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人生において正攻法はない/クリエイティブディレクター 藤原準

#06 INTERVIEW Producer, Creative Director/藤原準


こんにちは。インタビューをメイン記事にしてるYOです。
今回は我らグランドデザインのプロデューサー兼クリエイティブディレクター、藤原準をご紹介。
彼は年齢不詳な若い容姿で、声はハスキーでかっこよく(男性陣から定評あり)、めちゃめちゃ仕事好き、アウトドア好き。そして超家族想いなパパ。けれど、それは彼の一面に過ぎない。
藤原さんが一体どんな人生を歩んできたのか。今回のnoteは、ここグランドデザインに入るまでの軌跡と、これからの彼の展望のまとめである。



01/ 父を見てデザイナーになる道を決意した幼少期。

父のデザイン会社『ステレオスタジオ』で遊んだ子供時代

──こんにちは。いつもは上司と部下の関係ですが・・今日はインタビュアーとインタビュイーの関係でお願いいたします。では、早速よろしくお願いいたします!
「はい。僕なんかの話でいいのかな?(笑)よろしくお願いします」
──まずはデザイナーになったきっかけから、お話いただけますか?
「うーん、きっかけは父かなあ。昔、父が新宿でデザイン事務所を経営していて、それを継ぐことが当然というか、子供は親の仕事を世襲するものだと勝手に思っていました。父には事務所へよく遊びに連れて行ってもらってました。」
──お父さんがデザイナーなんですね!デザイン事務所が遊び場所とは、なかなかない経験してたんですね~。
「うん、子供の頃から、デザインの仕事をする父の姿を見ていたから、どこかデザイナーとして働くその父を尊敬してたんだと思う。それで当然のようにデザインの道に進んだのかな。でもただ、社長の息子という肩書だけで父の会社に入社して、なめられたくないなって想いがあって。だから別のところでちゃんと修行してから会社を継ぐ!という思いで進学しました。」
──なるほど、楽をしようとしない、立派な選択ですね。

デザイン学校へ入学


「まあそんな感じで、デザインの専門学校へ入学しました。でも、実は志とは裏腹で、ぜんぜん勉強してなかったですけどね。」
──えっ!勉強しなかったんですか?
「うん。全く。好きな授業はうけてたけど、嫌いな授業は出てなかった。Mac(Macintosh(マッキントッシュ))の授業とか一度も受けなかったし。」
──? Macの授業ってなんですか?
「僕らの時代って、アナログからMacになる移行してた時代だったんですよ。」
──なるほど・・!Mac操作の授業ですね。普及し始めた頃のMac時代ですね~

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※1995年当時のiMac。今と違ってかなりオフィス感が強い。

「そうそう。デザイン制作がアナログからデジタルに移行する過渡期だよね。だから僕らは、Macでデザインする初期の世代だった。」
──なんだか想像もつきませんね。それで就職は無事にできたんですか?
「就活を始めたんだけど、遊んでばっかりだったからまあ成績は悪かったんだよね。だって、好きな授業以外は中庭でタバコ吸っているか、近くのHMVに行っちゃてるような感じだったから。そんなだから応募条件に内申書がない会社ばかり探したの。そうなると、中々いい会社は見つからなくて。数社は内定をもらえていたんだけど、なんかイマイチ、ぴんときてなかったんです。」
──数社受かってたら、それで良しってなりそうですけどね。

「当時の僕は、御多分に洩れず、デザイナーとはファッションとかヘアスタイルは『人とは違うことがかっこいい』と思ってたところがあって。それでもって、オシャレでセンスのある俺はもっと優秀な会社に入るべきだ!と思って。それで内定をもらっていた会社は全部辞退したんですよ。ナルシストで、勘違いなヤツだよね(笑)」
──今となっては、ちょっと面白いですけどね(笑)
「改めて就職どうしようかなと思っていたときに、本屋でブレーンとOACから出てる「creator」(デザイン事務所のタウンページみたいなもの)をパラパラ見ていたんです。有名な制作会社やクライアントWORKSを見て、『そうそう、俺が行くべきなのはこういうデザイン会社達!』と思って、まずは「あ行」から一番初めに目に止まった会社に早速電話した。」

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『creator』
デザイン事務所の紹介や、問い合わせ先などが掲載されていた本。※写真は2010年のもの。



02/  “ハッタリ”で、デザイナーデビュー。そして死刑宣告。

21歳-24歳(4年) 1社目アムスエージェンシー』

──本屋で立ち読みして、即電話ですか!行動力と勇気が半端ないですね(笑)
「早速電話で、『募集してます?』って聞いたら、『今はしてないけど、実はちょうど募集かけようとしてたから、作品見せにきたら?』と言われて、面接できることになったんですよ。で、面接を受けたら採用。」
──すごい。トントン拍子でデザイナーデビューですね!
「はい、「あ行」の一社目で決まるという(笑)。でも実はその面接で嘘ついちゃって。“Mac使えます!”って。」
──え!!!!
「もちろん即バレしました。たぶん入社した日だったかな・・『このキャッチコピーを縦組みにしてくれる?』って上司に言われたものの、僕は全くMacの授業出てなかったから、当然、縦組み・横組みをどこで変えられるのか知らなくて。」
──ひゃ〜〜。
「『藤原くん、Mac出来んばい!(博多弁)』って怒られて。それで、その後は営業のフロアに左遷。Mac操作を覚えるまで、制作には入れてもらえず、来る日も来る日もチュートリアルをずーっとやってたんですよ。1ヶ月してようやく、制作に戻してもらえたんです。」
──頑張りましたね・・
「死刑宣告の一歩手前の段階だったから、もうそれは必死で覚えましたよ。そのあと、ようやく普通に働くことが許されて、ほっとしました。」
──考え方によっては、チャンスをくれた感じですよね。
「まあそうですよね。クビにされてもおかしくない。でも、厳しくも優しい上司でした。働きだしてしばらくした頃に、その上司と一悶着もありました。というか、僕の身勝手な行動が問題になったことがあって。」
──えっ上司と喧嘩ですか?新入社員が・・
「喧嘩にもなってないですけど・・。自分の中では、ある程度仕事がこなせるようになってきたと思っていた頃で、専門学校の勢いそのままに就職してきた“オシャレでセンスのある藤原くん”は、相も変わらず『俺はデザインができる』って勘違いしてたんだよね。

そんな中である日、自分が作ったデザインについて上司と口論になった。『このデザインのどこが悪いんですか?良くないなんて、全然理解できません』って楯突く僕に、『じゃあ俺がやるっちゃ』と言われ、ムカついた僕は、データを上司に渡してそのまま帰宅したんですよ。」
──帰宅!!新人が上司に仕事させて帰宅・・!(笑)
「ね、ひどいよね(笑)。それで次の日に出勤して、上司が徹夜で修正してくれたものを見比べました。修正されたものは、悔しいけどめちゃめちゃカッコ良かった。僕のデザインはそれに足元にも及んでいなくて。
それで “あ、俺のデザイン全然だめだったんだな”って、わかったんですよ。ちなみにその上司とは、未だに仲良くさせてもらってますが、その当時の話でいじられる。『お前、あそこで帰るのはなかばい!』ってね(笑)。


03/ 募集要項は読まずに応募する。 それも成功の第一歩。

24歳-28歳(4年半)  2社目『アド・テクニカ』

──なんで転職したんですか?
「1社目は直クライアントで、これまでやってきたカタログとか小さい広告ものじゃなく、屋外広告とか駅ジャックとかしたいなと。マス広告に憧れてたんですよ。そういう大きなことをやってみたかった」
──誰もが憧れる、広告の一番華々しい分野ですもんね。
「うん。それで電通とか博報堂の仕事であれば、そういうデザインができると思ったんです。そして、どうせなら厳しいところへと思い、広告ファクトリー系の大規模制作会社に行こうと。それで博報堂系の東京アドデザイナースグループの『アド・テクニカ』という会社が募集しているのを見つけて。速攻で応募しました。
この入社のときもちょっと変わってて、書類審査が通って面談に行くと、『君、この募集、女子って知ってる?』って言われたんですよ。実はそれは化粧品チームの女性デザイナーの募集だったんだけど、全くそれを読んでいなくて。そこで『えっ!』って驚いたら『お前おもしろいヤツだな』って言われて、欠員補助とは別に、増員という形で入社になったんです(笑)。ちなみにそのときに採用してくれた人が、今はその会社の社長。感慨深いです。」
──募集要項は読みましょうよ(笑)。どんな会社だったんですか?
「クライアント案件を対応するデザインチームが数チームあって、そのなかのプレゼン部隊みたいなところに配属されました。そこはADC、ブレーン、コマーシャル・フォト、JAGDAに賞を獲って載りたいっていう人たちの集まりでした。」
────なんだかその情報だけで、すごそうなチームですね(笑)
「そこはまあきつかったですね。当時、広告全盛期で、仕事が山のようにあって。月曜日出勤して金曜日帰るとか、嘘じゃなく本当にやってた。朝10時から0時までは通常業務で、深夜0時まわって朝まで企画会議みたいな日々だった。」
──ええ〜!それ、全然家帰れないじゃないですか。
「うん。平日母子家庭って妻に怒られてました(笑)。でも、少数精鋭のチームが心地良かったな。皆仲良くて、安い居酒屋とかいって飲んだり、徹夜のときはチームリーダーが差し入れしてくれたりとか。常に自分達でいいデザインとは何かを研究し、デザイン談義が尽きなかった。」




04/ 憧れの会社で、憧れのアートディレクターに。

28歳-35歳(8年半) 3社目『中野直樹広告事務所』

──そこを転職した理由はありますか?
「ある携帯電話のパンフレット制作を任されていたときの話です。撮影も終えて、進行中に表紙をこれにしてくれというデータが送られてきたんです。」
──え?送られてきた?・・撮影までしたのに、サシカエってことですか?
「そう、マス連動。広告がこのビジュアルだから、それに合わせてくださいという指示だったんです。代理店とカメラマンと三人で船に乗って、真っ黒に日焼けして撮影してきたものだったのが、全部パーになった。中面との連動は無視して、マス連動って意味わからない。
その指示が送られてきたとき、めちゃめちゃショックだったけど、同時に「僕はこれを送りつける側に行かないとだめだと思ったんです。さらに上があるんだと思って。」
──そう思えちゃうのが、藤原さんのすごいところだと思います。それが辞めようと思ったきっかけだったんですね。
「そうですね。その当時、僕は『アド・パスカル』という九州にあるデザイン会社と、大阪にある『中野直樹広告事務所』の自由な作風が大好きだったんです。それで東京に支社があった中野直樹広告事務所に行きたいと思って、やっぱり電話したんですよ(笑)。」
──さすが!(笑)。またしても電話ですね。
「電話しても、今は募集してないと言われたけど、作品だけでもみてくれと頼んで、作品を持っていって、面接をしてもらいました。それで無事受かって、働けることになったんです。」

アラサースタッフが集結したPanasonic NIGHT COLOR

「一番経験になったなと今でも思えるのは、この『Panasonic NIGHT COLOR series』の仕事です。中野事務所のアートディレクターとして、結果を残せた仕事ですね。」
──どんな仕事だったんですか?
「アラサー家電としてオールブラックのコンセプト家電で、クライアントも広告代理店も制作会社も全てアラサーのスタッフが集められました。商品もコミュニケーションも今までにないものをつくろうという号令のもと、行ったプロジェクトです。」

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Panasonic NIGHT COLOR series


「この企画が、ほんとうに通らなくて。連日連夜、アイデア出しまくりました。で、あるとき思いついたのが、“黒(い家電)だから、C(シアン)、M(マゼンタ)、Y(イエロー)を重ねたらどうかな”っていう話になったんです。例えばジュリアン・オピーのアートのような。

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イギリスの現代美術家 Julian Opie
作品は各パーツをパネル状に組み合わせてつくられた “構造物” で出来ている
引用:https://www.pen-online.jp/creator/art/julian-opie/1


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ジュリアン・オピーの作品からインスパイアされたNIGHT COLOR seriesのロゴ


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全身ボディペイント(イメージ)


「そして最終的に、僕がファッション誌の1ページを見て思いついたのが、全身ボディペイント。人から壁からモノから全部CMYKに塗るのはどうですか?という提案をすると、担当がアート好きだったこともあって、それで行こう!と、ようやくなったんです。」
──ここに行き着くまでに相当考えられたものだったんですね。
「そうなんです。そこから撮影も大変でした。小道具もCMYのものをスタッフ達が自分の家から持ち寄ったりスタイリストが用意したり。でも全部きれいに揃え過ぎてしまったら、CGのように見えてしまうんですよね。で、どうやってリアルな撮影であるかをバラすために一箇所だけ違う色を入れたりとか思考錯誤しました。
この頃は今と違い、グラフィック広告の制作物も全国の主要メディアをジャックするなど、めちゃめちゃ多かったです。中でも渋谷駅を街ごとジャックするのは印象的でした。電車の車内広告や駅の大型看板はもちろん駅前のスクランブル交差点のビジョンをジャックし、終電のアナウンスをする時報を流したり。Twitterと連動するアドバスを走らせたり、ABCマートや東急百貨店の閉店したあとのシャッターに広告を出稿させてもらったり、夜にまつわるエトセトラに徹底的にこだわり広告展開を行いました。」
──へ〜!そんなことまでも・・ものすごく大きいキャンペーンですね。

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Panasonic NIGHT COLOR series
第一弾:2009年、第二弾:2010年、第三段:2011年
アラサーをター ゲットにした ‘‘ 黒'’モノ家電デビュー キャンペ ーン
・[広告電通賞2010]クロスメディア ・モバイル • 他部門最優秀賞
・[アジア太平洋広告祭アドフェスト2010]ダイレクト部門ファイナリスト


「それをアラサーのみんなで作ってたのが楽しかった。クライアントも代理店も、制作会社も皆、垣根なしでつくった作品です。結果としては世間の記憶に残るものになり、国内外の賞も受賞し、大変思い出深い経験になりました。」



05/ グラフィックとマス広告だけでは生きていけない時代に。 まだまだ、停滞しない。

35歳〜現在 『ホノルルインク(現:グランドデザイン )』入社

──中野直樹広告事務所には8年在籍されたんですよね、転職したのは何故だったんですか?
「リーマンショックと東日本大震災でメインクライアントの仕事がなくなってしまう事態になって、デザイナーを辞めて家族を養わなければと考えたりしてました。その頃はWEBもできないといけない時代にもなっていたし。転職しようにも制作会社から制作会社に行ってもしょうがないかなと思い、メーカーや外資の広告代理店にいくことも考えました。でもそうなると、僕自身は、デザインの発注者になってしまい、“プレーヤー”ではなくなってしまうんだなと。デザイナーを続けるのであれば、それはなんか違う気がしてた」
──なるほど。
「そんな中、ブレーンを開いたらホノルルインク(現:グランドデザイン)が掲載されていたんです。募集要項を見ると、
勤務地が東京上海。『なんだこの会社。謎の会社だな〜って(笑)。』でもなんだか気になって応募して面接まですることになった。その面談で、『僕は広告しかやってこなかったんで、WEBとかできないんですけど』って言うと、『すぐできるようになるよ。ブランディングとか興味あるなら、うちに合ってると思う。うちに入社して、ディレクターを助けてあげてよ。』と言われて。即採用だった(笑)。」
──西さんらしいですね(笑)
「まあでも、入社してみたら、WEBや動画やイベントとか、やったことないことだらけ。できるかなって最初はめちゃめちゃ不安だったんだけど、どんなメディアでも企画という根っこの部分は一緒だった。あとは、それぞれのメディア特性を理解し、ボキャブラリーやリテラシーを増やしていけば、グラフィック出身の僕でも戦えることを知りました。そこからはいろんなメディアに携わることができて、詰め込むのが楽しかった。グラフィックや広告でやってたことが培ったものが役立って応用できて、ステージを上にあげられたように感じたんです。」


ホノルルインクに入って初めての競合。『カラムーチョ 30周年キャンペーン』
──ホノルルインクで、印象に残ってる仕事はありますか?
「『湖池屋 カラムーチョ』の仕事ですね。入社してすぐに初めての競合で3-4社競合で、全体設計をホノルルが担当したんです。大プレゼンだったけど、“うちのアイデアが一番熱量がある”となって、見事に勝ち取りました。1年間のキャンペーンでカラムーチョなだけに大炎上計画と銘打って。イベントもCMもある大キャンペーンで、入社早々に頑張ったので、それに勝った喜びはすごかったですね。」

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グランドデザインで藤原準が担当した最近の仕事。上からMen’s Biore One(2018~)、JICA(2019)、BRANDFREE(2019)。※クリックすると詳細が見れます。

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“やっていきたいよね”をやれる会社。それが、グランドデザインの強み

──うちの会社の強みは、なんだと思いますか?
「クライアントの大小に関わらず課題解決をしていくスタンスがあるところ。それってデザイナーの価値だと思うし、それができることが存在意義だと思う。
そうじゃないとオペレーターだし、そのオペレーターだけならAIに取り変わられる仕事になってしまう。でもそこに対して課題解決すること。それがユニークだったらバズったりするじゃないですか。そういうことって理屈じゃない部分だしAIにはできない。そういう企画こそが、僕らが存在価値をつくれるものなんじゃないかなと思ってます。今はUXやDXとかの時代にはいってきてるから、うちの会社でもやっていきたいよねって思ってる。そういう、“やっていきたいこと”をやれる会社なのかなと思ってるし、西さんもそっちにいきたい人だから、楽しいよね。」


きっとおじいちゃんになっても、デザインの仕事はしてる。

──今後の展望などあれば、聞かせてください。
「僕は今43歳、今年8年目なんです。デザインって、昔はメディアに対して行ってきたことなんですけど、今はもっと広義になってきていますよね。それはブランディングという領域なのかもしれないけど。コミュニケーションをデザインするという感じになってきてます。“やっていきたい”をやれる会社だから面白いし、チャレンジをとめないこの会社が僕は大好きです。停滞せず、会社と共にステップアップし続けていきたいですね。
僕は20代ではあらゆる業種のあらゆる企業のあらゆる広告をデザインしてきました。30代では皆んなの記憶にも記録にも残るものもデザインできた。そして40代のいま。メディアにデザインをはめていくようなものではなく、社会に貢献ができるようなデザインをしてみたいと思っています。せっかくデザイナーになったなら、人のためになる仕事をしてみたいと思うんですよ。60歳になっても、70歳になってもできるならそれはやっていたいことですね。
きっとおじいちゃんになっても、幅広い意味でのデザインの仕事は、ずーっとやってるんだと思います。」



06/ まとめ


誰しも「こうなりたい」「こうでありたい」という気持ちになることは多々あるはず。でも、それで終わらず、「私、〇〇できちゃうんです」と、ハッタリをかましてでも、チャンスを活かしどんどん次のステップへ進んでいける人間がいる。それが今回の藤原さんだ。

デザインに限らず、もしあなたが、人から「できっこないよ」と馬鹿にされそうなくらいの、でっかい”夢物語”を持っていたといたとしよう。実はそれを口に出して、周りに話してみたら、意外にもカンタンに突破できることだったりするかもしれない。だって、今回の彼の話からわかるように、人生において正攻法なんてものはないのだから。

諦めないこと、停滞しないこと、挑戦し続けること。それらを実行し続ける藤原さんは本当にかっこいい。それに少しでも届くようになりたい、そう思われるような人間になりたい、と思えたインタビューでした。
ありがとうございました。


藤原 準 PROFILE
出身 : 千葉県市川市/生まれ:1977年 /社会に足りないと思うもの:愛
思春期に影響の大きかった経験:遊び尽くしたこと/人生で影響を受けたジャンルや人:少年野球・長谷川監督/好きな映画: アメリカンヒストリーX(米国1998年) , ダンサーインザダーク(米国2000年) , 息もできない(韓国2010)


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