東京駅の入ることができない店
先日、東京駅の駅ナカに用があり、ついでにその周辺でランチをしようと事前にリサーチしておいた飲食店に行った。
ところが、とても楽しみにしていたのにもかかわらず、入ることができなかった。
店内がすべてカウンターと、背の高いテーブルとスツールしかなかったので、車椅子では利用することが出来なかったのだ。
そんなことは数年前にコレド日本橋やコレド室町など、比較的新しい商業施設でも経験しているが、バリアフリーが進むこの時代において、まして日本の中心・東京の玄関口である東京駅で、まさか車椅子で入れない店がまだ存在するとは思ってもみなかった。
生まれたときから障害者をやっていると、こんなことにはよく出くわす。
いわゆる”よくあること”ではあるが、「またか」と半笑いしながら、実は社会からの拒絶を強烈に感じている。
店員から「申し訳ありません」と言われると余計にそうだ。彼ら・彼女らは謝ってその場を切り抜ければ終わるが、こちらはその拒絶感をずっと抱えていなければならない。オーナーもそこで働く人も、身内に病気や障害や高齢でなんらかの制限を受けている人がいないのだろうなと想像する。
だいぶ前のこと、仲良くしていた女友達がいた。彼女は健常者だ。
その彼女がある日こんなことを言った。
「私たちは行く場所を選んでいるから、何も困らないね」
私はその時、とても強い違和感を感じた。
続けて彼女が言う。
「バリアフリーが進まないのは、この国が資本主義・民主主義だからよ」
若かった私は自分の感じていた違和感をうまく説明できなかったし、彼女の言い分はしごく正論のように思われた。
しかし、私のことをよく知っていたであろう彼女が、そんなふうに言ったことにとてもショックを受け、結局その友達とは仲たがいした。
どんな場所にもどんな店にも行けて、その中から行く場所を選べることと、外的要因によって初めから狭められた選択肢から選ぶのとでは雲泥の差がある。本当は行きたい場所があるのに、条件によって選択肢にすら入れられないのだ。
資本主義で民主主義だからバリアフリー化ができないのも違う。様々なことに予算を使わなければならないのは理解できるとして、自分達の外側に理由があるために”障害”となっているのだから、その障害を取り除くことは社会的に大きな意義がある。
そういったことを私は彼女に説明ができなかったし、障害の社会モデルという考え方も当時は広まっていなかった。
物理的に行けるところを能動的に選択する考えはとてもポジティブではあるけれど、拒絶されたと感じるこの感覚とどう折り合いをつけたらよいのだろう。
そもそも、物理的に行けない場所や入れない店があること自体が問題なのではないだろうか。
それとも私が人や社会に期待をしすぎているのか。
私は、その店の美味しそうな海鮮丼を恨めしそうに見ながら、別の店に行くしかなかった。