4/6 桜花賞の思い出
最初に見た記憶があるのは、2003年の桜花賞。ちょうどスティルインラブが勝った年だ。そのレースに出ていた「ワナ」という馬が3歳の幼児心をくすぐる名前だったらしく、レース内容などは一切覚えていないのだが「見た」という記憶は残っている。
(Wikipediaの画像より)
その翌年のダンスインザムード、さらに翌年のラインクラフトはあまり覚えていないことからも、その名前が強烈だったのは確かだ。
見た記憶でなくはっきりと「見た」といえるのは、2006年の桜花賞。キストゥヘヴンが勝ち、1番人気はアドマイヤキッスだったこのレースを覚えている理由は、祖父の出資馬であるラッシュライフが出走していたからである。
父が選び、祖父が出資しみんなで応援する――。そんな骨組みが産まれてくる前から出来上がっていた我が家の父の目は確かだったようで、父が選ぶようになってからは活躍する馬が3頭。オトメノイノリという馬がダンスパートナーのオークスで4着。次に選んだオトメの子、ピアノソナタとアドマイヤマックスの半兄ベネヴェントはそれぞれ1勝、3勝を挙げ、旧日本ダイナースクラブで選んだフライングキッドは京成杯やスプリングSでも5着と踏ん張る。
そしてそんな2人の親子が、一口馬主生涯最後に選んだのがラッシュライフだった。
函館の新馬戦をまだ若い津村騎手を背に圧勝すると、そこから函館2歳S、ファンタジーSを連続2着。(この時ファンタジーSで負けたアルーリングボイスの陰が、現在まで我々一家に馬券で付きまとうことになる)阪神JFは頓挫で回避したが、年明け初戦のチューリップ賞もちぎられた5着とはいえ2歳女王テイエムプリキュアとはタイム差なし。桜花賞でも穴人気から激走してもおかしくなく、我々一家が全員集合して見守ることとなったのを今でも覚えている。(当時から誰かが集まる、という集まり事が好きだったのもあるが)
鞍上を四位騎手に臨んだ大舞台。祖父も父もG1の舞台で出資馬が走るのは実に11年ぶりとあって、当たり前の事だろうけれどもその週は1週間中テンションが高かった。当時まだそのすごさを理解していない6歳だった私は、今考えると一部の出資者しか体験できないような物凄い体験をしていたのではないだろうか。
レースはスタート直後は中団にいたが、徐々に気合をつけられ3番手あたりの追走。4コーナーで最内を突いて2番手、先頭のアサヒライジングを目指して進出してきたときは家の中がドッと沸いた。
が、そこまで。
瞬く間に外の馬群に飲み込まれると、一気に視界の外へと追いやられ、10着。
ベガの勝負服と同じキストゥヘヴンが桜の戴冠を遂げた一方で、これまで強く、将来を期待させるような走りを見せていたラッシュは馬群に沈んだ。
恐らくあれからだったろう。競馬に対する考え方が変わったのは。6歳のクソガキだったとはいえ、3年くらいは競馬を見ていたはず。そこで自分が注目していたのはディープやカネヒキリ、アドマイヤドンやビリーヴなどの常に一線級で活躍し続ける馬。大きく負ける姿など、ほぼ一度も見たことがない。(アドマイヤドンの中山フェブラリーは見た記憶すらない。)
だからショックだった。自分の応援している馬がここまで打ちのめされるのに。それでも応援は絶対にやめなかったし、レースのたびに声援を送り続けた。だからこそ、引退までずっと応援し続けられた。
そんな過去が根底にあるからこそ、自分の好きな馬はどこまでも追いかけるというポリシーが産まれたのだろう。(予想の段階だと結構邪魔になるが、だからってどうということはない。馬券が外れても応援している馬が勝てば嬉しさ以外に襲うのは自責の念だけだし。)
結局その後ラッシュが勝ったのは降級した後のTvh杯のみで、後は惜しいレースが続くが勝ちきれない事が続き(ドラゴンウェルズやウエスタンビーナス、ブルーメンブラットやらといい勝負をしていることからも、重賞級のメンバーと差はないのだが…どこかダブルシャープも似通った面を感じてしまう。)繁殖入り。しかし子供達も優秀で、アデイインザライフが新潟記念を勝った時は本当にうれしかった。
母の無念を晴らしてくれたような感情でいっぱいになった。既に故人となっていた祖父も、空の上からテレビでも見て喜んでいただろう。現役勢もファストフォースは門別から転入後3勝クラスまで行っているし、ドゥラ産駒のアルシオーネも(気性が心配だが)実力はありそうだ。
まだまだ元気に繁殖牝馬をやっていると聞く。今年も来年も、せめて自分が会いに行けるようになるまで、元気で生きながらえてほしいと思う。自分の競馬スタイルの根底を作ってくれた彼女の事、そしてあの大敗した桜花賞を、この時期になると毎年思い出す。
だから自分は、どこか切なく、そしてワクワクするのだろう。
※今回多数の競走馬画像を引用しているため、報告等があれば該当画像は削除します。