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無職1日目
どうしたもんだろうかと思う。
新卒入社した会社を4年で辞めて次の会社に入ってから、目に見えて精神状態も体調もおかしくなって短期退職した。
確実にやめなければよかったことは確かで、でももう戻ることはできない。
何が不満でやめたんだっけ、と考える。給与だったり、人間関係だったり、任される仕事の量だったり、思い出そうとすれば色々あるのだろうが、2社目のインパクトが強すぎて今となってはもう何も浮かんでこない。
2社目を辞める時に、「早くよくなるといいね」と声をかけられた。あの時の私はこの感情の浮き沈みのことを病気だと思ったことが本当になくて、きっと病院に行ったとて個性の一部のようなものとして扱われるんだろうなと思っていたので、心底驚いた。ネットで見かける、「そのINFPってやつ、治していこうな!」みたいなそれと同じ感覚である。(余談だが私は全パーセンテージが70%越えのINFPらしい)まあ、目の前で言葉が出ず、ずっと「あ」「え」「いや」しか言えない目の焦点が合わない人間を見てしまったらそういう気持ちになるのもわからないでもないが。この環境が私をこうしたんだぞ、とは言えなかった。辞める日にやけくそのように書いた退職理由の「体調不良」の文字はあまりにも不格好だった気がする。仕事を辞めた今なら、本当に危ない状態だったことはわかる。辞める直前に感じたこと以外に関してはもうところどころ記憶が朧げになってしまっていて、何に苦しんでいたのか、何にそこまで追い詰められていたのか、あまり思い出せない。一種の防衛反応のようなものなのだろうか。風呂場でボディタオルを首に巻いたはいいが、「全裸で泡だらけのまま見つかりたくないな」と思った記憶。1日1食の生活で身体に支障を来たし、その日こそは朝を抜いたから昼を食べようとしたら「みんな朝昼抜いてることが多いよ」と言われ、自分は食い意地が張っているんだなと思ったこと。その2つだけが鮮明に脳に焼きついている。
きっとまっすぐに生きてきた人には、こういう人間のことはわからないんだろうなと思う。自分が生きていく上で、少なからず犠牲にしてきたものやこと、人のことを忘れられる人じゃないとこの世界は強く生きていけないのだろう。新卒の時、案件の値引き交渉で吐き気を催した私には無理な話なのかもしれない。私が必死に訴えた言葉は、驚くほどマイナスに変換されて、一気に病人扱いとなり、話し合いからわずか2週間で退職が決まった。切り捨てられたと思いたくなくて、自分から辞めると切り出した。そうしたら計画していた半分の期間で退職日を確定させられた。そういうものなのかもしれない。トラウマだ。仕事熱心なリーダーと仕事熱心な社長はあのまま一蓮托生で会社を大きく成長させるに違いない。リーダーの言葉を借りるのならば「淘汰」されたのは私だ。どれだけ他のメンバーから同情されたり共感されたり優しい言葉をかけられたりしても、乗り越えられなかったのは私自身の弱さでしかない。それが短期離職として結果に表れただけのことだ。
私の中で真っ先に犠牲にできるものって一体なんだろう、と考えた。前述のとおり、2社目にいるときに食を犠牲にしていたら満腹中枢がバグった。今も戻っていない。咀嚼キャンセル界隈だなんて言って笑っているけど、食べ切るまでに本当に時間がかかるようになった。このままいくとまた「自分のような人間が固形物を口にするなんて烏滸がましいのではないか」というフェーズに入りそうで悩む。自分のこと、人生のこと、推しのこと、犠牲にできなくて結局どうしようもなく全部こぼしていくだけこぼしてしまう。無能な完璧主義は、身を滅ぼすだけだ。分かってはいるがやめられない。
この半年で嫌というほど人格否定をしたしされた。自分という人間の良さがわからなくなった。今はもう自分という人間なんて存在しなくてもいいのではないかと思う。
誰かに愛されたいし愛したいけれど、自分の愛が同じほど返ってきたことなんてどれだけあっただろうか。いつも何か足りなくて、いつも自分が欠落しているように感じてしまう。家族の愛し方もきっと歪んでいるのだろうし、恋愛に関してはそもそもマイノリティを突っ走っている時点で難易度が爆上がりしている。明日のことすらわからないのに将来の方を考えても仕方がない。来月税金が払えるかどうか、それすら怪しいのだから。
人生について考える時間が、もはや自傷行為と化している。休みなよ、と言われるが金もない。休んでいる場合ではないのに抑うつ状態が加速していく。今日、経験職の求人の書類選考に落ちた。今、私は終わりの始まりを見ているのかもしれない。