亡妻や 後追いしたき 雲の峰

2020・8・2 火葬斎場で
モーツアルトのレクイエム(鎮魂曲)、ラクリモーサ(泪の日)はもういらない。連れ合いのいない東京に未練も無い。広島県廿日市市の自宅に引き揚げたら、グスタフ・マーラーの交響曲2番ハ短調「復活」を、ガラス窓がひん曲がるほどの大音響で聴きたいのです。
「人間は再び生きるために 死ぬのだ」と歌う、ソプラノとアルトの独唱が亡妻を蘇らせるわけでも、ありますまいに?
聖イグナチオ教会での追悼ミサで祭壇を飾った多彩な供花を見て、今更ながら、生前の妻の人気のほどが偲ばれた。人道を照らす聖女マザーテレサに憧れ、20前後の頃、修道女を志した淳与は、父親から、「教会付属の幼稚園の先生で我慢しなさい」。軽飛行士になりたい、と駄々をこねて、母親の猛反対に。

一方で、ココ・シャネルに代表されるファッション界のほか、家具デザイナー、その他の多様な工芸分野にも魅せられたが、60歳の時点で、ようやく、これっという結論に達した。ギャラリーの創業がそれです。
フランス好きの彼女らしく、ギャルリと呼び、その後に、人の出会いを象徴するという「ワッツ」(輪がふたつ)をくっつけた。この看板の下で、22年もの間、商魂を発揮した。が、根っこでは「精魂込めた作家の創作」と「それを観に来る客」が、楽しく、また、厳しく、交錯する舞台作りを主眼にしたようです。
このことを、彼女は「ギャラリーという空間は、人と作品の出会いの場」とさらり言ってのけました。
永遠の別離は、他人事視していたが、さて、自分のこととなると取り乱します。いい年をして修養がたりませんね。
これからは、廿日市市の対巌山に隠遁し、仙人になります。
ファミリーの苦しみはわたしが背負って逝く、などと病床で、詩野に殊勝な言葉を漏らしていたのに、「きついだろ?ぼくが代わろうか」と言ったら、即座に「お願い」と本音を吐いた。どちらもつらい。泣けました。「涙は人間が作る最小の湖」と表現したのは寺山修司だが、琵琶湖にも負けない涙の湖水が出来ました。

「あの子は神様がお遣わしになったのかも」と、誠心誠意、病床に添った詩野を評価した母でした。詩野は詩野で「子供は親を選んで生まれると言う。淳与お母さんを選んだ自分を誇りに思う」ですと。
花びらいっぱいの柩に埋もれた穏やかな容貌のクリスチャンは、「老いてなお」ヒロインに見えました。神に感謝!


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