〇〇をどうしたものか
どうも、久しぶり。
私はそのへんにありふれている新卒1年目の社会人である。私が住んでいる東京では、よりありふれているタイプの人間だ。珍しくもなんともない。
社会人として働き始めて半年とちょっとが経ったが、だいぶ、楽になってきた。
前までは、この〇〇からどう逃れようかと、毎日、生きるのに、ものすごくストレスがかかっていた。
この〇〇をどうしたものか、もう全て投げ出してしまおうか、なんて考えていた。
だが、実際、私にはこの〇〇に何が入るのか、わかっていなかった。
私は漠然と、この拘束時間の長さや、上司との反りの合わなさ、1年目の社会人が抱えがちな「リアリティ・ショック」なるものが当てはまると思っていた。
でも違った。そして、今は明確にわかる。
この〇〇は退屈である、と。
この漠然とした、大きく、重く私にのしかかっているものは退屈だ。労働そのものではない。
考えてみれば、社不と呼ばれるADHDの人なんかが言われる多動症も、言い換えてみれば退屈に耐えられる時間の長さだ。
この退屈というものにどれだけ耐えられるのか、これが社会人として生きるにはどうやら大切なようである。
このことがわかった時、私は大変困った。なぜなら、転職や、仕事を変えること、ひいては無職になることすらも、この退屈の解決法にはなり得ないからである。
そんな時に、「暇と退屈の倫理学」という本に出会った。あかんなストーリーとして出来上がりすぎててステマみたい。まあそんなことはどうでも良い。
大事なのは、この本には退屈との付き合い方と、その対処法が書いてあるようなのである。
私に今一番必要な本だ。今仕事でやっている目の前の業務なんかより、一生役に立つ。
今の人生に退屈としている人はもちろん、また、漠然と嫌な毎日の原因がまだ退屈と気づいていないような人も、ぜひ読んでみてほしいし、読みたくなかったら、次に書く私の暇と退屈の倫理学の読書感想文を読んでほしい。
ここでは以上である。
お楽しみに!