売れない俳優 Hさん
従業員10人ほどの小さな会社に勤めていたことがある。
そこは一般にイメージされるような「会社」とはずいぶん違った。
私も含め、「会社員」に見えるような人間は一人もいなかった。
40代のHさんという男性は、ひときわ「一般の社会人」とは違っていた。
まず、就業時間中にもかかわらず、午後3時になると必ずのように銭湯に出かけた。
「お湯屋さん行ってきます」と、いくらかバツが悪そうにあいさつして出てゆき、石けんのいい香りをさせて帰ってくる。
もちろんタイムカードは「途中退出」などにはしない。
Hさんは社長の行きつけのスナックの常連客だった。
その人柄を気に入った社長がスカウトしてきたらしい。
社長も従業員も皆、Hさんの社会の枠にとらわれない自由気ままなところが好きだったので、彼が仕事中に銭湯に行こうがどこに行こうが、まったく気にしていなかった。
彼の風貌は、ひとことで言えば「チンピラ」であった。
あるとき、客先へ書類を届けるときに雪駄(せった)を履いていって、社長からひどく叱られていた。
一般常識で言えばそれは当然のことかもしれないが、私は「えっ、仕事中の銭湯はいいのに雪駄はダメなんだ…」と、社長がキレる「ツボ」のほうにむしろ驚いた。
Hさんは無名の俳優だった。
テレビに出演したときの「チョイ役」のシーンを集めた「チョイ役集」のビデオを自身で編集していると聞いた。
私は一度、NHKの大河ドラマに「チョイ役」で出演している彼の姿を見たことがある。
どんな役でどんな演技だったのかはまったく覚えていないのだが、エンドロールの名前が大きく立派な文字サイズで出ていて驚いたことは覚えている。
Hさんはときおり、自身が「どさ回り」と呼ぶ仕事のために会社を休んだ。
携帯電話会社の社員教育のために、3人組で日本全国を回るのだそうだ。
3人組のメンバーは、マナー講師の女性、弁護士の男性、そして俳優のHさんだ。
マナー講師は、もちろん社員教育に欠かせない存在だ。
弁護士は、法的な観点からアドバイスをするのだろう。
Hさんはといえば、「顧客対応の練習ためにクレーマーを演じる」という役割なのだという。
あのチンピラの風貌で、かつ俳優の演技力があるわけだから、「ゴラァ、ナメとんのか!」とクレームをつけられたら、なかなかの迫力だろうと思う。
研修を受けている女性の中には、練習とわかっていても泣き出してしまう人がいるという。
Hさんは無類の酒好きで、ドサ回り先でも酒を飲むことを楽しみにしていたが、
「女の子に泣かれた日はさぁ、そりゃあもう、酒がまずくて」
と、しんみりした顔で話してくれた。
話だけ聞くとなんだか楽しそうな仕事だなと思ってしまうが、やはりどんな仕事にも苦労はあるようだ。
トップ画像引用元:FC2ブログ/雪駄塾 SETTA JYUKU -Remind of JAPAN-