タイムフリーが終わる前に♪9の音粋(#キュウオン)「音粋ヒストリアvol.5新田和長」2024,11,11つまみ聞き
当時日本では御法度だった“ミカバンド・テープ切り”生話に興奮するDJとやはり最後に長喋りの^^;DJ、2人の音楽トーク番組。BAYFM9の音粋(#キュウオン)月曜日。2024,11,11《音粋ヒストリアvol.5新田和長》タイムフリーが終わる前に是非お聞き下さい!ここではちょっとつまみ聞き。DJはスージー鈴木(スー)ミラッキ大村(ミ)ゲスト新田和長氏(新)※新田さんトークはほぼ完全書き起こし。
【21:00台前半 加藤和彦】
スー)はい、千葉の夜でございます。マリーンズから佐々木朗希がいなくなっても(※週末に千葉ロッテが佐々木朗希のポスティングによるメジャー挑戦を容認したニュースが出た。スージーさんはロッテファン)我々は千葉で音楽番組を続けて行こうと思います。フハッスージー鈴木です。
ミ)ミラッキ大村です。
スー)というトークもあまり滑舌が良くない、緊張してるスージー鈴木の声が聞こえるのはこのコーナーでございますね《音粋ヒストリア》。かつて様々な方々をお呼びしましたけれども、今日も凄いゲストが、それも収録ではなく生で来て頂いております。新田和長さんでございます!ありがとうございます、来て頂いて。
新)あ、こんにちはどうも、今晩は、だ。
スー)リアル新田和長さんがいらっしゃいますよ。何かと言いますと今目の前に「アーティスト伝説」(新潮社)新田和長さん、初の著書なんですね?
新)そうなんです。
スー)(サブタイトル)“レコーディングスタジオで出会った天才たち”という、もんの!凄く面白い本がありまして。いち早く買いました(私は)大好物なんで、こういう本。その話を中心にいろいろ聞かせて頂きたいというふうに思っております。皆さんご存知かもしれませんけど(新田さんの)一応ご紹介しますと、忌野清志郎、赤い鳥、フォーククルセダーズ、加藤和彦、北山修、財津和夫、サディスティックミカバンド。「トノバン」の映画(※’24,5公開加藤和彦のドキュメンタリー)にも出てらっしゃいましたね。加山雄三等々、名だたるミュージシャン、数多くのヒット曲を生み出して来た音楽プロデューサーの新田和長さんでございます。もう既にメールが来ております、東京都パンミさんから《日経新聞の書評欄で新田さんのご著書の事を知りさっそく購入しました》。
新)ありがとう。
スー)《キュウオン》この番組ですね《のゲストに来てくれないかなと思ったら早速実現し興奮してます》と言う事ですね。ラジオとかあんまり出られる事無いような気もするんですけど、どうですか?
新)そうですね、大概作ってますからね。
スー)かける曲を。
新)ええ。
スー)いつもこの番組で我々は加藤和彦の話とか、いかにも見て来たように喋ってますけど、見た事ないんで、後追いなんで。
ミ)実際はね。
スー)リアルタイムで加藤和彦を見てらっしゃるっていう話を聞くのが大好物で、さっそくいろいろ聞きたいんですけれど。まず21時台前半30分間は、加藤和彦の話をしたいと思います。そもそも新田さんは横浜のお生まれ。
新)はい。
スー)妙蓮寺。
新)そうですね。
スー)1945生まれ。そしてザ・リガニーズというバンドでデビューなさってる。
新)そうですね学生時代にね。当時学生は、今みたいにインディーズがなかったから、レコード出すって事が中々なかったんだけれど。たまたま早稲田のフォークソングクラブという所で活動してて。
スー)私の大学の大先輩です。
新)フフッそうですね、後輩ですね。
スー)ですので私をスージーと呼び捨てで結構です。それで『海は恋してる』(‘68)が大ヒットした。
新)ま、大ヒットでもないけど、学生バンドとしてはそこそこヒットして。それがご縁で東芝当時の音楽工業、後の東芝EMIに入社しました。
スー)ザ・リガニーズも東芝レコードの系譜だった?
新)そうです。その時の担当ディレクターが高嶋弘之さんとおっしゃって。
スー)(バイオリニスト)ちさ子さんのお父さん。
新)高嶋ちさ子さんのお父さんで、今年90歳ね。彼が東芝でビートルズの初代ディレクターだったんですよ。で、その頃はもう既に邦楽に転じてまして。由紀さおりの『夜明けのスキャット』(‘69)とか。
スー・ミ)先週かけました。
新)ああそう。
スー)大ヒットしたんですよね。
新)黛ジュンの『天使の誘惑』(‘68)とか『夕月』(‘68)とか。なによりもフォーククルセダーズの『帰って来たヨッパライ』(‘67)の担当ですね。
スー)このザ・リガニーズはフォーククルセダーズと共演をしている。
新)あそうですね。ほとんど時代が一緒だったもんですから、えーとフォークルとステージが一緒だったのは1968年9月の日比谷野音、それから10月の武道館。これはニッポン放送の公録(公開録音)でしたね。それから彼らの解散公演が渋谷で10月にありまして、10月17日かな。
スー)フフッ朝妻一郎さんと一緒で(※《音粋ヒストリア》vol.1‘22,3,28オンエア本note参照)、日付けまで記憶にある…。
新)それで僕はもう東芝に入る事が決まってましたから。実況録音を録るのを手伝いながらね、ステージの袖から下手からずーっと、手前が北山君司会やってねウッドベース弾いて、真ん中がノリちゃんで背がちょっと小さくて。
スー)はしだのりひこ。
新)うん、一番奥が加藤君トノバン、ギター弾いてて。彼の指がエライ長いんで、袖から見てても直角に指がギターに当たってるのが(見える)。
スー・ミ)ハハハハッ。
新)だからああいうね、後で多分かかると思うんですけど『あの素晴らしい愛をもう一度』のスリーフィンガーなんかもう見事でしょ。
スー)綺麗だなあと思いますよ。
新)あれは片方が石川鷹彦さんなのね。
スー)あぁそうですか。
新)石川鷹彦さんが買ったばっかのD-45でマーチンのD-45で弾いて。加藤くんが12弦弾いてたんですね。それなんか聞いても鮮やかですけど、やっぱり指がね長いっていうのはああいう12弦なんかをビシッとおさえられる、ぶれない1つの理由かな、って事を横で見てましたね。
スー)もう私なんて見た事ないんで、加藤和彦の指が長かったネックに直角に押さえてる、って話だけでもう大感激ですよハハハッリアルな話だなあと思って。それで『あの素晴らしい愛をもう一度』なんですけど、この本によると大事件があったという。レコーディングして音が違ったっていう話が。新)あぁその話ですね、事件はいろいろ他にもあったんですけどねフフッ。加藤君と北山君がボーカルダビングの最中にね、どっちの声がデカいっていうんでちょっと揉めたような事件もフフッあってね。
スー)ハハッ仲良さそうな二人ですけど。
新)うん仲いいんですよ、仲いいからもめるんですけどね。北山君の声っていうのは芯があるから目立つんですね。加藤君からすれば目立つんですよ。だけど北山君からすれば加藤君の声っていうのはボーッとしてるでしょ、芯が無いっていうか。柔らかいからそちらの方が大きく聞こえるんです。お互いに相手が大きく聞こえる。だから二番の《赤とんぼの》っていう所あるじゃない、最初は北山君のソロなんだけど途中から《あの時》って所からユニゾンになって途中からハモって行くんですよ。
スー)ハモりますハモります。
新)あそこでね、まず北山君最初に「加藤の声の方が大きいやん」って。
スー)ハハハハッ!
新)フフッ言ったの、で加藤君が「いやそんな事ないよ」ってんで、ちょっとそこは揉めたんですよ。そん時に僕はまだ東芝入って2年目だったんで。僕の先輩の朝妻一郎さん、東芝じゃないけど。
スー)フジパシフィック
新)フォークル時代にディレクターやってた朝妻さんがチーフだったのね。僕は彼の仕事ぶりを見てたんだけど。
スー)どうしました?朝妻一郎さんは。
新)朝妻さんはね、知らない顔をしてね天井見てたんですよ。
スー)天井⁈
新)あ!こういう解決の仕方があるんだって事を僕は教わった。
ミ)何も口をはさまない。
スー)ハハハッ。
新)そこでね、僕みたいなのが入って来て解説しちゃうと余計めんどくさい事になるんですよ。
スー)なるほど。
新)そんなのは意に介さないで天井見てて、その内終わったんですよ。だから朝妻さんはこういう時はああいう解決の仕方するんだなと。
ミ)何もしない。
新)何もしない。そうかと思うとね、編曲に関しては朝妻さんは凄い事やったの。レコードをかけて、当時CDないですからね、レコードかけて葵(まさひこ)さんていう編曲家にね「ここはこういうラッパを入れてくれ」。僕はフォークにね特に6弦と12弦のスリーフィンガーで始まるようなそれが基調で流れてるような音楽にトランペット入るっていう発想がなかった、合わないと思ってたのね。まして転調するなんてのは僕には考えられなかった。だって12弦途中で転調どうやって?カポを…。
スー)どうやって?途中でカポつけらんないですよね。
新)難しいでしょ?これ無理じゃない。ところが朝妻さんは実演の事は考えてないんですよ。レコードベイジズなんですよ聞いて良い方がいいってこと。だからそのぉ2番が終わり《広い広野に》っていうあそこのね、転調する3番に行くとこは転調した方がいいって言う風に彼は考えたわけ。それも半音転調じゃなくて全音にしたの。それをね何回もレコードを葵さんていうアレンジャーに聞かせながら「こうして欲しいこうして欲しい」ってやってる姿を僕は見てて「あ、こういう説明の仕方ってのは非常に効果的でわかり安いな」って勉強しましたね。
ミ)その時聞かせたレコードは洋楽?
新)そうそうそう。ちょっと何だったかは忘れちゃったけどね。
スー)じゃあ1回聞いて見ましょうか。石川鷹彦と加藤和彦のスリーフィンガー、そしてフォークなのにラッパが入ってる、全音上に転調する。そしてもう1個この曲に関して事件があったんですけど、それはこの曲の後にしましょ、聞いて下さい。
♪加藤和彦と北山修『あの素晴らしい愛をもう一度』
スー)今聞いてどうですか新田さん?
新)よくできてますね。
スー)できてますよね!
新)これがねこの録音をどこでやったかというと、ニッポン放送の1スタなんですよ。当時放送局ってモノラルしか録音ができなかったんだけど、ニッポン放送の1スタにはねステレオの機械が入ってたんですよ。そこで録音したわけ。で、その時のモニタースピーカーが三菱ダイヤトーンスピーカーだった。そいで誰も気が付かなかったんだけども、いい音してましたから気が付かなかったんだけど、実は調整がハイ上がりになってた。
スー)高音が強く出るという。
新)高音が強く出る、うん。だから「いい音だなぁ」と思ってマスターテープを持ち帰って、いつも慣れてるアルテックっていうね、スピーカー。
スー)別のメーカーの。
新)(アルテック)604Eっていういいスピーカーなのね。それで聞いたらモッコモコの音がしたわけ。
スー)ハハハッ。
ミ)あー。
新)なにこれ?って、ギターの音がギターに聞こえないわけ。で、これトン・ト・トン・トン・ト・トンっていう。実は加藤君がインド製の皮の椅子を買ってね、それを叩いてんだけど。これがもうモッコモコになっちゃてるわけ。もう声もモコモコなの。それで僕は慌ててど~うしようかと思って、録音課にマスターテープを持ってエンジニアと相談したら、いわゆるEQエコライザーのステレオのヤツを貸してくれて。「大丈夫だ」と。「ニッポン放送でいい音してたんだったら直せる」と要するに元に戻せると。「聞いてた音、君の耳の中に残ってる音そのまんまで作り直せ」と。そしたら「それを新しいマスターにするから」ってこと。
スー)これ’69,4って新田さん入社すぐですよね。
新)1年位経ってるんじゃないかな…いやこれ録音は’70。
スー)あ、’70ですね失礼しました。
新)でしょ?だからもう1年位経ってるんですよ。
ミ)でも1年くらいでこんな大きな仕事を。これはどうにか再現できたという事ですよね。
新)うん、だから要は聞いてたスピーカーがハイが上がってたんで、でも良かったんだから、それをEQを使って足んないハイを元に戻せば、元の音になったわけです。今で言う所のマスタリングをやったわけですよね。当時で言えばカッティングですね。いわゆるノイマンのEX68っていうカッティングマシンがあるんですね、それで溝を切るんだけどラッカー盤に。その手前でイコライザーとかコンプレッサーをかけて、音質を調整するわけですね。それをやったわけ、うん。
スー)でもこれボーカルとかもあれですけど、やっぱりイントロのギターの音が素晴らしい!です。
新)ええ凄いですね。
スー)新田さんのおかげですよ!
新)いえ、だから元の音を思い出して戻しただけの事で。やっぱり弾いてる人がいい楽器といいミュージシャンが作った音、うん。
スー)それで加藤和彦と一緒に今度は、加藤和彦がサディスティックミカバンドというバンドを組むと。それで皆さんもご存知の名盤「黒船」に行くんですが。これはクリス・トーマスが日本に来るんですよね。
新)そうですね。加藤君と一緒にクリス・トーマスを口説きにロンドンに行ったんですよ。
スー)ビートルズにも関わった。
新)ええビートルズの「ホワイトアルバム」の制作に深く関わったクリス・トーマス。その後プロコルハルムですとかね、うーんなんだろU2もそうだしピンクフロイドもやったしセックスピストルズとかバッドフィンガーとかね、そうエルトンジョンもやってますね。イギリスを代表するプロデューサーですけど。
スー)そんな人が日本に来た!
ミ)口説きに行った⁈
新)というのはね、ミカバンドの最初のアルバムっていうのが「サディスティックミカバンド」っていうタイトルで’73に発売したんですけも。それは加藤君と僕がプロデューサーだったのね。だけど加藤君がイギリスに行きたいツアーやりたい世界に出て行きたい、って事を強く考えるようになって。それだったら世界的なプロデューサーに作ってもらうべきだろうという事になって、クリス・トーマスを選んだのは僕じゃなくてトノバン・加藤君なんですけど。もちろん僕も賛成して一緒に口説きに行ったんですね。そいで‘74にクリス・トーマスを呼ぶんです。契約する時は、僕の出した条件を全部飲んでくれたんだど、プロデューサー印税とかいろんな事は。ただレコーディング期間は2ヶ月必要だって言われて。
スー)これが当時の感覚からするとめっちゃ長いって事ですね。
新)当時1曲オケ1時間歌1時間、2時間で1曲録音していた時代ですからね。アルバム1枚を2-3日で作っちゃう人が普通だった時にね、アルバム1枚作るのに2ヶ月日本に滞在するって言われて、面食らったんですよね。まずホテル代だけで製作費足らないですからね。
スー・ミ)ああー。
新)結果的に彼は4ヶ月日本でこれ300時間かけて作った。僕は彼の為にケン・コーポレーションて所に行って、まだケン・コーポレーションが出来た翌年だったんですけれどね。そいで1ヶ月間15万円の、東芝のスタジオ赤坂溜池からそう遠くない麻布の一軒家を借りてね。そいで4ヶ月間頑張ったんですね。
スー)次、サディスティックミカバンド「黒船」から今日は『どんたく』を聞こうと思うんですけど、なんかレコーディングの思い出とかありますか?
新)うーんこれは東芝当時のEMIの裏通りの、土曜日だったか日曜日の人通りの少ない時に、ライブで録音したんですよ、実際のチンドン屋みたいなことやって。
スー)あ、『よろしくどうぞ』
新)『よろしくどうぞ』。ノイマンのマイクロフォンの中で87というマイクロフォンは乾電池で動くという事が分かったんで、フフッそんでその87のマイクロフォンを使ってね。でこっちの録る方の卓は外録用のPPMなんかの外録に使ってた小さいシュアのアンプっていうのかなコンソールを使って。そん時入って来た今井祐君がサックスフォーンが吹けたんで、彼が吹いて会社の裏通りで録音した。
スー)『よろしくどうぞ』出ます?じゃ聞いてみましょうか、(※『よろしくどうぞ』流れる)このまま『どんたく』に行きましょうね。これ道で録ってる?フフッ。
新)道で。
スー)ハハハッじゃあこの道でのライブ録音『よろしくどうぞ』からそのまま『どんたく』に行きます、ミカバンド。
♪サディスティック・ミカ・バンド『よろしくどうぞ』『どんたく』
スー)練馬のお稲荷さん《サディスティックミカバンドの「黒船」がかかる事を期待しております》と言う事で、『よろしくどうぞ』から『どんたく』までフルでかけました。めっちゃ音ええな。22時台1曲目クイズでございます。もちろん新田和長さんがらみで東芝EMIエクスプレスレーベルから。その曲名はアルバムのタイトルにもなってます。そのアルバムの帯を読み上げます「日本フォーク界最高のコーラスグループ。ホニャララの素晴らしいハーモニー。日本のカーペンターズここに誕生」と書いてるLPのタイトルチューンですね。バンド名と曲名をお答え下さい、メール若しくはTwitter・Xのポストでろしくお願いします。当たった方には素敵なステッカーを差し上げます。
【21:00台後半 伝説の“テープ切り”・財津和夫 】
スー)興味深い話満載でお届けしております、新田和長さんをお迎えしてお話を聞いております。さっきのミカバンド『どんたく』どうでした?
新)加藤君の魅力が満載、輝いてますね彼が。松山猛君の詞もいいしね。要するに日本の音楽をロンドンにっていうか世界に広めたい。自分達が黒船になって今度はイギリスを攻めるっていう、こういう気迫が入ったアルバムだからね。日本の文化を紹介するっていう気持ちがあったんですね。その前のミカバンドのファーストアルバムはむしろ、T.Rexよりも音を突っ込んで、つまりコンプレッサーいっぱい使って。
スー)フフッめっちゃコンプレッサー使ってますよね、パッツンパッツンですよね。
新)うんパッツンパッツン。要するに聴覚上デカい音にしようとしたわけですね。だけどむしろこっちは日本的な良さ・文化を西洋に広めたいっていう願望があったから、こういうような音楽を作って行ったわけですね。『墨絵の国へ』とかね高中君のリードギターが入ってるとかね。
ミ)50年前にイギリスで成功してやるという発想が。
新)加藤君の家に当時行くとね、その頃は僕まだ加藤君の家に下宿してなかったんですけども、彼の家に行くともう家中がギター、エレキ。あ、エレキに変わるなって事はロンドンからいっぱいエレキ買って来てね。
スー)フフフフッ。
ミ)わあー。
新)レコードがデビッド・ボウイとかT.Rexとかあの辺のモット・ザ・フープルとかね。あ、これもう絶対UKのロックに行くなって事がわかるし、機嫌のいい時の口笛が♪チェチェChanges~とか歌ったりするしね。
スー)Yesの(『Changes」’83 )。
新)だからその辺のフォークルからアコースティックからエレキ、そしてイギリス世界をにらんでった、ちょうどこの変革期ってんですかね加藤君のとってもいい時ですよね。
スー)つい数年前まで綺麗な12弦ギターのスリーフィンガー決めてたのにハハッ。あと今聞いて「黒船」皆さんもお気づきだと思いますけど、ホントに!音いいですよね。50 年前と思えないですよ。
新)そうですね、この時はもう16チャンネルが入って来てたんですよ、16チャンネルのテープっていうのは2インチって言って1インチが2.54㎝ですからその倍ね。そのぶっといテープを切り繋ぎするんですよ。と言うのはテイク1,2,3って10本くらい録ってくじゃないですか、ね。例えば前半のAはテイク幾つがいいな後半のAつまりA’はテイク幾つがいいなBのオケはトラックは幾つがいいなって覚えてる訳ですよ。それを切って全部繋いでいくわけです、ところが繋ぐよりも前に切る道具がないわけ、まだ日本に。
ミ)ええー⁈
スー)フフッこれねミカバンド絡みの本で必ず出て来る“日本で初めてテープにハサミを入れた”っていう話。テープを切る事が日本ではあまり許されなかったんですね。
新)そう、高いからテープを切るなんていう発想がなくて、使いまわしです。だからミカバンドで使ったテープは例えばチューリップが使うとかね、チューリップで使ったのをオフコースが使うとかみんなで使いまわししてる時代、切っちゃいけない時代。テープが高いっていう時代。
スー)ビートルズで「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で『Being For The Benefit Of Mr. Kite!』テープ切り刻んだって話ありますけど、日本では御法度。テープが高級品だったんですね。
新)あれはさ「サージェント・ペパーズ」ん時は2チャンの2ミックスのテープを切り刻んだわけ。こっちはマルチだからぶっといわけ。
スー)アハハッハサミで切るんですか?
新)違う、剃刀で。
スー)アハハハッ。
新)いわゆるカッターって言うヤツレールがあるの。テープをね、カッターレールってトコにはめ込むわけ。
スー)切る時に置く所だ。
新)そうちゃんとはめるヤツがあってダイザーって。そこに剃刀を入れてこう切るわけ。だからミキサーの蜂屋(量夫)君通称ハッちゃんですけど。手が震えたっていうのね。
スー・ミ)ハハハハッ。
新)ホントは震えてなかったと思うんだけど、そういう話に尾ひれがつくわけね。
スー)細かい話ですけど、切ったのはいいんですけど繋ぐのはどうするんです?
新)それをスプライシングテープで繋ぐわけ。それは一緒です、テープを繋ぐのは昔の細い2チャンのテープと一緒。
スー)繋ぐ物はあるんですね。
新)(繋ぐ)テープはある。剃刀も一緒なんだけど台が無いわけさ、ぶっとい台が。
スー)アハハハッ!ミカバンドの本に必ず出て来る“テープ切った話”を見た人に聞けたなハハハッ。
新)その頃の東芝のコンソール、東芝電機が作った設計したコンソールで、やっぱりイギリスのSSLとかニーヴより弱かったんですね力がね。だからEQ使っても弱いから、幾つもステレオのイコライザーを2段掛け3段掛け、同じようなヤツを2段3段に繋いでね弱いヤツを補正して行く、強くして行くわけ。イコライザーって普通1個しか使わないでしょ?
スー)1個で上げたり下げたり。
新)例えば高域が欲しいから、7kとか9kとかあるいは10kとか。
スー)はいはい音域帯。
新)もっと目いっぱい高い15kとか上げようとかね、低い方がもっと欲しいからもっと90Hz上げようとか63上げようとか触るじゃないですか。それが足らないから、同じ機械をあるいは同じような機械を2台3台直列に繋いで、どんどんね。
スー)ハハハッ。
新)これでもかってくらいやってくわけ。
スー)上げて!上げて!
新)上げて。例えばリミッターもコンプレッサーもイギリスの連中がやってるのに比べたら日本は甘いから、何台も同じような機械を集めて来ては、直列に並べてかけてくわけ。
スー)リミッター3台繋ぎ?
新)3台4台繋いだ。そうなるとね東芝の1スタが軍艦みたいに。
スー・ミ)アハハハハッ!
新)積み上がっちゃってね。だからまず暑い、暗い、電気が通んないから。
スー)それミカバンドのファーストですか?
新)いやセカンド。クリス・トーマスが来た時。だからクリス・トーマスが来て最初にテープを切ったわけね、彼がそんなコンプレッサーでもリミッターでもイコライザーでも何台も繋いでやるって事を、僕らの目の前で教えたわけね。
スー)それビートルズ直系ですかね。
新)ビートルズだけじゃないけど、イギリスの最先端技術を日本に持ち込んだわけですね。
スー)でもその結果軍艦になったアハッ。
ミ)で黒船になってイギリスへ帰って行く。
スー)ああ上手い上手い。
新)フフッ最高だね。
スー)すみません財津和夫コーナーに行っていいですか。そこに九州から財津和夫という青年が現れるんですよね。これいつか新田さんの物語は朝ドラ「にったさん」になる。ストーリー考えてますから。第17話「財津という男」
ミ)ハハハッ。
スー)どんな感じの風貌で来たんですか?財津青年は。
新)えーっとビートルズの「ヘイ・ジュード」っていうね、日本では出てなかったんだけどアメリカで出てたアルバム。
スー)ありますね。
新)ありますね、あれのロングコートみたいなヤツでね、そいでスニーカーで。だから当時の日本の普通の人のファッションよりちょっとロンドンぽかったのかな。凄く礼儀正しくて教養もあって丁寧な言葉で。会社からTBSにテスト盤配って会社に戻って来た時に、エントランスの前で財津君が待ってて、「新田さんですか」って聞いて「そうです」って言って。「福岡のチューリップというバンドのリーダーの財津和夫と申します。どうしても聞いてほしいテープを持って来ました。聞いてくれますか」って言うんで。それを聞いてね「ああこの青年はきっといい音楽をやってるにちがいない」っていう風に感じたのね。
スー)まずその見てくれでね。
新)見てくれと言葉遣いで。僕がもし断ったとしても絶対帰んないだろうっていう気迫を感じたんです。
☆BGMチューリップ『魔法の黄色い靴』
スー)今バックに流れてんのが『魔法の黄色い靴』ですけど、めっちゃ難しい複雑なコード進行でなんとかでって。これ初め聞いた時どんな印象を受けました?
新)もう完成形だと思ったんですね。レコード会社が作ろうと思っても簡単には作れない。アマチュアの福岡のバンドがなんでこんな凄い音楽を作って持って来たんだろう、ってまずびっくりして。僕はビートルズが解散した後、どうして日本にバッド・フィンガーみたいなビートルズを思わせるようなああいうバンドがいないんだろう、ってずっと探してた、思ってたんで聞いた瞬間に「あ!これだ」っていう感じがしたんですね。なんか運命的な(ものを)感じました。
スー)この本の中にアルバム「魔法の黄色い靴」のレコーディングの様々なエピソードが入ってるんですけど。次の曲は私のリクエストで『千鳥橋渋滞』っていう不思議な曲があるんですけど、それをかけようと思います。なぜかというと1個は私福岡に行って焼肉屋玄風館っていう所で腹いっぱい焼肉食って出たら「千鳥橋」って書いてあって「ここかーっ!」。
新)結構小さい橋でしょ。
スー)ええ「なんやこんなとこか」っていう事と、本の中にエンディングの所でコーラの瓶を吹くとボーッと鳴るじゃないですか。
ミ)子どもの頃やりましたね。
スー)その音が入ってる、っていう非常に面白いレコーディングで録られた曲と聞きましたので、エンディングの所のコーラの瓶のブーンという音に注目して下さい。
♪チューリップ『千鳥橋渋滞』
スー)最後の方でモアンモアンっていうコーラの瓶を吹く音が聞こえると思います。
ミ)コーラの瓶に入れる水量を変えてハモらせたという。
スー)ハハッこういうのは財津和夫氏が指示するんですか?
新)そう、これはEのおさえ方で変形のF#m・それから変形のG#m上のEがずっと鳴ってる。
スー)☆ギターでコードを鳴らす♪~~♪~~。
新)そうそうそう。Eがずっと鳴ってるわけね。コードが変わってもオルガントーンが変わんない、それをヒントに財津君が考え出したコーラの楽器ですよね。
スー)さっき曲の間に仰ってた「財津和夫が僕をプロデューサーにしてくれた」というのはどういう意味ですか?
新)肩書上は僕がプロデューサーなんですね、だけども彼はなんでも僕にやらせてくれた。信頼してくれた任せてくれたからね、実験がいっぱい出来たの。例えばビートルズのピアノの音ってのはどうやったらできるんだろうって言ってね。僕達はグランドピアノのフルコンの穴の中に何本もマイクロフォンを突っ込んではね、そこにEQをかけてコンプかけてね。ああゆう『ヘイ・ジュード』のピアノとかね、うーんなんだろいわゆる『レディ・マドンナ』のピアノってのはちょっと変わってるでしょ?
スー)不思議な音ですよね。
新)あれはちょっとハープシコードっていうかホンキートンクみたいなチューニング狂わしてる、あれはちょっと別なんだけど。いわゆるビートルズのさ、ビートルズらしいピアノの音ってあるじゃない。あれはどうやったら出来るんだろう。エルトン・ジョンのピアノとも違うんです、ね。そういうのをどのマイクでどんなポジションで、どういうEQとかコンプとかリミッターかけてやってくと。あと定位ですね、パンを拡げた方がいい場合と縮めた方がいい。
スー)LとRの左と右でどの位の位置に楽器を置くか。
新)そうですね。そういうことを何でもやらしてくれたっていうか。だからスタジオが実験の場だったですね。
スー)私ホント不勉強でアルバム「魔法の黄色い靴」を聞いたのがホント最近で。ヒット曲は知ってましたけど。アルバムでホントに自由な、ちょっとヘンテコなコード進行とかね。メンバーが楽しみながら作ったって感じがしました。
新)財津君の偉い所は一人で全部詞も曲も書かない、書けるのに。姫野君に書かしたり安部君に書かしたり、今の『千鳥橋渋滞』ってのも姫野君の作曲なのね安部君の作詞なのね。そういう人にチャンスを与えた。それから今歌ったのは姫野君でしょ。普通ほら、バンドって今のバンド見てもそうだけど、大体リーダーが一人で全部やるじゃないですか。そういう所も財津君のいい所かな、ビートルズと一緒ですよね。
スー)次は泣く子も黙る『青春の影』鬼も黙るフフッ。これ本の中に草野晶一との思い出が書かれてました。
新)そうなんですね。段々と『心の旅』のリードボーカルが姫野君になって次の『夏色のおもいで』も姫野君『銀の指環』も姫野君。若いから段々アイドル化して売れて来ちゃった。
スー)当時可愛いですよねあの方。
新)可愛いでしょ。テレビはそれまではそっぽ向いてたのに売れて来るとテレビが出て来るじゃない。どんどんテレビ出るようになって、段々アイドルグループみたいになって行って。ある日財津君と「こういうバンドを僕ら目指してやったんじゃないよな」っていうんで。相当危機感を感じて「原点に戻ろう」って話になって。「本当のロックって一体どういうモノなのかねぇ、激しいだけがロックじゃないよね」っていう話になって。「もしかしてロックの真髄ってさ、バラードかもしんないね」みたいな話になってったんですよ二人で。
スー)いい話だなあ。
新)ちょっとさプロコルハルムの『青い影』みたいな、ドシラソって下がってくようなヤツとかみたいな話を僕がしたんです。
スー)いわゆるカノンの進行ですね。
新)カノンの進行をね。そうしたら財津君は「そうですね」って言ったんですけど実はそれだけじゃなくて、ポールの『The Long And Winding Road』の感覚を足して来たんですよ。そいで出来たのがこの『青春の影』なんですよ。
スー)今の話も含めて聞いてもらうといいかもしれません。
♪チューリップ『青春の影』
スー)どうですか?あと2分30秒あります。
新)財津君と話したのはね「売れなくてもいいから本当にいい曲作ろうぜ」って話から「売れない曲作ろうぜ」っていう話まで行っちゃって作ったもんだから、プロダクションの社長(シンコーミュージック)のね草野晶一さんが新曲の発売に反対したの。
スー)これはシングルじゃ無理だと。
新)うん。彼は’60sのアメリカンポップスが好きだから、こういうちょっとブリティッシュなヤツはバラード系はあんまり好きじゃないのね。だから草野さんは反対したんですよ。
スー)いやぁ…。
新)それを財津君も僕もよく覚えてたの。で草野晶一さんが亡くなってね、正直に言うと草野晶一さんが亡くなって、シンコーミュージックから追悼の文章を書いて下さいって僕に依頼が来たの。で僕は書く前に財津君と話したくて僕の方から電話したの。そしたら財津君がね「お墓参りに行ったんですよこの間、草野さんの。泣けちゃったんですよ」どしたの?って聞いたらお墓にね、墓誌ってあるじゃないですか。“僕が愛した音楽”って彫ってあって全部英語なんですよ、カントリーから始まってプレスリーからビートルズ行ってイーグルスとかね、そういう一連の英語の中に“チューリップ「青春の影」”って日本語が1つだけあったんですよ。それ見て涙が出たんです泣いたんです。って。で財津君が「草野さんこの曲反対でしたよね、好きじゃなかったですよね」って言うから「そうだったよね」って話して。「いつから好きになったんだろう」だから草野さんは途中から好きになったんですよ。
スー)素晴らしい話ありがとうございます。22時台もよろしくお願いします。
【22:00台 小田和正・赤い鳥】
【告知タイム】
スー)いよいよ2週間切りましたBAYFM9の音粋月曜日のイベント「Yの音粋」スージー鈴木誕生祭58歳。今回も会場が広いんですよ吉野町市民プラザなんと200席あります。まだまだ席余ってますハハッ。ゲストまちだガールズクワイア石田ショーキチさんとのトークショー。各種有名人から様々なコメントも集まり、そして私がデザインしたステッカーも恐らく配れるだろうという事でございます。そして私の新刊「大人のブルーハーツ」(廣済堂出版)の世界一速いサイン本の物販も行いたいと思います。よろしくお願いします。今んところ十分なソーシャルディスタンスをもってお座りになる事が出来ますハッハッハッ。
△12/10(火)19:00いつもの南青山BAROOM「スージー鈴木レコード研究室」というイベントあります。実は今年の春かなこのイベントで“東芝EMIナイト”をやりまして、新田さんと出会う前だったのでもったいなかったなと。
スー)10時台1曲目クイズステッカー当選今回はこの方にしましょうかね。Twitter・Xで頂きました。なんとアカウント名が「Oh! Yeah!」koda。ちょっと小田和正臭が強い名前なんですけど。
新)フフフッ。
スー)“日本フォーク界の最高のコーラスグループ オフコースの素晴らしいハーモニー。日本のカーペンターズここに誕生”オフコース『僕の贈りもの』。「Oh! Yeah!」さんにステッカー差し上げますおめでとうございます!
そうなんですよ“日本のカーペンターズここに誕生”フフッ。新田さんジ・オフ・コースとの出会いってどんな感じでした?
新)タクシーの中でたまたま聞いたのが、’69,11だったかな厚生年金大ホールで第3回ヤマハライトミュージックコンテスト。
スー)伝説のね。
新)そいでその時のライブ収録をしたのがTBSラジオ。で、僕がたまたま新入社員で会社に入ってですね、まだ半年経ってない時かな、タクシーん中で流れて来たのがジ・オフ・コースがビートルズの『In My Life』をカバーしてるわけ、ね。そっからにして違うでしょ?もう1曲はJoanie Sommersの『One Boy』これをね自分達流にアレンジして歌ってるわけ、ギター弾いて。「あ、凄いバンドが出て来たなあ」で、タクシーの運転手さんにボリューム上げて貰って、身を乗り出して聞いたのがこのジ・オフ・コースね。そいで「契約したいな」僕もまだ新人ですから、いわゆる担当アーティストがいないから、ヤマハに掛け合って。
スー・ミ)早い!
スー)やっぱり行動力ですね、大プロデューサーになるには。でも今の話はタクシーの運転手さんがボリューム上げてくれてよかったですねハハッ。
新)そうね。
スー)でもあの伝説のライトミュージックコンテストだから、赤い鳥が出て。チューリップの前身フォーシンガーズが出て。全部(のバンドと)お仕事してらっしゃいますよね。
新)そうなの。いや実はねオフコースを聞いて、小田君と鈴木康博君と地主道夫君って3人が当時いましてね、凄いいい感じだったんですね。契約したいなあと思った、だけど次に優勝バンドが紹介されて、そこで出て来たのが赤い鳥なんですよ。そいでこれが『竹田の子守唄』やったんですよ、ね。
スー)凄かった。
新)なんだこれは⁈と思って。僕はもうどちらがいいかわかんなくなっちゃって、混乱しちゃって。そういう時って僕の行動パターンは両方とも獲得に行ったんですよ。
スー)(※拍手パチパチパチ)二兎を追う者は二兎を得る。
新)そいでね赤い鳥は関西の武庫之荘(兵庫県尼崎市)ってとこに住んでいて、後藤悦治郎君(後の紙ふうせん)と交渉して話はうまく言ったんだけど、彼らはもう準備が出来てて明日にでもプロになりたいわけ、東京に来たいわけ。5人ですから僕は東芝音楽工業というレコード会社の一社員でプロダクションではないから、彼らに家を提供する事も食費を提供することも何にも出来なかったの。で、結局赤い鳥は村井邦彦さんと契約したの。で、村井邦彦さんは彼らの為にバード・コーポレーションというプロダクションを作ってあげたんで。
スー)こっちも行動力あるなハハッ。
新)これはねぇ競争になりませんよ、村井さんの方に赤い鳥は行ったわけ。ところが1年もしないでね、村井さんと僕とがたまたま街でどっかで会ったんですよ。「新田君、赤い鳥なんで売れないんだろう」。彼はコロンビアレコードに持ってったわけね、でそれはね売れなかったんですよ。僕は簡単にね、もう信念があったから「あ、村井さんそれは東芝に来れば売れますよ」って言ったの。
スー)ハハハッ。
ミ)おー。
スー)それ根拠はあったんですか?
新)うん根拠あった。村井さんもほら純粋だから「どうして?」ってあの人身を乗り出して来るじゃないですか「どうして?」って。そりゃね『竹田の子守唄』はいくら山上路夫さんが優秀な作詞家でもね、ああやって詞を書き直しちゃって『人生』って歌にしちゃダメですと。あれは意味がわかろうとわかるまいと響きですから、言霊ですから、元のまんまじゃなきゃダメです。東芝に移籍してくれれば、僕は『竹田の子守唄』の録音のし直しからゼロからやり直します。
スー)確かに僕も中古レコード屋で赤い鳥『人生』ってシングル見つけて、こんな曲あったっけ⁈なんか野暮ったい名前だなと聞いて、あ!『竹田の子守唄』だって。全然知られてないですよね。
新)そいで村井さんにこう言ったの。1列に並べたらダメですよと。馬蹄形にメンバーを並べるんです、半円形U字型にね。両サイドに後藤悦治郎君と山本俊彦君、ど真ん中にセンターにベースの大川茂君その間に新居(山本)潤子さんと平山泰代さんを入れるんですよ、つまりシンメトリーにするんですと。同録しないとダメ、ウッドベースとギター2本と歌とが半円の中にこだましないと歌が溜まんないとああいうコーラスはできないから並べたらダメですって言ったの。「マイクはノイマンの指向性を何度に…」って言ったら村井さんが「わかった新田君移籍するよ」って。
スー・ミ)アハハハハッ。
新)凄いですよ。「1個だけ条件がある」普通はこういう時、移籍料とかお金の話が出ると僕は思ってたの、違うの。「僕がイントロの4小節をチェロのフレーズを書くからそれを足してくれるか?」って言ったの。
スー)条件それ?
新)凄いよ。アコースティックギターだけでも成り立っているんですけど、ちょっと地味なのね。8小節のイントロなんだけれど「そこに僕が4小節、半分ね後半の4小節に書くからそれを足してくれ」っていうわけ。
スー)後で『竹田の子守唄』聞けます?あ、まずクイズやりましたから日本のカーペンターズ聞きましょうか、前後しますけれど。
♪オフコース『僕の贈りもの』
スー)初々しいオフコース’73『僕の贈りもの』ブレイクまで時間かかったって事ですね、チューリップに比べてオフコースは。
新)まあそうですね。小田君自身がね建築家になるか音楽家になるか選択で迷ってた時期が結構長かったしね。でもその間先に売れた人達、例えば南こうせつさんとかぐや姫とかね、ああいう人達を観察する時間があったから、それは小田君にとってはとても良かったと思いますね。
スー)『さよなら』(‘79)でブレイクして’73(☆スージーさんの言い間違い。伝説の武道館連続10日間コンサートは’82)武道館コンサート53万通の応募があったとか。
新)はいそうですね。
スー)今『さよなら』が流れてますけど、これでガッ!と来たんですよね。それで’82武道館コンサートでめっちゃ盛り上がり、鈴木康博さんがいなくなり、4人になったオフコースに新田さんは「中国に行こう」と言うんですよね。どういう事から?
新)うーん要は4人になったっていうか、なるかならないかっていう。小田君としてはね、生涯鈴木康さんと一緒にやってくつもりで音楽をやってたんですよ。ま、お互いにそうだったと思うけれどもね。だけど抜けたいって事を意思表示したのは、鈴木康さんの方なんですね。それを小田君は1年半位誰にも言わないで、言っちゃったらホントになっちゃうんで、戦ってたんですね。で、結局’82,6,20の武道館10間公演で5人のオフコースは終わったわけ、事実上ね。それからしばらくしてすぐですけど「どうしようか」って相談を小田君と僕でしたの。っていうか小田君が相談に会社に来てくれたんですね。そん時に「僕は生涯ヤスと一緒にやるつもりでいた」と。それから「彼がいないオフコースを続ける意味があるんだろうか」とそれどころか「自分が音楽続けていいんだろうか」ってそこまで小田君が言ってましたね。で僕も答えに窮したっていうかね、もうほとんど会話になんない。彼のずーっと溜めてた悩みを聞くのが精一杯で。どうしたもんかなあと思って僕は思わずですね、自分の会社のつまり東芝EMIの社長高宮昇さんが中国に準国賓待遇で招かれていることを知ってたんで。
スー)まだ今みたいじゃなくて、凄く中国と日本が簡単には行けない。
新)そう簡単には行けない時代ですね。高宮社長にお願いして随伴、小田君と清水仁君と大間ジロー君と松尾一彦君と僕と5人で、厳密に言うと石沢君ていうマネージャーと6人で、一緒に中国に連れてって貰おうと考えて、「小田君中国に一緒に行かないか?」と言ったんですよ。小田君は怪訝な顔してね「中国になにしに行くの?」「なんか中国行くといい事でもあるのか?」って聞くから「僕も良くわからないけど、あの中国の広大な国土と長い歴史と文化に接すればね、なんか答えが見つかるかもしれない」って言ったんですよ。そしたら小田君が「そうかもしれない」って。
スー・ミ)ハハ。
新)小田君も凄いよね。一緒に行くことになったんですよ、それで3週間ですよ。北京・承徳・西安・洛陽・上海、誰も行った事ない未知の世界に。
スー)当時はね。
新)いわゆる人民(大)会堂、あそこに僕ら着いてすぐ赤絨毯のあすこに呼ばれて。彼らもやった事がない、「新田さん条件が1個ある、中国行ってもいいけどネクタイだけはヤだよ」って言われたのね。だけど人民(大)会堂でネクタイしないってわけ行かないんで「人民(大)会堂だけはネクタイして欲しいみんな」って言って、小田君もやってねフフッ。そういうね着いた日からやっぱりカルチャーショックっていうか。なんだ“日本的”って思ってたものの相当部分が、中国から来てるんだと。阿倍仲麻呂(遣唐使で唐に渡り36年滞在し帰国)が遣唐使で日本に帰れなくなって、日本を偲んで柱に書いた歌(☆天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも)かなんか西安だったか洛陽で見つけて(☆西安に歌碑がある)、1200前かなんかに来ている日本人がいて、帰れないでこうやって歌作ってたんだ、って僕ら見てね。もうね、なんて僕らの悩みは小さかったんだろうっていうか、まぁ異次元だからね大きい小さいではないんだけれど。4人でやってこうっていう事にしっかり固まってったわけですね。で、向こうの人達が北京で別れる時にね、お別れの会をやってくれたわけ。で翌日日本側が答礼宴ってそれに答える宴を中国料理店で催したわけ。そこでみんなが挨拶したんだけど、オフコースは挨拶しないで歌を1曲披露したの。小田君がギターを持って、小田君って偉いんですよああいう時ね。みんなはカメラとかいろんなものを持ってたんだけど、小田君はオベーションのギターを1本持って来た。そのオベーションのギターを弾いて挨拶の代わりに『いつもいつも』っていう歌を披露したの。
☆BGMオフコース『いつもいつも』
スー)今バックに流れてるこれですね。
新)これこれ。
スー)ああいいですねアルバム「Three and Two」に入ってますね。
新)「Three and Two」の一等最後にちょっとだけ、田園コロシアムのライブが入ってる。これを歌ったの、あなたのことは忘れないよと、故郷の友だちのように。これを中国の通訳の人が訳してくれたの。
スー)どんな反応でした?
新)みんな泣いて、中国の人も泣くわけ通訳の人も泣きながら通訳してるわけ、僕もそれ見てて一緒に泣くわけ。だってもう我慢できないみんなもらい泣きですよ。今から考えるとこれ4人のオフコースの最初の歌、ライブだった。今から思えばですよ。
スー)この辺の話は「アーティスト伝説」(新潮社)に詳しく書いてありますんで、この話の続きは是非読んで下さい。時は流れ平成になりそしてファンハウスレコードを設立し社長になられます。大ヒット曲小田和正がソロとしての、皆さんご存知のこの曲でございます。
♪小田和正『ラブ・ストーリーは突然に』
スー)Twitter・Xを見ていると、いきなり時代飛びすぎやっていうご批判を頂いてフフッ。ファンハウスレコードですが、東芝EMIの子会社って感じですか?別会社?
新)うーん別会社ですね。
スー)この本の中ではCBSソニーとエピックソニーの関係みたいな話も書かれてましたけれど。
新)結局1968年にできた後発のCBSソニーという会社がわずか7年で日本一の売上の会社になってしまって、僕がその部長になった時に部長会に出ると、先輩達はCBSソニーの羨ましいなあという話ばかりしてるわけですよ。それはやっぱり聞いてて辛かったっていうか。
スー)サラリーマンはそういう話しますよね。
新)じゃどうしてそのCBSソニーが短い時間でそれだけの会社になったかという事を真剣に研究したらいいじゃないかって事を、僕は一番若い部長なんだけれど提案して。幾つか理由があったんだけれども、今となっては出来ない事がたくさんあってね。ソニーと東芝では生い立ちが違うからね。経営と資本の一致とか言ったって今更できないですから。出来る事が1つだけあったんですね、それは分社政策だったの分社化。要するに(ソニーは)1978年に創業10周年記念事業の一環として100%収支の子会社のEPICソニーを作ったわけ。それによっていたずらな合議を排したわけ。人数が多いと合議制になるじゃないですか。意思決定のスピードを上げたわけですよ。
スー)丸山(茂雄)さん。
新)丸山さんのEPICは例えばフリオ・イグレシアスとかシャネルズとかね。例えばなんだろロック系のモノやるとかね。CBSソニーの方は松田聖子さんとか山口百恵さんのようなアイドルやるとかね。いわゆるレーベルの個性を出せるわけ色を、でしょ?
スー)はい。
新)東芝もそれはできると、分社化しようと提案したわけですよ。
スー)新田さんが。
新)私がね。だけど総論においては賛成されたんだけれども、各論において否定されたわけ。どうしてかっていうと「誰がやるんだ子会社なんて。いったい」給料も下がっちゃうし若干ね、なんとなくステータスも下がるし。「そんなの僕ら構いませんから、僕は一向に構わないから、私がやります」。
スー)また行動力や。
新)だってそれで音楽やってるわけじゃないからね。やりますって言ったら「君達はだめだ」と「採算部門-もっとも稼いでる部門だから残らなきゃだめだ」って言うんで一年半位悶々としてたわけですよ。そいでずーっとこういうわけにも行かないから、ある日、ある日ってのは新年の年始式の社長の挨拶が終った10時に、当時の多久(安英) 社長の部屋に30名の部員の辞表を持って。
ミ)ドラマだハハッ。
スー)ハハ赤穂浪士や。
新)まあね、僕はそん時言った事は今でも全部忘れない、何故かっていうとずーっと何言うか考えて何か月も考えてたし、紙にも書いてあるから。
スー)ちょっと待って下さいね。その話エエ感じなんですけど、CM流さなきゃいけないんで。というわけで22時台後半はファンハウスの話を聞きたいと思います。
【ラスト・ゾーン 新田さんの闘い・森山良子・ジョージ・マーティン】
スー)前回までの話の続きでございます。朝ドラ「にったさん」堺正人演じる新田和長が。
ミ)日曜劇場でしょ、それ。
スー)’84の年始式10時に社長室に行って、何言うたんですか?
新)「社長!」と。「今から私がする話は決して会社にとって悪い話じゃありません」こう言ったの。というのは根拠があるんですよ。「僕は新会社は、工場を自分で持たないから作らないから、東芝の工場にプレスを委託しますから、製造差益で儲けて下さい」って言ったの。例えば1枚のCDが65円とするじゃない、したら85円でも何でも高くすればその分東芝は儲かるじゃないですか。
スー)利ざやが。
新)利ざやがね。製造差益で儲けて下さい、と。僕達は営業体を持ちません、セールスを持ちませんから東芝の営業を頼りますから、それで販売手数料で15%で払いますから、それで儲けて下さい。つまり新会社が成功すればするほど会社も儲かるスキームなので、冷静に聞いて頂きたい。ここに部員30 名全員の辞表があります、ってこう言った。重いんですよ30名の、封筒に入ってるから、一人一人。
スー・ミ)アハハハハッ!
新)わかりますよね。
スー)えー、新年ですよね、新年の一番初めの日ですよね。ちょっとお屠蘇気分っていうか当時なら晴れ着姿の社員もいるような、おめでたい気分の朝10時にその話したんですか?フフッ社長びっくりしませんでした?
新)でもその話はもうかれこれ1年以上続けて来ましたから。僕は僕なりに部長として社長宛に督促出してますからね。返事来ないわけですよ。返事がないから最後実力行使ってヤツですね、しょうがない。それで会社が多久社長が提案したのが、最初の1年間は東芝100%の会社にしよう。そうすると東芝EMI発意で作った会社に見えるじゃない。そうすっとクーデーターにならないから君らも反乱軍にならないで済む、私達も経営責任を問われないで済む。親会社から東芝電機から。という事で、しょうがない僕は手打ったんですよ。で、1年経った時には50%の株式を譲渡してくれるって事を紙に書いて下さいって。それで実は3/31辞めるまで書いてくれなかった。だから闘ったんですよ、ホント言うと。天下の東芝から来た人が、天下の東芝EMIの社長がね、約束した事守らないってどういう事ですかって。
スー)今の新田さんの目の迫力見たら、そん時の東芝の重みがわかります。新)だから僕はファンハウス作ってから1年2年は東芝EMIとの、結構係争事に追われた。弁護士とのこと。もう裁判するかしないかギリギリまでやった。それは相当僕にとってマイナスだった。でもそん中から初年度33億円二年度47億円、そして今の小田和正 君の『ラブ・ストーリー』なんかもあるけど、その前に稲垣潤一君がヒットいっぱい作ってくれた。小林明子さんが『恋におちて』(‘85)それから永井真理子さん『ZUTTO』(‘90)それから岡村孝子さんが『夢をあきらめないで』(‘87)いっぱいヒットがあった。
スー)ミラッキ君はファンハウス好きなんですよ。
ミ)イエロー・モンキーとか大好きなんですよ。
新)イエロー・モンキーはね最後の方。だからね、えーと僕の一番の失敗は本社屋を作った事。それは銀行から勧められたんですよ。何故かって言うと会社の売上が150億越しちゃって175億まで行っちゃったからね。
スー)それは当時の時代もねえ。
新)銀行が本社屋を健全な会社だったら土地を買って本社屋を建てて、かつてのソニーやホンダみたいにね、小さい土地でいいから本社屋を建てるべきだっていう指導があった。
スー)まあ当時はそうですね。
新)でもね銀行の事を責めた事は一回もないの。決めたのは僕ですからだからそれは僕の失敗、しょうがない、時代が悪かった。地鎮祭をやってる時に、紅白の垂れ幕で神主さん来てやってる日に、もうバブルが崩壊し始めてたって事を、そん時列席してた銀行の各支店長さん達も、それも三菱銀行ですよ日本興業銀行ですよ、それからあさひ銀行、そういうとこのみんな支店長さん達がまだ気が付いてない。僕が気が付くわけがないよ、これはしょうがない。ホテル作ったんでもないしゴルフ場作ったんでもない。レコード会社に必要な本社屋とスタジオとホールを作ったんだから、僕としては納得行ってますけどね。ま、でもそれが一番のアレで結局BMGっていう外資に70 億円で営業譲渡したの。それで株式会社BMGファンハウスが出来て、僕がそこの代表取締役副社長になったの。社長はね佐藤修さんっていう立派なね、BMGの慶應出たビクターの常務やってた人なんだけど、まぁそういういろんな事があるんだけれど、ここは生放送、こん位にしときましょうフフッ。ミ)ハハハ。
スー)でも本の中にはある程度書かれていますんでね。それでドリーミュージック2001年。
新)でね、外資に与して見て僕はなんか捕虜になった感じなんですよ、4年半位。
スー)ほお、じゃあ朝ドラは無理だなフフッ。
新)要するに外資ってね、やっぱり欲しいアーティストが見つかると金はいくらでも出すから取って来てくれってことを言うわけですよ。それ僕の方針に合わないんですよ。僕はいいと思ったアーティストを自分で見つけて、一緒になって時間かかってもいいから成長して貰ってずーっとやってく、っていうね。そんな行ったり来たりみたいなそういうね、なんか今売れてるから金だけ出すから来いっていう、そういうの合わない。
スー)M&Aする感覚ですよね。
新)そう、合わない。それから経営が今厳しいから社員を50名いっぺんに切ってくれ、とかそういう事言われても僕にはできないの。だってレコード会社の一番の財産って社員だから人だから、ね。外資とはできないなと思って、そいで小田君にも、そん時小田君が札幌に行ってたんだけれども別れを告げに札幌に行って「明日俺は辞表を出すから」つって。小田君に別れ告げて、そんな厳しい時に闘ってる時にイエロー・モンキーが来てくれたんだよ、また。吉井和哉君達が。だから彼らと何年間か仕事してね、またヒット作るんだけれどもいろんなドラマがあったんだけれども、それはちょっと置きましょう。
スー)ええ、それはTBS日曜9時ドラマ「にったさん」で。
ミ)2001年ドリーミュージックが出来るんですけれども、森山良子さんの『さとうきび畑』が大ヒットするんですよね。
☆BGM森山良子『さとうきび畑』
新)要は外資とじゃなくて国内資本で日本人で納得のいくようにやりたいなと思って作ったのがドリーミュージックなんですね。そこに良子さんが来てくれた。それで良子さんが大事に歌って来た歌があって、それがこの『さとうきび畑』なんですよ。
スー)この本に中に、レコーディングにまつわる様々な新田さんの御指示がフフッ。
新)そんな話していいのかどうなのか、時間がどうなのか。
スー)大丈夫ですよ。
新)そう。
スー)始めは鍵盤楽器がバックだった?
新)そう、キーボードのアルペジオをバックに良子さんが歌ってたの。で、担当の森(光夫)君っていう優秀なA&Rがね、どうだって言って僕に聞かせに来てくれたの。割と自信を持って来てくれた。僕は聞いた瞬間に「キーボードの伴奏はダメだ」って言ってねフフッ。「なんでダメなんだ?」っていうから「キーボードのほとんどが男性だろ?」って言ったんですよ。そしたら「キーボードは男性とは限りませんよ」って反論したからね。「半分は男性だろ」ってハハッ。
スー・ミ)アハハハッ。
新)要はね、この歌は沖縄のさとうきび畑の地面の中に土の中にね、まだ何万人っていう英霊がね、眠ってる。その「お父さんどこへ行ったの?」って娘さんが探しに行く歌なのに、良子さんが一人で歌うならともかく、横に誰かがいて、まして男の人でピアノ弾いてるってわけに行かないでしょう。って話になって。自分のギターでやっぱり弾いてほしいって言ったの。
スー)はい、いい話ですね。それでギターにして、この本によると森山さん本人のギターに代えろって言ったんですね。
新)このギターじゃちょっとダメだなぁって言ったのフフ。つまり感じなかったのね。そしたらこのギターは今スタジオで有名な売れっ子のアレだ、って言うから「いやいや、いくら有名でも感じないんだ」と。
スー)フフッはい。
新)で、このアルペジオは森山良子さん自身が一番上手いから良子さんに弾いてもらったらいい、って言ったんですよ。そしたら「私も最初はそう思ってたけど、良子さんこの10年間弾いてませんって言うから」。それは僕はもったいないと思って。結局良子さん弾いてくれたの。そうしたらあの人勘がいいから、録音が済んでいた自分の歌が違ってるって気が付いちゃったんだ。ギターを録り直したら「歌を録り直したい」っていうわけ。それが夜中の2時なわけ、土曜日の夜中で日曜日には撮影に行くの、ジャケット撮影、横須賀へ、芝生の上で、沖縄みたいな所で。で、スタッフが明日撮影だから、やっぱりいい顔して写んなきゃいけないから、って言ったんだよ。そしたら「顔なんかどうでもいい」と。「音楽の方が大事だ」って言ったの。良子さんはホントはミュージシャンなの、あの人はアーティストって言葉がそんなに好きじゃなかった。「私はね、アーティストっていう曖昧な言葉あんまり好きじゃない。シンガーで十分」シンガー、あるいはミュージシャン。あ嬉しいな、やっぱりミュージシャンなんですよ。
スー)自分のギターだからこそ、歌も自分のギターに合わした歌を入れるって事ですね。
新)そう。それで録り直したの。でもね、ここでやめちゃうと、僕が偉そうなこと言ったっていう自慢話みたいに聞こえたらいけないんで、ちゃんと言うとね。森君っていうA&R(※Artists and Repertoire-アーティストの発掘育成、楽曲制作、宣伝)の天才がレコード会社にドリーミュージックにいました、って事を僕は書きたかったの。何もアーティストだけを作曲家だけを天才と言ってんじゃなくて、やっぱりレコード会社にはこういうね嫌な上司の下でね、ちゃんとアーティスト守りながら、忍耐強くちゃんと外れないで作ってく人がいたんだっていう。この森君の事も書きたかった。
スー)と言うわけで話は尽きないんですけど、最後はやっぱりビートルズとジョージ・マーティンの話を聞きたいと思ってます。時間もアレなんですけど、この本の中で1個だけジョージ・マーティンの言葉ですっごいいいなと思ったのが《ビートルズから学んだ最も重要なことは、平凡を受け入れないという信条だった》凄いですよねこれ!
新)うん、平凡の事をね彼は“ordinary”って言ってたんですね。平凡を受け入れないこと、”並“が一番嫌いだ、”並”。要するにビートルズと出会って最初は僕が先生だった。スタジオの事慣れてるからね。ジョージ・マーティンがビートルズに対して先生だったと。しかし彼らは短期間にそれを習得して、逆に僕に幾つかの大事な事を教えてくれた。その中の一番大事な事は並を受け入れない事、平凡を受け入れないって事だ。
スー)《not to accept “the ordinary”》
新)“the ordinary”。それでね《見えない水平線の向こうを裏側を見るっていうその力だ》ってそこまで言ったの。僕はそれを書いた、彼のタイプ打った言葉、彼が実はある講演で喋ってるんだけど、それを貰って今でも大事に持っている。
スー)《彼らはほとんどの人にとっては限界に思えるようなことでも常に超えようとした。不可能だと思われていた芸術に対して僕の目を開かせてくれたんだ》。最後にひとつ、この本の中で新田さんの、アビーロードのテープが日本に届いて一番始めに聞かれたんですよね、日本でフフフッ。
新)それはたまたまの話なんですけど、高嶋弘之さんっていう初代のビートルズ担当ディレクターが、僕の上司だったんですね。「新田、タイミングチェックしておけ」ってぼーんと渡されて、見たら10インチのこういうデカいテープなんですね。それ見たらEMIからでザ・ビートルズって書いてあった。
スー)アハハハッ!
ミ)ワァー。
新)フフびっくりしたんですよ。「ABBY ROAD」って書いてあるんだけど意味がわかんないんですよ。まだ全然わかんなくて、ただビートルズの新しいアルバムが来たなって事だけは感じるわけです。そいでそのAB面のテープを持って視聴室に入って聞くんだけど、ホントに手が震えるっていう。普段使ってるテープレコーダーなんだけど、上手く触れないですね、だって最初に聞くわけですからハハッ。
スー)じゃあそのテープで聞いたアビーロードの1曲目に入ってる曲を、すみません新田さん曲のご紹介して下さい。
新)それは『カム・トゥギャザー』ですよね。
スー)ビートルズ『カム・トゥギャザー』
♪The Beatls 『Come Together』☆珍しくフェイドアウト
スー)えーアビーロード『カム・トゥギャザー』を日本で初めて聞いた方とお届して参りました、9の音粋月曜日。時間がなくてすみません、もっともっと聞きたい事はあったんですけれど。
新)いえ。
スー)最後はビートルズ『カム・トゥギャザー』にのせてお届けしたいと思います。先に来週の話でございます。来週は《第6回音粋紅白-40代50代》。11/24のイベントが私の58歳の誕生祭なので50代の力見せつけるぞと言う事で、私が50代の歌、ボーカル、ミラッキさんが40代ということで、またメールやポストの総量で、40代・50代どっちが勝ったか決める、音粋紅白。これまでの勝敗は?
ミ)私が3勝スージーさんが2勝です。
スー)皆さん分かってますよね、誕生祭が近い老人の私に報いて頂きたい。是非判官びいきの。
ミ)これ先に4勝したら何かあります?
スー)えーとね、佐々木朗希が帰って来ます。
ミ)アハハハッ。
スー)ビートルズらしくクレジットも言いたいと思います「BAYFM9の音粋お相手は、アシスタントディレクター岡部いさこ、ミキサーサトウさん、ディレクター浜野勉さん、そしてプロデューサー西宮ヒロキでお届けしました」
ミ)DJはミラッキ大村と。
スー)スージー鈴木でした。そして新田さんありがとうございました。
新)ありがとうございまし。
スー)どうでしたか?駆け足でしたけれども、生放送で。まだ3分半くらいありますんで。今日の感想とか。
新)フッ急にそうやって振られてもねハハッ。いや、勉強になりましたよ。
スー)いやいやこちらこそホントに勉強になりました。
新)そいで、生放送ってのはこうやってやってるんだなっていう、緊張感。
スー)いや我々半分素人みたいなんで。もっといいインタビュアーだったらもっとスムーズでしたが。
新)それから僕の本をそんなに読んでくれたのが。凄いなあと。
ミ)スージーさんは付箋がいっぱい、僕は折り目が。
スー)もっかい言いましょうか「アーティスト伝説 レコーディングスタジオで出会った天才たち」新田和長(新潮社)、税別2200円で好評発売中でございます。一番面白いのは寺尾聡「ルビーの指環」の項ですハハッ。
ミ)トイレで平原綾香さんの聞き込みができました。
スー)ちょっと今日は昭和の話が多かったハハッ。
スー・ミ)新田さん是非またお越し下さい。今日は本当にありがとうございました。が
新)ありがとうございました。
===終了===
★みにょん:新田和正さんが、収録ではなく生出演ということにまず驚いた。様々なミュージシャンとの素晴らしく素敵なエピソードが、新田さんのていねいな語り口で映像を見るように聞くことができた。そして真っ直ぐ音楽を愛し、それをきちんと世に出したいという仕事人としての姿勢にすっかり飲み込まれた2時間だった。今は音楽制作も発信もプロデュースもミュージシャン一人で出来る状況である。新田さんのように“人”を繋いで作る音楽制作というのは古いのだろうか。《僕はいいと思ったアーティストを自分で見つけて、一緒になって時間かかってもいいから成長して貰ってずーっとやってく》豊富な音楽知識と経験を持つ新田さんのような才能を見つける目、それを育てる力、を持ったレジェンド達が、日本のポップス界を世界のものにして行った事は間違いないと感じた。《音粋ヒストリア》などゲスト回では、番組構成をスッキリさせていいのではないか。22時台1曲目クイズは無しでよかった。今回クイズなければ話が盛り上がっていた赤い鳥をかけて、次にオフコース曲がかけられたのでは。またラストの来週の予告やステッカー当選者発表・クレジットは22時アタマの告知タイムでまとめて終わらせ、ゲストの話を最後まで聞いて余韻をかみしめて聞き終わりたい。今回は特にその思いを強くした。
☆来週は《第6回音粋紅白40代50代》
☆番組特製ステッカー:シェア大賞・ドMチュン:メール大賞・リスナー人生さん
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