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キョウセイ
「どお? なにかわかる?」
「いえ、すいません」
このスッキリとして面白味のない白い箱のような部屋が、私たちの部屋なんだと彼女が教えてくれた。彼女は、そう。とだけ答えてから努めて明るい顔をした。
「焦んなくてもいいよ。これからゆっくり思い出していけばいいんだし」
「……はい」
僕が無くした記憶は、ちょうど親元を離れて仕事を始めたあたりからの6年間ほどだと思う。記憶の中の最後は、実家の天井を眺めながら眠っていたから。
「とりあえず、事務所さんからも活動休止の許可はもらえてるらしいから、しばらくは自分の身体のことだけ、考えてね」
「ありがとうございます、えーっと……」
「リンカだよ」
とても情けない気分になった。同棲していたという彼女の名前もまともに憶えていないだなんて。何より彼女に申しわけない。
「あの、すいません」
「仕方ないって。それより敬語、それだけやめてよね」
リンカは眉を下げながら笑った。恋人だというのに、この女性になんの感情も抱かない自分が、腹立たしかった。
リンカがキッチンで食事の支度をしてくれている音を聞きながら、僕はなにをするでもなく部屋の中を物色していた。無意識に記憶を取り戻す手がかりを探しているのかもしれない。
クローゼットを開けた時、僕は絶句した。そこにはいくつものダンボールが積み上げられていて、僕の背よりも高く敷き詰められていたからだ。
一番上のダンボールを恐るおそる引き抜いて開封してみると、そこには手紙の山があった。上の方にあった赤い手紙が気にかかりそれを開いてみる。
みーくんへ
生まれて初めてファンレターというものを書きます。
私は〇〇県に住む高校2年生です。
先日初めて新宿まで行って、ライブに参加して、みーくんを生で見ることができてとてもカンゲキでした!
みーくんが出てきた瞬間、夜行バスでの移動の疲れもふっ飛びました 笑
来年から受験生ですがみーくんとまた会えるのを楽し−−−
突然手紙を奪われ振り向くと、後ろにはリンカが立っていた。
「ダメだよ。刺激が強すぎて、記憶が戻ってもトラウマになっちゃうかもじゃん。焦んなくていいの」
見ず知らずの女子高生からこんなに慕われているなんて、他人事にように思えた。でもみーくんとはほぼ確実に僕のことだ。実家にいた十代の頃の記憶は確かに残っているのだから、僕の名前がミチルということくらいはわかる。ただ僕の人生の中で、両親にすらみーくんなんて呼ばれたことがないので、背筋に悪寒が走った。
「……やっぱり俺、アイドルだったんだ」
「だったじゃなくて、今もアイドルだよ」
リンカは僕から取り上げた手紙をひらひらさせながら、一瞬白々しい表情になった。
「でもいきなりアイドルやってた時のこと思い出そうとするのは良くないよ」
僕はライブ中に、頭上から落ちてきた照明の下敷きになってこうなってしまったのだと聞いた。
「うん、ごめん」
リンカは微笑み、ふうっと胸を撫で下ろした。
「ファンレターは初めてです、遠方から来ました、受験生です。……構って欲しくて仕方ないって感じね」
穏やかに微笑みながら手紙を読み上げるリンカは、チグハグな感じがして僕は気付かれないように肩を竦めた。
半月ほど、二人で生活してみてわかったことだが、記憶があった頃からそうなのか、リンカは良く気の利く女性だった。僕のことを僕より知っている。コーヒーは苦手でカフェオレをよく飲むことや、豆電球が点いていないと眠れないこと、推理小説が好きなこと。食卓にも毎回好物ばかりが並んだ。
しかし僕は、リンカが僕に良くしてくれていることが、僕の気持ちを見透かされている気がして、少し恐怖があった。
僕がそう思ってしまうのは、それこそ記憶喪失のせいなのだろう。記憶が戻ればこの不安な気持ちも払拭できるのかもしれない。
リンカの目を盗んで、僕は自分のスマホを取り出した。刺激になる情報が僕に入ってこないように、ずっとスマホは彼女が管理していたのだ。しかしこのままでは記憶を取り戻せないままだ。良くしてくれる彼女のためにも早く元に戻りたかったのだ。
とりあえず僕は、自分の名前をネットで検索した。するとたくさんのニュースがヒットした。「事故」「活動休止」「復帰」そんなキーワードばかりが目に飛び込んでくる。画像もたくさん出てきた。そこには主に黄色い衣装を身にまとい、キラキラと輝いている僕の姿が切り取られている。一枚の画像が目に留まる。それには僕以外にもう二人、僕と横並びで顔立ちのいい青年が写っていた。僕の左に赤い人、その左に青い人だ。
いくら記憶を失ったとはいえ大方予想は付く、僕はこの二人と一緒に3人組のアイドルユニットだったのだ。
僕はその画像元のウェブサイトへ飛び名前を確認した後で、急いで自分の電話帳から同じ名前を見つけ出し、すぐに電話した。
『ミチル! 大丈夫なのか?』
「うん。久しぶり、だね」
僕は電話の相手がリュウジという名前なことは把握していたが、それが赤い人なのか青い人なのかわかっていなかったので、探りさぐりに会話をした。
『でもとにかく、声だけでも聞けてよかったよ。不安定な状態だからって、接触すんなって言われてたからな』
「ごめんね。リュウジくんの方にもいろいろと迷惑かけてるみたいで」
『気にすんなって。お前のせいじゃねえよ。てか、なんだよよそよそしい。いつもみたいにリュウでいいよ……あれ、お前まさか、まだ記憶完全に戻ったわけじゃないんだ?』
「そう。何か思い出せればいいなって。リュウジくんに電話してみたんだ」
『そういうことかよ。まだ安心できるわけでもないんだな』
彼に申し訳ない気持ちになった。話を聞くと、リュウジとユニットのもう一人の青年、アスカの二人は、いつでも僕が帰ってこられるようにとこれまで以上に活動に精を出してくれているそうだ。
少し落ち込んだ声色になったリュウジだったが、すぐにまたトーンをあげて、でもな。と続けた。
『お前が記憶戻すのに前向きになってるのは嬉しいよ』
「ありがとう。君たちやリンカのためにも、頑張んなきゃなって」
『……リンカって、あの? ファンのみんなとかじゃなくて?』
「どういうこと?」
『いや、あの子のことじゃねえの? ほら、お前のファンで、でも最近エスカレートしすぎてストーカー紛いなことしてきて困ってるって、話してたじゃねえか』
「それは知らないけど。リンカは今同棲してる子の名前だよ」
『……お前、彼女いたっけ?』
その時、ゴッと鈍い音が脳内に響いて、僕はどこにも力が入れられなくなった。頬を擦り付けるように倒れ込むと、目線の先には足が見えた。リンカの足だ。
「いいよ。記憶なんて戻さなくても」
ボワボワと視界が歪んで、リンカの声が何層にも重なって聞こえる。
「リンカ……」
衝撃で落としたスマホを拾い上げたリンカは、通話相手を確認した後に電話を切った。
「リュウジの言ってたリンカは、私だよ」
なんの悪びれた様子もない告白だった。
「……なんで」
「ごめんねみーくん。今からもっと痛い思いするかもだけど、絶対に死なないでね。記憶だけ、また消えてくれればいいから、ね?」
リンカが僕を何かで殴ったのだと今やっと理解した。そして僕はまた、殴られるのだろう。脳みそを回転させると激痛が走るので、僕は何も考えないようにした。
「私、あなたナシじゃ生きていけないの。だからあなたも、私ナシじゃ生きらんなくなってね」
彼女の声だけが反芻しながら意識が遠のいていく。