゃん」と呼ばれていました。

あの憎きコロナの蔓延で、付き添いができないこともあり会話もできない状況の時も、退院したら食べたいもの、飲みたいもの、そして差し入れの品物をLINEで毎日送ってきました。それもかなり具体的に画像付きで…。
直接の電話は嫌がりました。コールが鳴っても出ず、数分後LINEで
「何ですか?」と返ってきました。

ボクたちはシンと会えないもどかしさから会えはしないと分かりながら、大学病院の駐車場に毎日通っていました。顔は見えなくても駐車場に着くと
「シン!今、駐車場に着いたよ!何かいる?」とLINE。
「デカビタとハリボーのグミとからあげクン。」
シンも近くにいるボク達には、密かに安心していたと思いたいです。
入院患者とは思えないオーダーではあるが、すぐに返信があります。
病院も差し入れに関してはかなり大目に見てくれているようでした。

あるときは着替えと差し入れを持って入院病棟の看護ステーションに伺うとたまたま入浴のためストレッチャーで運ばれるシンに遭遇。
かなり離れた場所にいたのですが、こちらとしてはほぼ1ヶ月ぶりにシンの姿を見たのでです!思わず大きな声で
「シーンっ!」
と声をかけると、ベッドに横なった状態で右手だけをあげ
…「シッシッ!」

10分後LINEが届いた。
「ああいうときは大声で呼ばんといてください。病院では静かにせなあかんやろ。他の患者さんに迷惑やわ。」

…反省。
でも後で聞いた話では
「あれボクのお父さんです。」
と鼻を膨らませて話していたらしいです。

他にもリハビリ室の窓からシンの姿が見え、駐車場から夫婦二人で大きく手を振っていたら、ワザと窓から見えない位置に移動したり…。
これやから駐車場通いはやめられないのだ。

そんな息子ですがホスピスのスタッフの皆様、どうか1日でも長くシンの横にいれますようお願いします。


カメラを向けると思わずピースサイン

ボク達は病院の看護師さんやお医者さんに対して、とにかく印象づけることを意識した。やっぱりただ治療をしてもらうのではなく、シン君を直して自宅に帰らせたいと思って欲しかったからだ。お話も良くした。めんどくさい家族だったかもしれない。


でも最初は無表情で感情が見えない大学病院の担当医(賢すぎてボクのことが苦手そう)もいよいよコロナが悪化し、その時転院していた病院から緊急搬送されたときには、当直でもないのに、ERに駆けつけ、シンの人柄や家族とのつながりなどをその場にいた医師や看護師さんに伝え、頭を下げて治療をお願いしてくれたらしい。(後日、当直医から説明して頂き、涙がこぼれ落ちた。ホントにうれしく感謝です。)

当時、ERでは状態はかなり悪く、現状維持で様子を見る判断だったが

「とにかくシン君を家に帰してあげよう。」と治療に当たってくれた。


ホスピスに転院し最期を迎えることになったときは、わざわざドクターカーを手配し、ホスピスまで付き添っていただいた。

ホスピスの代表は
「大学病院であそこまで手配してくれることは聞いたことがない。」
とのこと。

ここまでシンに関わってくれた方々には本当に手厚くお世話になった。これは全てシンが引き寄せた奇跡のような出会いだと思う。

小学校当時の校長先生は在校当時はもちろん、10数年経った今でも、シンのことを気にかけてくれている。シンの大好きなスポーツカーにも運転席に乗せてくれた。お会いするたびにボクと話すのでは無く、シンに声をかけてくれる。そして必ず兄の近況を忘れず聞いてくれるのだ。

学校では、同級生には空気のような存在だったけど、学校中の先生達からは、どこにいても
「シンっ!」
と声かけしてもらっていた。

「太陽を浴びて前に向かって進む」という意味があるシン。

まさにみんなの暖かい愛情を全身に浴びながら、前に進む姿に
みんなは手助けしてくれたのだと思う。シンと出会った全ての人々に感謝します。













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