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朝八時のシンデレラ
あの丘の上で
『あっ、足音が聞こえてきた!もうすぐ来るよ』と、奈緒子は部屋の窓を開けた。爽やかな風がカーテンをゆらし始めると同時に、ランニングをしているラグビー部の部員たちが、部屋の前を走り去って行った。奈緒子は大声で『卓也がんばって!』と、叫んだ。卓也は奈緒子の方を一瞬見て『おう!』と、返した。奈緒子は『先生、みんなゴメンね』と言って窓を閉め、正座をした。そしてみんな何事もなかったように前を向き、一人ずつお茶を立て始めた。
奈緒子は、市内の商業高校に通う17才。部活は友達の麻里と、瞳と茶道部に入っている。なぜ茶道部なのかと聞かれると、消去法で残ったのがそれだったからと答える。本当は、部室からラグビー部のランニングが見ることが出来るからだけど、それは先生には言わなかった。それに、この部活は単にとてもゆるかった。厳しい先輩たちとの関係もないし、茶道の先生は優しい老人で、お茶受けのお菓子は、好きな物を持ち込んで大丈夫だった。だから、毎回お菓子はバラエティに富んでいた。今日は、瞳が持ってきたバームクーヘンで、ほろ苦い抹茶との相性はバツグンだった。瞳のお菓子のチョイスはいつも最高だった。奈緒子だけでなく、他の部員全員がこの茶道部を気に入っていた。
奈緒子が卓也に出会ったのは、高校一年生の夏休みが始まる少し前だった。蝉が騒がしく鳴き始めた初夏の朝に、現れた王子様。奈緒子はそう思った。背が高く、黒い髪をジェルで整え、きちっと制服を着ていた卓也を自転車置き場で見た。奈緒子の一目惚れだった。麻里と瞳が『ねえ、何してんの?早く行くよ!』と急かすまで、どれくらい時間が経っていたのか忘れるくらい、その場に立ち尽くしていた。奈緒子にとっては、それ位の衝撃だった。
その日の放課後、麻里と瞳といつものカフェ(ルマンド)でドリアと、アイスコーヒーを注文して、明日の部活のお菓子の話をしていた時に、奈緒子が唐突に『私、出会ってしまったの…ていうか、好きな人が出来た。多分工業科の人。名前が知りたい。彼女いるのかな?多分いるよね?でもとりあえず誰なのか知りたい…』まるで独り言のように、呪文を唱えるように、氷が溶けはじめて汗をかいた、水の入ったグラスをなぞりながら一気に話した。麻里と瞳は顔を見合わせて『いつの間に!』と、笑った。その日から奈緒子の憧れの君への探索が始まった。
三人が通う高校は丘の上にある。グランドをはさんで二つの建物があり、一つの校舎は商業科、もう一つの校舎は工業科で、商業科の9割は女子生徒、工業科の9割が男子生徒で普段交わることはほとんど無いが、自転車置き場が一緒だった為、朝と夕方の数十分が異性との出会いの唯一のチャンスだった。だからいつも自転車置き場には、何をするわけでもなく、ただそこにいる生徒たちで賑わっていた。
それから数日後の朝、奈緒子と麻里、瞳はいつもより10分前に自転車置き場に着き、奈緒子の憧れの君が来るのを待った。しばらくすると奈緒子が『来た!!』と恥ずかしそうに目を落とした。『何、何あの人がその人?』と、麻里が言ったところで、瞳が『え?あれって卓也さんじゃん?』と、呟いた。
自転車置き場の横には、大きなイチョウの木が数本立っている。秋になるとゆらゆらと落ちてくる葉が午後の西日に照らされ、キラキラとゴールドに輝きとてもロマンチックになる。その為か、毎年秋になるとこの高校では、カップルになる生徒が増える。そんな秋の午後、奈緒子は卓也に告白し、彼氏と彼女になった。
つづく