人と対等でいること
今週は私にとってジェットコースターのような1週間だった。
障害を持つ私が外出する時、2名のヘルパーさんが必要だが、そのうちの1名がやむにやまれぬ事情で今週の派遣が不可となり、そのヘルパーさんが所属する事業所が別の事業所にあたってくれて調整が済んだ。
来週の派遣も若干危ういため、アポを取ってあった人にも急遽予定を調整してもらい、これで万事整ったはずだった。
ところが、外出前日午後になって、派遣してくれる予定だった事業所でも突発的な事態が起きた。
派遣してくれる予定だったヘルパーさんが関わっている利用者さんが発熱し、ヘルパーさんは濃厚接触者でもなく発熱もしておらず勤務はしているが、PCR結果が出ていない段階で翌日の派遣をどうするかということになった。
幸い結果は陰性で、濃厚接触者でもなかったものの、次の予定のことを考えて派遣を断り、観劇への外出は介護の経験がない友達に声をかけて手伝ってもらった。
おかげさまで大変素晴らしい1日になった。感謝いたします。
コロナ禍が始まり、このように介護経験のないごく一般の方にお手伝いをお願いする機会が多くなった。
観劇は早くは6か月くらい前からチケットを取る。その時点ではコロナが落ち着いていても、上演期間には緊急事態宣言やまん延防止措置が取られるとヘルパーさんの派遣を断られることがあるのだ。
チケットを手放して観劇を諦める選択肢もあるが、私はやはり諦めることはできず、SNSを通じて、あるいは友達に声をかけて、介護の中でもとりわけプライベートなお手洗いのお手伝いをお願いしてきた。
私の声かけに、介護経験のあるなしに関わらず快諾してくださり、有難いことにヘルパーさんが派遣されなくても観劇を諦めることなく過ごしている。
本当に感謝です、ありがとう。
そんな中、彼女たちの何人からこんな言葉を聞いた。
世の中がこんなに不便だったとは知らなかった。
障害のない人にとって、体の不自由な人を含め、なんらかの障害のある人の存在を知っていてはいて、「大変だろうなぁ」という想像はできても、実際にその人の立場で物事を見るということはあまりないと思う。
彼女たちがお手伝いを通して新しい視点を手に入れてくれたことは、こちらとしてもお願いして良かったと思う。
一方、私にとってもその言葉は少し驚きであった。
かつて、あるいは今でも、特にご高齢の方から「大変ですねぇ」と声をかけられることがある。
その意味はおよそ「こんなにお体が不自由でご自身も介護者も生活や外出が大変でしょう」というものである。
これは障害による不便や不利益の原因を個々の障害当事者に求める「障害の個人モデル(医学モデル)」と呼ばれる視点に立っている。
一方、私に直接触れ、接してくれた彼女たちが言った言葉は、障害が社会システム側にある為に不便・不利益が生じるという「障害の社会モデル」である。
私は、「道路には段差があり、駅は階段ばかりで、街に車椅子用お手洗いがない、階段や狭さの為に店の入店を断られる、それは私のせいではなく、設備がない為だ」という社会モデルに近い感覚は持っていたものの、言語化されてはじめて私たち障害者が、健常な人の暮らしに合わせて過剰な努力や負担や諦めを強いられる必要はないのだと改めて理解したのだ。
このような考え方が、介護経験のない方々から出てきたことは、彼女たちが私に触れて気づいてくれたことであり、また社会も少しずつそのような方向に進んでいるのだと、私は実感した。
私は人とは対等でありたいと思っている。
しかし介護する側・される側にはどうしても対等とは真逆の部分が心の片隅に存在してしまう。
こんなふうに、私と出会う方々が、たとえ身体的接触を伴わなくとも、私と接することによって何かしらの気づきを持ち帰ってくれたら、私自身も人の手を借りることを過剰に負担だと感じることなく、対等でいられることに心地よさを感じられるのだ。