「#自分で選んでよかったこと」

久しぶりの投稿で、この内容なら書けると思いました。自分で選んでよかったこと
それは、主人との結婚です。なぜか恋愛と結婚は別と考えていた私はその当時、周りの友人が恋愛結婚してる中、お見合いを22歳からしていました。恋愛は恋愛でしていましたが、いざ結婚相手となると見方がシビアになっていたと思います。
お見合い、自分の身上書を書いて間に入ってる方にお願いをして双方で交換し、条件がいいかなって思えば、お会いしていました。何人とお会いしたか私は一人っ子なので、お相手は次男、同居なしを条件として決めていたと思います。警察官、建築士、教員、お坊さんと色々な職業の方とお見合いしましたが、どなたもピンと来ないまま。
お相手の方もピアノ、英会話、同居とか条件を出してくる方もいて、そういう方は最初から会わなかったです。お見合いして7年が経ち、29歳の時に主人とお見合いしました。しかもお坊さんです。1番最初のお見合いもお坊さんで、最後のお見合いもお坊さん、何かの縁ですかね。
主人の写真は太っていたし、同居だし、長男だし、ましてやお寺です。それでも私は会いたいと思ったのです。何も考えず、初めてお会いした主人をみた時に可愛いと思ってしまいました。年齢は5歳上ですが、クマさんみたいと。6月初旬に会い、7月にプロポーズ、7月末頃には結納をしていました。8月盆にお手伝いに行き、10月に本山で得度式をして、11月22日に入籍、翌年の1月に仏式結婚式をあげました。半年の間にこんなに早くトントン拍子に行くなんて、私の両親は思いもしないことだと思います。
私は主人といるのが一番安心できる場所であり、お寺も居心地の良い場所になっていましたし、義父母もとても良かったのです。お寺の仕事は大変だったのかもしれませんが社会経験がない、自営でしか働いたことがない、何も知らないわからない私は全てが新鮮で、苦に思うことはないまま、子育てにも協力的だし身体からは想像つかないほど、マメに動く主人、子供達にも料理を作ったり、幼稚園のお弁当を作ったり、塾の送り迎え、夜食作り、旅行、夫婦2人の会話もあり、最初なかなか子供が授からなかった時も主人は2人でやっていこうと言ってくれました。けれども、どうしても子供が欲しい私は不妊治療を始めて、主人にも協力してもらい、結婚2年半目にして、長女が産まれ、その後も年子で次女が産まれ、2人で仕事と育児をやってきたと思います。
その間、義父は長女が臨月の時に脳梗塞で倒れ、初孫である娘を1ヶ月検診後に会いに行きました。4ヶ月入院後、忙しいお盆前に退院して、義母がその間義父のお世話をしていました。左側に麻痺が残りましたので、杖をつきながらリハビリをしてました。娘たちが幼稚園の時あたりから義母も病気が見つかり入退院を繰り返していました。その間も、主人は変わらずの仕事と育児をしてました。弱音をはかない人でしたので、私はほんとに頼りきっていて、主人の言われたことをただひたすらやっていたと思います。私は甘えん坊なので、娘達がいても気にせずに主人に抱っこしてもらったり、一緒にお風呂に入ったりと主人の側にいるのがほんとに心地良かったと思っています。子供はいつか巣立っていきますからね。主人とよく会話をしていましたので、知らないことが多い私は質問したり主人から、仏教的な内容を教わったりと今思えば、私が独り立ちできるようにしてくれたんだと思います。
義父母が病気で続けて亡くなった時、特にお寺のご葬儀は大変で、先に義母が亡くなった時は気にしていなかったのですが、義父が亡くなった時のご葬儀はやはり寺族と違った雰囲気でしたので、私はまだ40代でしたが、その時、主人にあんな大変なご葬儀を私はできないから、私が先に逝くねって言ってました。当然主人は自分が年上だから、自分が先に逝くんだからって言ってましたが。それが本当にこんなに早く逝くことになるなんて。義父母のご葬儀からご法事が続き、2人の一周忌、3回忌前に主人がご法事中に意識がない状態で椅子に座ったまま、経本を持って、倒れないようにお檀家様達が主人を支えてくれてました。
急いで救急車を呼び病院に行きました。
救急車の中で、主人の手を握り、ずっとパパって声をかけ続けていましたが、寝てる感じでいびきをかいてたような。
法衣を着たまま運ばれて、結局法衣は切られ主人を検査した結果、脳動脈瘤が2個あって、破裂したとのこと。くも膜下出血ですよね。手術をするので、同意書も書いたあとに瞳孔が開きはじめたと言われ、手術は出来ずそのまま個室に運ばれて、娘達も呼び、私は一度お寺に戻り、一応入院の準備をして持っていきました。ご法事が始まったのが11時、それからすぐに住職がおかしいとお檀家様に言われ、すぐに救急車を呼んで病院には12時頃、で、亡くなったのが18時6分でした。
享年50歳、数えで51歳ですね。
お寺に定年はないです。
周りからは3人目は男の子を産んでみたいなことを言われてましたが、私達晩婚でしたから、次女が産まれた時の主人の年齢は40歳でした。
なので、もう3人目はいらないし、今から弟子を育てることはしないと、まぁ男の子が授かるかもわからないのに、言っていましたから。
私も年子を育てるのは、その時は大変でしたが、今となれば良かったと思っています。
主人が亡くなったことを皆さんからにお知らせをし、住職のご葬儀、近隣のご住職方が色々と準備して下さり、斎場の方々もご協力頂き、沢山の方々に見送られながら、立派なご葬儀ができたと思っています。ただ、気丈に振る舞っていたと思いますが、私の精神状態はもうかなり不安定になっていました。住職亡き後は、私がなんとかやってきて今は長女がお婿さんを迎えたので、私はご隠居の身になりました。
一人っ子できた私は、両親の言うことを聞いて、門限10時どこに遊びに行っても必ず電話したりと、誰と遊ぶとか報告して、夜通し遊ぶなんてとんでもないことでしたから、結婚を決めた時、父はやっぱりダメだしをちょっとしたのですが、この結婚だけは自分で選んだのです。
小さい頃の夢がお嫁さんでしたから。
今は主人から色々と教わった言葉を所々で思い出します。
亡くなる2〜3年前から、考えろって、自分で考えることをしろと言われてました。
子供達が巣立った今、ほんとは主人と一緒に居られる時間が多くなると思っていました。私は主人に守られていたと今更ながら感じています。でも人間はいつか亡くなります。産まれる時も1人、亡くなる時も1人です。
今、1人の時間を有意義に自分の経験したこと、役にたてればと徳を積む生き方ができればと、生かされてる命で定命まで頑張れたらと思います。

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