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一写一文、村上 春樹の言葉を嚙みしめる その一
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村上 春樹 (海辺のカフカ 上)
ある場合には運命っていうのは、絶え間なく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。きみはそれを避けようと足取りを変える。すると嵐もまた同じように足取りを変える。何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰り返される。なぜかと言えば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係なにかじゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。だから君に出来ることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏み入れ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩通り抜けていくことだけだ。そこはおそらく太陽もなく、月もなく、方向もなく、あるばあいにはまっとうな時間さえない。そこには骨を砕いたような白く細かい砂が空高く舞っているだけだ。そういう砂嵐を想像するんだ。
予言は暗い秘密の水のようにいつもそこにある。
ふだんはどこか知らない場所にこっそり潜んでいる。しかしそれはある時が来ると音もなくあふれ出て、君の細胞の一つ一つを冷ややかにひたし、君はその残酷な水の氾濫の中で溺れ、あえぐことになる。君は天井近くにある通気口にかじりついて、外の新鮮な空気を必死に求める。しかしそこから吸い込む空気はからからに乾ききって、君の喉を熱く焼く。水と渇き、冷たさと熱という対立するはずの要素が、力を合わせて同時に君に襲い掛かる。
世界にこれほど広い空間があるのに、君を受け入れてくれるだけの空間はーそれはほんのささやかな空間でいいのだけれどーどこにも見あたらない。君が声を求めるとき、そこにあるのは深い沈黙だ。しかし君が沈黙を求めるとき、そこには絶え間ない予言の声がある。その声が時として、君の頭の中のどこかにかくされている秘密のスイッチのようなものを押す。
君の心は長い雨で増水した大きな河に似ている。地上の標識はひとつ残らずその流れの下にかくされ、たぶんもうどこか暗い場所に運ばれている。そして雨は河の上にまだ激しく降り続いている。そんな洪水の風景をニュースなんかで見るたびに君は思う。そう、そのとおり、これが僕の心なんだと。
*長編小説の冒頭の方で語られる「運命」と「予言」ですが、この二つの文章だけでも深く考えさせられます。
私たちは、日常会話で「これ運命だわ~」とか「運命的~」と少し諦め顔で言うようなことでも、内心はこの二つの文章で表わされているように「砂嵐」や「洪水」がその人には起きているのかもしれません。
要するに誰しも、暗い予言を内に内包しながら運命を歩かされている、他人ごとではないのかもしれません。
自分でも、周りにこんなことを言ったことがあります。
「人生全ての修業が必ずかかると思ってた方が良さそうだね。逃げられないよね。」
家族への愛も、友人との人間関係、職場での人間関係、職場で求められるスキル、能力、経済的自立、近所づきあい、地域社会との付き合い、親戚付き合い、法令遵守などなど何一つ手を抜けるものはない。
ちょっと苦手意識があって後回しにしていると、これでもかこれでもかというくらいに、そのことが目の前に繰り返し現れる。
砂嵐が後から後からついてくるように。
もしくは、忘れていたころに突然洪水のように溢れ出してきて、一気に追い詰められて行き場をなくす。
天気予報のレーダーに映っていた線状降水帯が、あれよあれよという間に自宅の上空に現れ、ほんの数時間で自宅が流されてしまう、現実に起きてることです。
人の心の中にも隅の隅にこの線状降水帯が隠されていて、ある日予告なしに現れ、自分に覆いかぶさり、激しく打ち付け、それまで築いてきたものをすべて流し去って、人生のやり直しを命じる。
「自分を受け入れてくれる空間がどこにもない」という状況もいつやってくるかわからない。
大なり小なり人は誰しも、こういったことと無縁では無いでしょう。
まったく大なり小なりですよね。
こういった運命や予言に完全に捕まってしまい全く身動きが取れない人。
逆に、すべてを笑い飛ばすかのような強烈な生命力の持ち主。
ただ、大概の人たちはその中間にいて、良い方に傾いたり、悪い方に傾いたり、右往左往しながら生きている。
最悪の事態だけは何とか免れようとして、それで大概何とかなっている。
声に出して泣きたくなるような状況もグッとこらえてやり過ごしている。
労働や家事、笑いや共感、感謝などで何とか前向きに時間を埋めていく。
結局、泣くのか笑うのか、自棄になるのか夢を追いかけるのか、
その人次第。
その人の自由、でしょうか。
やれやれ、小説の冒頭の二つの文章だけでここまで書かされてしまいました。
ほんとに、やれやれです。
ここまでくると、いつもこれを書きたくなります。
運命や予言から逃れられないお互いを、「けなげに生きてる」と温かい眼差しを向けて寄り添っていきたいものです。
もののあわれ、いきもののけなげ……