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知らないことは罪

タントラの考え方で、無意識的であることは悪だという考え方がある。
そもそもタントラでは「悪」という考え方がほぼなく、唯一挙げるとするならばくらいの温度で、この無意識的であるということなのだ。

無意識的であるというのはどういうことか。
食肉を例にして説明してみる。
日本に住むわたしたちの多くは、スーパーやお肉屋さんで肉を買う。
冷蔵ショーケースに並ぶ肉たちはもう動物の形をしていない。
薄切りやブロックの形に切り分けられ、「死体」という名前で呼ばれたりはしない。
そして、生き物だったそれがどこでどのように殺され、誰によって切り分けられたのか、あるいはそれが殺された時の悲鳴も苦痛も、殺す側の誰かの内側に生じる感情も、流れる血の量も赤さも、その肉を切る時の感触や匂いも、わたしたちはすべて知らない。
知らないままに、「美味しい」といって大切な誰かと一緒に笑い合いそれを食する。
無意識的に生きる、ということはこういうことだ。

たしかに悪だ、と思う。
動物を直接殺す誰かより、はるかに罪深い。
けれど、わたしはそういう社会で生きていて、それしか知らない。

この文章はだからベジタリアンになりましょう、とか自分でお肉を捌きましょう、とかそういうことを言いたいのではない。

例に出したのが食肉だっただけで、それ以外でもこういったことはいくらでも起こっている。
ワクチンについて何も知らないまま、自分の子どもに接種スケジュールを組んで注射を打ちまくった母親であるわたしとか、よく言う「いじめに見て見ぬ振りをする人もいじめに加担しているよ」とか言う話のことだ。
日常の大半を、無意識に無自覚に何も考えずに行動している。

そして、知らぬ間に誰かを傷つけ、誰かに傷つけられ、加害者にも被害者にもならずに生きることはできない。
その傷の痛みに寄り添わないまま、さらに自分で自分をも傷つける。
そんなことに慣れすぎている。

けれど、それに罪悪感を抱けと言いたいわけでもない。
ただ、無自覚であることを知っておこうと思っただけだ。
知ったら、そのときに一度立ち止まって考えようという心算でいよう。
何もかもを知ることは誰しもできないし、悪だと知ってなお継続することがあってもいい。

ただ、知らないままにいることが一番罪深いと思う。

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